第36話 Seesaw(美也子)⑨

 手をつないだまま駅と反対方向へしばらく歩いて、繁華街から少し離れた細い道沿いに、そこはひっそり佇んでいた。

 ピアノの生演奏が聞ける落ち着いた雰囲気のお店だそうです、という彼の言葉どおり、Robin's Nestというまさに隠れ家にぴったりの名前のお店だった。

 こういう場所って、他にお客さんが誰もいないと落ち着かないし、逆に混みすぎていると、周りが気になって話すのをためらってしまう。幸い、ほどほどな数のカップルがいて、しかもテーブルとテーブルの間はきちんと程よいスペースがとってある。カウンターも広々としていて、ひとりでもくつろげそうなお店だった。

 カウンターの隅の席に着いてカクテルを注文してから、ちょっとごめんなさい、と断って席を立って、お手洗いで簡単にメイクを直した。さっき突然手を掴まれた時に、びっくりしすぎてぶわっと汗をかいてしまったような気がしたから、さっとウェットシートで首回りも拭いて、軽く香水もつけなおした。

 席に戻ると、あたしが座ったタイミングで、彼はカウンターの内側にいるバーテンダーに目配せをした。

「ねえ、美也子さん。ひとつ忠告しておきますね。飲み物を注文してから中座するのは、やめた方がいい」

「え?」

「席を外している間に、薬でも盛られるかもしれない」

 薬? 一体なんの話?

 絶句していると、「もちろん、ぼくはそんな真似絶対しませんけど」と笑って見せてから、少し真面目な顔になった。

「睡眠薬です。被害に遭ってる女性、意外と多くて。うちでも相談受けたことありますから」

「警察に行かないで、弁護士さんのところなんですか?」

「警察は敷居が高いのかな、おそらく。自分に落ち度があった、と後ろめたくもあるのかも」

 レイプドラッグのことは聞いたことがあったけれど、まさかそういう風にお酒に盛られる可能性があるだなんて、考えたこともなかった。でも、言われてみれば、確かに気を付けた方がよさそうだ。

「青い色のカクテルを勧められたら、怪しいと思った方がいい。睡眠薬は、液体に溶かすと青くなるので、誤魔化すのにうってつけだ」

「怖いですね……」

「ええ。眠っているうちにあれこれされて、完全に記憶が飛んでしまうから、本人がほとんど覚えていない。でも、調べると、尿から睡眠薬が検出されて、というケースが多くて……ああ、すいません、なんだか怖がらせてしまったみたいで」

 お待たせしました、とちょうどカクテルが運ばれてきた。

「美也子さんが戻ってきてから作ってください、とお願いしておいたんです」

 どうぞ、とオレンジ色のカクテル――バレンシアが目の前に置かれる。

 そういえば、ガーデンパーティーの時もこれを飲んだ。このひとがテーブルから取ってくれて。まさかあの時は、こんなふうに二人きりでお酒を飲むことになるなんて、思いもしなかった。

 左隣には赤みを帯びた琥珀色のカクテル――マンハッタンが置かれた。

「マンハッタンって、ウィスキーがベースでしたっけ?」

「ええ。よく知ってますね」

「ルームメイトがすごく好きなんですよ、お酒。カクテルも詳しくて」

「なるほど。あ、一口飲んでみます?」

 すっと目の前にグラスが滑ってくる。変に遠慮するのもおかしな気がして、じゃあ、せっかくなので、と一口いただいた。

「あ、思ったより甘い」

「スイートベルモットが入っているので、口当たりは甘いですよね。ああ、でも、けっこうまわりますよ、気をつけないと。もちろん、そのバレンシアも」

 確かに、と初めて飲んだときのことを思い出した。甘くておいしい、と調子に乗って3杯飲んで、ふらふらになったのだった。

 今日は気を付けて飲もう、と自分のグラスに口をつける。オレンジそのもののような爽やかな口当たりでとてもおいしい。ちゃんと搾りたてのオレンジジュースを使っているようだ。

 ピアノがガルデルの『想いの届く日』を奏でていた。さっきお店に入ったときには『My eyes adored you』が演奏されていた。ジャンル問わず、スタンダードナンバーが流れるらしい。

 しばし、ピアノに耳を傾けながら、あたしたちはカクテルを味わった。不思議なことに、沈黙が落ち着かない、とは思わなかった。さっきの外でのやりとりの余韻でまだ少しドキドキはしているものの、緊張はない。妙なたとえだけど、何かに緩やかに感電したような気分だ。

