彼女の夢が花開いた時、僕の夢から彼女は消える

和泉茉樹

彼女の夢が花開いた時、僕の夢から彼女は消える

      ◆


 川端ってさ、と六年ぶりに顔を合わせた小学校の時の同級生が言った。

「佐竹と仲良かったよな」

 地元の食堂の広間は同窓会特有のちょっと浮ついた喧騒に満ちていた。まだ十八歳から十九歳という年頃しかいないのでアルコールは入っていないが、空気は明るい。

 僕は隣に座る中西に、あー、などと応じて時間を稼いだ。

「佐竹って、佐竹雪?」

「そうそう。お前と佐竹、いい感じだったじゃん。俺の記憶違いか?」

「佐竹ね、仲は良かったと思うよ」

 そう応じながら、胸の内には苦いものが滲んでいた。

 佐竹雪のことは覚えている。覚えているけれど、思い出さないようにもしている名前だった。

 僕の初恋の相手はきっと佐竹雪で、佐竹を前にすると自然と湧き上がってきた感情と同じものを生じさせる相手と出会ったことは一度もない。

 この六年、彼女は僕にとって特別な存在でありながら、僕を縛りつける鎖のような存在でもあった。彼女のことがふとした時に脳裏に思い浮かぶと即座に忘れようとするのが常だった。顔も声も、六年が過ぎたとは思えないほどはっきりと記憶されていて、消す方法があるのなら大抵のものは差し出せるかもしれない。

 この時も、僕は佐竹雪の話をしながら佐竹雪を忘れようとしていた。

 そんな僕に気付くわけもない中西がオレンジジュースの入ったグラスを片手に楽しそうに言う。

「よく知らないんだけど、佐竹って今、アイドルをやっているんだってさ」

 え、と誰かの声が遠くでしたと思ったが、それは他の誰でもない僕自身の声だった。

 中西はペラペラと喋った。

「俺もお前と同じで佐竹とは別の中学だったからさ、噂でしか知らないんだけど、高校進学と同時に上京したんだと。高校は通信制で、どういう経緯があったかは知らんけど、ともかく今はアイドルらしい。だからここに来ていないとか」

「フゥン……」

 とっさに意味のない声が僕の口から漏れた。視線は手元のグラスを見ている。烏龍茶の水面には、うっすらと僕の顔が映っている。

 すぐ隣で中西がまだ何か話していたけれど、僕の思考は記憶の中へ飛んでいた。


       ◆


 小学校の教室には夕日が射していて、どこかから誰かがはしゃぐ声がしていた。

 放課後だからエアコンは使えず、窓が全開にされていた。カーテンが時折、激しく揺れて、熱風が吹き寄せていた。

 紛れもなく夏だったけど、七月だったか、九月だった。

 教室には僕と佐竹の二人しかいなくて、僕は佐竹に算数について教えてもらっているところだった。低学年の時から基本的な掛け算、九九に苦労するほど僕は数字というものが苦手だった。

 どうにかこうにかこの日の宿題をやり過ごす見込みが立って、机の上のタブレットから顔を上げた僕が勢いのまま椅子にもたれかかった時、佐竹は堪えきれずというようにくすくすと笑っていた。

「川端くん、この調子じゃ中学校の数学についていけないよ」

「佐竹はいいよなぁ、頭が良くて」

 僕は小学生の時から運動も勉強も平凡で取り柄のない子どもだった。だけど、逆にそれをネタにしていつでも笑いが取れるとも思っていて、自分に悲観的になることは少なかった。

 それに、僕が勉強ができないことで佐竹とふたりで過ごせることに高揚感のようなものを感じていた。その頃は恋というものが何かわからず、恋とは単に好き嫌いというドライなものだと想像していた。恋が単純な〇と一ではなく、もっと生々しく残酷なものだと知るのはずっと後だ。