 そうだ、訊きたいことがあった、と思い出す。

「ねえ、小野田さん。源氏物語、どうしてそんなにお好きなんですか?」

 ずっと気になっていた。学生時代にはまったらしいけれど、さっきの若紫への千尋の和歌をさらりと口にした様子には、またしても驚かされた。普通のはまり方で、あそこまでにはなれっこない。

 ああ、話すと長いんですが、と彼は前置いて言った。

「きっかけは、田辺聖子さんの『新源氏物語』なんですよ」

 思わず、嘘、と声が出た。

「あたしもそれです、最初にはまったの」

「お。嬉しい偶然」

「ね」

 なんだかとても嬉しくて、お互い笑顔になった。

 彼はカクテルを一口飲んでから、ふう、と懐かしそうにため息を漏らした。

「文章がとても美しくて、でもすごく読みやすかった。図書館で何気なく手に取って、気づいたら閉館時間までずーっと読み耽っていた、っていう」

「うわ。ほんとに?」

「ええ。たまたま実家が増築工事してて、うるさくて。それで、受験勉強しに連日図書館通いしていた頃だったなぁ。高3だったから、切羽詰まってたはずなのに、あれはやばかった。気分転換の読書、のはずが勉強そっちのけになってしまって」

 すごい集中力だ。まあ、司法試験に受かるくらいだから、集中力は当たり前で、頭だってものすごくいいんだろう。

 それにしても、お兄ちゃんといい、このひとといい、あたしの周りはガリ勉ばっかじゃん、となんだか可笑しくなってくる。

「結局、全部借りて帰って、その日は完徹して、宇治十帖の方まで全部読んで。もう、魂が完全に平安時代にトリップしてたな、あれは」

「あはは。でも、わかるかも」

 あたしも、田辺聖子の『新源氏物語』は小学5年生の時に初めて読んでから、中学、高校、と何度も何度も読み返した。

 しっかりした現代語訳ではないものの、原作にはかなり忠実だ。かつ、初めて読む人にもとてもわかりやすい補足がしてあって、お話にぐいぐい引き込まれる。特に、藤壺との密通のシーンなんかは、原作ではほのめかされているだけなのに対し、『新源氏物語』ではちゃんと描かれている。特に事後のシーンがとても色っぽくて、小学生のあたしは、もう、ドキドキしながらページをめくったものだった。

 その後、原文で源氏を読むハードルもおかげですっかり下がって、中学の頃には、大学で源氏物語を勉強しよう、とすでに決めていた。

 左側を見やると、やっぱりなんだかとても幸せそうな顔をした彼と目が合った。

「国語便覧で目にしてた、いわゆる平安顔の男女のあれこれ、というより、現実の恋愛のように鮮やかにイメージできた、って感じかな。もちろん、あくまで物語、と頭でわかってはいても、すごく引き込まれたなぁ」

「だって、ほんとにリアルに見えるもの」

「そうそう。まさにリアルだ」

「だから、あたしもはまっちゃったのかも。きちんと平安の香りがするのに、光源氏がちゃんと目の前で生きて呼吸をして、女を口説いて、やりまくってる、っていうのが、ほんとリアル」

 言ってしまってから、しまった、と思った。『相変わらず品がないな、新聞記者のくせに』という台詞がまたまた脳裏でこだまする。当然、淡々としたお兄ちゃんの声で。

「ごめんなさい……品のないこと言って」

 さすがにばつが悪い。けれど、彼は全く意に介した風もなく、相変わらずすごく楽しそうだ。

「率直でいいな、その表現。まさにそうだ。で、やりまくった結果、自ら悩みを積もらせてる。自分から苦悩の種を撒いて、物思いに耽っている。こういう言い方すると、風情がないけど……源氏ってドM男なんじゃないか、ってぼくは思ったなぁ」

「あはは……そうかも。まあ、でも。かわいそうな人ではあるのかな。だって、初恋のひとが、父親の想い人だもん」

「まさに少女漫画もびっくりの設定だ」

「言えてる」

 いつの間にかすっかりくだけた雰囲気になっていた。そして、どちらのグラスも残りあとわずかだった。

「何かお作りしましょうか?」

 ごく自然に、バーテンダーが尋ねてきた。

 さすがは接客のプロだ。今の今まで、カウンターの内側でグラスを磨いたり、あたしたちとは反対側のカウンターの端にいるお客さんと話をしたりしていたのに、ちゃんとグラスの中身を見ているらしい。

 せっかくだからプロにお任せ、というのもいいかも、と思って「ラムベースで何かおすすめありますか」と尋ねると、コロンブスはいかがですか、と提案された。レモンジュースが入ってさっぱりしています、と。