 この頃はただ佐竹と一緒に居残りで勉強をするのが、楽しみだった。

 そう、楽しかったのだ。

 僕が無意識に笑顔になっているのに「ヘラヘラして」とちょっと佐竹は怒って見せた。

「中学校じゃ私は勉強を教えてあげられないんだよ」

「そっか、別の中学だもんな」

 僕が通っていた小学校は学区の問題で、進学する時には二つの中学校に住所によって児童が振り分けられていた。数は二対一くらいだったと思う。

 別の中学に通っても勉強は教えてもらえるんじゃないか、と変な自信があった僕は佐竹の言っていることをさほど気にしなかった。

「ま、何かあったら頼むよ、佐竹」

「私がいつまでもいると思わないでね」

 口調はたしなめるようで、表情は苦笑い。

「いつまでもいるんじゃないの? だって、別の中学でも同じ市内じゃん」

 考えなしに口にした言葉だったけど、佐竹が不意に黙り込んだので、僕も、おや、と思った。

 不思議な予感があり、言葉は自然と発せられた。

「何? 佐竹、引っ越しでもするの?」

「え? 別に、引っ越さないよ?」

 僕はじっと佐竹の顔を見て、佐竹は少しそれを受け止めてからチラッと視線を外した。時計を見たのがわかった。僕も時計を見た。いつの間にか十六時を過ぎていたのを、僕は今でも覚えている。完全下校時間は十六時だったはずだから、今思い返すと下校を呼びかける校内放送を聞いたはずなのだけれど、その記憶は少しもない。

 佐竹のもう帰ろうという無言の内の言葉に、僕は今、聞かなければいけないと衝動的に思った。

「本当は引っ越すんじゃないか?」

「引っ越さないってば」

 僕は黙って佐竹を見た。

 佐竹は居心地悪そうな雰囲気で視線を返し、それから、ちょっとだけ声をひそめて言った。

「すぐには引っ越さない」

「すぐには、ってつまりは引っ越すんじゃん」

 本当ならもっとショックがありそうなものだったけれど、僕には何の実感もなくて、むしろわざと冗談を口にしないといけないような気がしていた。

 だけど、佐竹は真剣な表情だった。

「中学は無理だけど、高校は、東京の学校に行きたい」

「東京? なんで?」

 僕はまったく話についていけていなかった。

 算数の知識で置き去りにされている僕を導く時とはまるで違って、佐竹の言葉は淀みなく、僕を完全に置き去りにして先に進んでいた。

「東京で一人暮らしして、どこかの事務所に所属して、アイドルになる」

「アイドル? は? 何言ってんの?」

「歌もダンスも勉強して、オーディションも受けて、とにかく、できることは何でもする。そう決めているの」

 佐竹はまるで何度も整理を繰り返してきたかのように滑らかに説明した。ただ佐竹の中で決まっていることが僕には想像もできないので、佐竹の言葉は大雑把にしか聞こえなかった。

 歌やダンスを練習するというけれど、それって練習すればどうにかなるのだろうか。

 オーディションだって、確実に合格するわけでもないはずだった。

 それくらいは小学生の時の僕の知識でもわかった。

 その辺りを佐竹の思考が飛び越えているわけはなかった。

 僕にとって佐竹はもっと知的で、理性的だった。

 夢に向かって走り出すとしても、必ず、考えて走ると僕は佐竹を見ていて思っていた。

 そんな佐竹が、不意に脇目も振らずにアイドルという存在を目指すと言っているのは、違和感しかなかった。

 困惑して言葉の出ない僕を佐竹は今度はまっすぐに見ていた。ブレることのない、直線そのものの強い視線が彼女の双眸から放射されていて、僕は縫い止められたように正面から受けたまま動けなかった。