「おいしそう。それにします」

「じゃあ、ぼくも同じラムベースで、ブラックデビルを」

 それぞれ二杯目を注文して、残りのカクテルを飲み干した。

 ふと、ねえ、美也子さん、と呼ばれて左側を見やると、ピックに刺してある赤い果物が差し出されていた。マンハッタンに入っていた砂糖漬けのレッドチェリーだ。

「食べます?」

「いいの?」

「どうぞ」

 これ、おそらく種は抜いてあるはずだ。このまま食べて平気だろう、と思って、特に何も考えずにそのまま口を開けて、ぱくっとかぶりついた。

 一瞬、まったく無防備な驚きの表情が彼の顔に浮かんだ。初めて見る顔だった。ポーカーフェイスは得意中の得意、だなんてさっき言っていたくせに、明らかにまったく表情を作れていない素の顔で、あたしの方こそ驚いた。

 すぐに、ふっ、と笑顔になって彼はつぶやいた。

「それ、やばいよ、美也子さん」

「え?」

「もしかして、酔っぱらった?」

 ずいぶん嬉しそうに言われて、とたんに恥ずかしくなる。

「え……あ、ごめんなさい」

「そういうことされると、ポーカーフェイスしようにも、無理だ」


 それから、二杯目のカクテルを飲みながら、あたしたちは引き続き源氏物語の話で盛り上がった。田辺聖子の『新源氏物語』のあとは、彼はなんと原文で源氏を最初から最後まで全部読んだらしい。しかも、和歌までほぼ暗記する勢いで、何度も何度も。

「源氏って古文の敬語の勉強にはうってつけで。それに、和歌も。技巧的な歌も多いから、修辞法の勉強にもなったし、本歌取りの元歌なんかも自然と覚えられて、おかげで、入試はほぼ困らなかったなぁ」

「そうかもしれないけど、専門でもないのにそこまで原文読み込んでるって、信じられない」

 呆れるあたしに、彼はこともなげに言うのだった。

「まあ、読むの、全く苦じゃないので」

 ああ、ここにも活字中毒がいた。このひとも、お兄ちゃんと同じ人種だ、とため息がこぼれそうになった。

 話が途切れたタイミングで、彼はあたしに尋ねてきた。

「美也子さん、今日は、仕事忙しかった?」

「わりと。ホントは、明日行くはずだった取材が繰り上がって、午前中にすぐ出ることになって。県内の中学、高校の先生にリレーで取材する、って企画で」

「へえ、面白いなぁ。今日はどこに?」

「県内一番手の高校。実は、兄の母校で。そこの養護教諭の先生に、今どきの高校生の実態をたっぷり語ってもらって……なかなか面白かった」

「自分は中高一貫の男子校だったから、あまり面白いこと、なかったなぁ」

 はあ、としみじみため息を吐く姿が、なんだか可愛く見える。中高一貫校か。たぶん、名門校なんだろう、なんて思っていたら、またしても思考を読まれたらしい。

「偏差値はそこそこの、ごく普通の男子校。まあ、気楽ではあったけど、女子のいない寂しい青春時代を18まで過ごした、っていう」

「あはは……そうだ。今日、取材中に見せてもらったアンケート結果だと、半分くらいの子たちが、高校在学中にファーストキスを経験する、って」

「あー。共学はちゃんと青春を謳歌してて、結構なことで」

 うっすら恨みがましさも混ざった台詞を口にしてから、彼はちょっと意味ありげにあたしを見た。

「美也子さんは? その半分に、入ってた?」

「ええ、まあ」

「お相手が羨ましい。どんなひと?」

「もう、忘れちゃった」

「初めての相手なのに?」

 誤魔化そうとしたのに、なかなか追及は厳しい。とりあえず、あたしは一口カクテルを飲んだ。

「……思い出フィルターの向こう側の、遥か彼方の出来事だもの。ぼんやり霞んで、美しく見えてるだけだ、ってわかるくらいには、もう、あたし、大人になってしまった」

 お酒がまわったせいか、つい、そんなことまで口にしてしまった。すると、彼はあたしの目をじっと見てこう言った。

「じゃあ、ぼくでも勝てるのかな、その思い出には」

 左側に座る彼の目を、黙って見つめ返した。

 違うよ。勝負する相手は、そっちじゃない。

「……すっごく正直で、誠実で、でもずるい男だった」

 質問には答えず、彼から視線をそらして再びグラスに口をつけた。

「傍にいられないと、好きでい続ける自信がない、ってはっきり言う、正直で、ずるい男。でも……」

 あたしは、再び左隣を見た。じっとあたしの目を見る彼を。

「もう、シーソーは終わりだよ。ほら、一緒に降りよう、って、そう言ってくれただけ、ずいぶんましだった。あたしひとりをシーソーの片側に残して、他の女と別のシーソーに乗るような男なんかよりも、ずっとずっとましだった」

 だめだ。どうしてこんなこと――このひとに、いったいどこまで話すつもりなんだろう、あたし。

 怖くなって目をそらそうとすると、膝の上のあたしの左手に、そっと彼の手が重なった。誰からも見えない、カウンターの下で。

 全部、吐き出してしまえばいい。最後の最後の一滴まで、すべて。

 彼の目はそう言っていた。

 不思議とあたしはほっとして、気づくと言ってしまっていた。

「……もう、わかるでしょ? あたし、遠距離恋愛が怖い。浮気されるのが怖い。離れてると、気持ちが凪いでいくのは仕方ない、だなんて言われるのは、もう嫌」

 思ったよりも静かな声が出て、自分でも驚いた。涙が出るかと思ったのに、不思議なほど心が穏やかだ。

 握られた手から伝わってくる体温がなんだか心地いい。台詞のシリアスさとまるでちぐはぐな自分の心のありように戸惑いすら覚えながらも、あたしはどこかで納得していた。

 たぶん、全部、受け止めてくれる。

 このひとなら、あたしをまるごと、受け止めてくれる。

 もう、とっくにあたしは――

 重なった手が、ゆっくりあたしの指を滑っていた。優しく、彼の指があたしの指の間に滑り込んでいく。少し艶めかしいうっとりするような仕草だった。

「少しくらい離れていたって、大丈夫。好きだと思ったら、いつも心にあるから。現に、ぼくは源氏物語に夢中になりすぎて、ずっと心を囚われたままだ」

 そう言って、静かに彼は口ずさんだ。

「ねは見ねど あはれとぞ思ふ 武蔵野の 露分けわぶる 草のゆかりを」

「……ねえ、よりによって、その歌? この状況で」

「ああ、さすがにまずかった? すいません、つい本音が出た」

「えっち」

「さっき言ったよ、ぼく、どっちかというと肉食男子だって」

 まだ一緒に寝てはいないけれど、あなたを愛しく思います、というストレートな求愛の歌――源氏が若紫に宛てた歌だ。

「でも、そのくらい、もう美也子さんに夢中だってこと。ちょっと離れたくらいで凪ぐなんて、とんでもない。それに……」

 ちょっとおどけた様子から、彼は再び真顔になった。

「ぼくは定めなくあっちこっちの女性に通ったりしない」

「それ、さっきも……」

 言いかけたあたしを遮るように、彼の指があたしの手のひらを滑る。少しどころか、今度ははっきり艶めかしい動きに、不覚にも吐息が漏れそうになる。

「あちこちにばらまいたりしないで、本当に好きなひとだけに全部注ぎたい、自分のすべてを。何度でも言うよ。美也子さんの気持ちを動かすためなら、なりふりかまわず、何度でも」

 はあ、と、変なため息が漏れてしまった。

 もう、だめ。心臓が壊れそうだ。

「……とっくに、動いてる。もう、降参」

 ちらりと横目で窺うと、すごく嬉しそうに目を細める彼と目が合った。ぐいっと手を引っ張られて、ほんの一瞬だけ、唇があたしの髪に触れた。

 まったくの想定外、というわけでもなかったけれど、当然、驚きはした。このひと、意外と手が早い、とちょっとドキドキしてもいた。

 ちょうどそのタイミングで、ピアノが新しい曲を奏で始めた。

「ああ……これ、好きなんだ。美也子さん、知ってる?」

「Time after time、だっけ?」

「そう。今のぼくの気持ちを代弁してくれているみたいで嬉しいなぁ」

 気持ちを代弁? ああ、でも、ピアノだけだと歌詞がわからない。

「高校の時、英語の授業で、歌詞のディクテーションさせられたことがあって、よく覚えてる。それから、すごく好きになって」

 彼は、小さな声でピアノに合わせて口ずさんだ。

 Time after time

 I tell myself that I'm

 So lucky to be loving you

 So lucky to be

 The one you run to see

 In the evening when the day is through

「何度も何度も、ぼくは自分に言い聞かせてる。あなたを愛していて、自分はラッキーだ、って。一日が終わって、夕方にあなたがすっ飛んで会いに来てくれるのが自分で、ほんとにラッキーだ――そういう歌。まさに今のぼくの気持ちを代弁してくれてる。実にタイムリーだ」