「おかしいと思う?」

 佐竹の言葉に、僕はうまく返事が出来なかった。口から言葉が出なかった。

「無理だと思っている?」

 いや、とかすれた声が僕の口から漏れた。

「無理とは思わないけど……」

「けど?」

「その、なんていうか……」

 結局、僕がそれ以上の言葉が言えないうちに佐竹はにっこりと明るい笑顔を浮かべて見せた。

「実際にアイドルになるのは私なんだし、川端くんは見ていればいいよ」

「見ているって、それって、佐竹がテレビとかネットに出るってこと?」

 かもね、と言いながら、佐竹は立ち上がった。

 伸ばしている長い黒髪が、西日を受けて艶やかに光る。

 髪の毛を伸ばしているのも、将来のためなのか。

 そのことを質問しようとしたけれど、佐竹は「帰ろうか」と自分の通学カバンを持ち上げていた。僕は、ああ、うん、などと答えて、彼女の髪について質問することはなかった。

 二人で教室を出て廊下を歩く時には、将来のことなど話しも聞きもしなかったかのように僕たちは全然、別の話をした。動画配信サイトのお笑い芸人のチャンネルの話をして、僕がそのコンビ芸人のネタを一人二役でやって見せると、佐竹は泣くほど笑っていた。

 僕はその笑顔とセットで、真剣に自分の未来について語る佐竹を覚えてる。

 そして小学校を卒業してから、僕と佐竹は会っていない。

 一度も。


       ◆


「聞いてるか? おぉい、川端?」

 僕の意識は現在に復帰した。

「ああ、ごめん。アイドルグループって?」

「ま、ちょっとネットで調べてみろよ。佐竹が入っているのは、くいんびー、とか、そんな名前らしいよ」

「調べてみるよ」

「お? やっぱり川端は佐竹に興味があるわけだ」

「知り合いがアイドルになれば誰でも同じ反応をすると思うよ」

 またまたぁ、と中西が肘で僕の脇腹を小突いてくるのに、僕も笑いながら肩をぶつけ返してやった。それきり会話はまったく別の方向へ飛び、他の同窓生も話に入ってきて、佐竹のことが話題に上がることはなかった。

 会が終わって、一人になって実家へ向かう帰り道を歩きながら、僕はスマートフォンを取り出して佐竹について検索した。

 いつの間にか検索も簡単になり、「アイドル」と「くいんびー」という二つのワードで検索をかけるだけで無数の情報がヒットし、そのトップには「QUEEN B」というアイドルグループのウェブサイトが表示されていた。

 サイトに飛ぶと、女性四人組のグループだと画像で分かる。クールな印象を見る人に与える衣装を着ているので、それだけでもグループの色が見えた。

 メンバーを紹介するページに飛ぶと佐竹はすぐに見つかった。

 名前は、佐竹ゆきこ、となっている。

 顔写真も載っている。

 黒髪は想像とは違ってボブというのだろうか、肩の上で切り揃えられている。

 足が自然と止まり、夜の闇の真ん中で僕はぼうっと光を放つスマートフォンの画面に見入った。

 これが佐竹雪なのか。

 僕に夢を語って、夢を実現させた、同級生だった女の子。

 僕の頭の中で、ただの想像が千々に乱れた。

 想像の中の佐竹は必死の思いでレッスンを続け、オーディションに落ちるたびに涙し、そしてファンの前で満面の笑みで笑っていた。

 全部がただの想像、ただの空想に過ぎないのに、現実味があるのは何故だろう。

 それがアイドルというものがまとう力なのか。

 一人の女の子が空想の中で肉付けされ、ある時には傷つけられ、ある時には飾り立てられ、作り上げられていくのが、アイドルか。

 僕が同じ時間を過ごした佐竹は、ついさっきまで僕の頭の中に確かな輪郭を持っていたはずなのに、今はもう跡形もなく砕け散り、「佐竹雪」ではなく「佐竹ゆきこ」に置き換わろうとしていた。

 僕はスマートフォンをポケットに突っ込み、歩き出した。

 夏休みはまだ一ヶ月以上残っている。お金も少しは持っていた。何より僕は今、東京の大学に進学している。実家で過ごすのは楽だけれど、借りているワンルームに戻れば都心へ出るのも簡単だ。

 無性に佐竹ゆきこに会いたいと思っていた。

 彼女が今、何をしているのか。

 それを知らなくてはいけない気がした。


       ◆


 アイドル文化が現代の日本文化の大きな要素を占めているのに、僕はあまり関心を持ってこなかった。それは、佐竹雪がアイドルになりたいと言ったことが影響していたのかもしれない。

 まだ夏の盛りに僕は都心に出かけて行き、アイドルグループが何組も出演するイベント会場へ向かった。会場はライブハウスで、午前中から三十分ずつ、次々とアイドルグループがステージに立つ。特典会というものも行われるようだった。

 完全な門外漢の僕は会場に着いてもチケットを見せることさえあたふたして、フロアに入った時もどうすればいいかわからず、ともかくステージが見えればいいかと最後方に陣取った。

 空調が効いているはずなのに独特の熱気が満ちたフロアには数え切れないほどの人がいて、前方ではモッシュというのか、もみ合いも起きているようだった。今、ステージに立っているグループのファンだろうか。曲に合わせて声をあげたり、ペンライトのようなものを大勢が振っている。

 僕の目当てであるQUEEN Bの出番は次だった。

 ステージ上のアイドルグループが挨拶をしてステージから袖に消えていく。すると客が次々とフロアから出て行った。特典会へ行くらしい。僕は客の流れをフロアの隅から見ていた。みんな楽しそうだった。逆に、フロアに入って来る客もいて、自然と人の入れ替えが行われていた。客はいかにも慣れている。

 インストのような音楽が十分ほど流れてから、フロアの照明がすうっと暗くなり、いきなり客席から声が上がった。爆音で新しいインストが流れ始めると手拍子が起こった。そしてステージに四つの人影が進み出てきた。

 一度、音が鳴り止むと、爆発するように照明が強くステージを照らし出した。

 そして耳をつんざく音量でQUEEN Bの曲のイントロが流れ始めた。

 僕はステージで踊り始めた四人の女性を目で追った。音楽のボリュームが大きくて体がビリビリと震え、体を動かしていないつもりでも気付くと自然に体が揺れていた。

 歌が始まる。マイクを通して少し音が割れているけれど、迫力に圧倒される。

 三十分などあっという間だった。挨拶の後、四人がステージ袖に下がっていった。

 僕はしばらく立ち尽くし、自分が目の当たりにした光景を何度も反芻した。

 佐竹ゆきこは、僕が知っている佐竹雪とはまるで違った。

 佐竹ゆきこは、佐竹ゆきこだった。

 次のアイドルグループがステージに立った頃にのろのろとフロアを出ると、ロビーで特典会というものが行われていた。写メやチェキを撮影して、話もできるらしい。

 何を考えたのか、僕はQUEEN Bの特典会に参加する特典券を買った。よくわからなかったのでチェキ券というものにした。列に並び、少しずつ僕は佐竹ゆきこに近づいていった。

 僕の番が来て目の前にさっきまで遠くのステージに立っていた佐竹ゆきこが現れた。

 彼女が何か話しかけてきて、僕はどう答えただろう。きっと、まともなことは言えなかっただろう。

 僕は佐竹ゆきこの前を離れて、その時には手には一枚のチェキがあった。

 佐竹ゆきこが映っていてサインも書かれている。僕の宛名も。「かわばたさんへ」と書かれている。

 よろよろと歩き出しながら、僕は思った。

 僕が知っている女の子はアイドルになった。

 アイドルになって、消えてしまった。

 今は別の女の子になって、大勢の前に立っている。

 僕が見ていた女の子は、誰だったのだろう。

 僕の記憶に焼き付いている女の子は、幻だったのか。

 あるいは、僕は本当の佐竹雪を見ていなくて。

 佐竹ゆきこという女の子が、あの時から目の前にいたのか。

 周囲の喧騒が遠ざかる。

 僕の思い出が遠ざかっていく。



(了)

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彼女の夢が花開いた時、僕の夢から彼女は消える 和泉茉樹 @idumimaki

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