 すっかり口調がくだけて敬語じゃなくなっても、こうやって臆面もなくこんな台詞をさらりと口にする。

 もう慣れてきた。ううん、違う。あたしは確かに、ちゃんと嬉しいと思っている。

「そうやって女を口説くのも、源氏物語で学んだってこと?」

「まさか」

 ふっ、と彼が笑う。もちろん、営業スマイルじゃない、ちゃんとした微笑みだ。笑顔のまま、すいっ、と残りのカクテルを飲み干した。

「対女性に関しては、源氏は反面教師だ、完全に。あっちこっちに手を出して、悩みの種を抱え込むような真似、ぼくは御免だな」

「マメなとこは源氏っぽいけど」

「ぼくがマメなのは、美也子さんだけ。そもそも、ストライクゾーン、すごく狭いし」

 え、そうなの? 意外だ。なんとなく、このひと、来るもの拒まず系かと思っていた。もちろん、さすがに口には出さない。

 さらに、ずいぶん嬉しそうにこんなことまで言い出した。

「美也子さんはね、もろ、ど真ん中」

 顔色はまったく変わっていないけれど、たぶん、このひと酔っぱらってるんじゃないかな。一杯目のマンハッタンに引き続き、二杯目のブラックデビルも結構強そうなカクテルだったし。

 けれど、ここまで言われたら、さすがに気になってしまうのだった。

「ねえ、ちょっと恥ずかしいんだけど……訊いてもいい?」

「なんなりと」

「あたしのどこを好きになってくれたの?」

 彼は一瞬目を見開いてから、すぐにふっ、と再び嬉しそうに微笑んだ。

「かわいいところ」

「え」

「見た目も、性格も。全部かわいい」

 呆気に取られたのと、恥ずかしいのとで思わず絶句してしまう。

 かわいい? あたしが? 噓でしょ、それ絶対。

 かわいいっていう形容詞は、ひとみちゃんあたりに使うべきなのに。

「それから……」

 どういうわけか、落ち着きなく彼の視線が泳ぐ。

「怒らないなら正直に言うけど……怒らない?」

「そんなの、聞いてからじゃないと、わからないし」

「脚。すごく綺麗だ」

「え」

「最高」

 うっとりしたように目を細める様子に、あたしはちょっとだけ引きそうになった。だめだ、この酔っぱらい。

 未だに膝の上のあたしの左手に触れていた彼の手を、思いっきりつねってやった。

「痛っ」

 セクハラされた、って訴えようかな、と呟くと、彼は慌てたように目を伏せた。すいません、ちょっと調子に乗りました、と。


 お店を出ると、10時を回っていた。

 家まで送るよ、という彼の申し出に素直に甘えることにした。20分くらい歩くことになってしまうのに「その分一緒にいられるから、むしろ喜んで」と言ってくれて嬉しくなった。

 手をつないで歩きながら、これからのことを話した。

 彼が出張でこちらに来るのは、月に二度ほどらしい。あたしも出張することはあるけれど、行先はまちまちだ。

「仕事が立て込んでいなければ、週末に会いに来られる。新幹線ですぐだし」

「あたしも、週末には会いに行けるよ」

「お。いいね。横浜、案内するよ」

「ケーキ屋さん?」

「うん。ほかにも、いろいろ。楽しみにしてて」

 にっこり笑って彼が言う。

「電話するよ。毎日でも」

「うん。あたしも、電話する」

 不安がまったくないわけじゃない。けれど、これから先が楽しみで仕方ない、というとても不思議な感覚だった。

「仕事も忙しいし、あっという間にまた会える日がくるよね」

「頑張って働いて、二人でたくさん遊ぼう」

「うんうん。また美味しいもの食べたい」

「美也子さんが食べてるとこ、ホント好きだ。美味しそうに食べるから。食べっぷりよくて、気持ちいいよ。それにかわいいし」

 こんなふうに言ってもらえたこと、これまでになかった。しかも、心からの言葉だと今はちゃんと信じられる気がしていた。昨日の晩に泣いたのが嘘みたいだ。

 傍にいられなくても、こうやって電話で話すだけでも。

 この言葉を、このひとからもらえて、嬉しい。

 話しているうちに、あっという間にマンションの傍まで来ていた。名残惜しく思っていると、ふと、ねえ、美也子さん? と呼ばれた。

「なあに?」

「昨夜ね、電話のあとで、本当はすごく心配だった。かけ直そうかとすごく迷って、結局、やめたんだ」

 少し困ったような顔で彼は言う。

「昨日の時点では、ぼくにできることは何もなかった。それがとても残念だったけれど、仕方のないことだ。でも、もうこれからは……」

 真剣なまなざしを向けられて、心臓がびくっと跳ね上がる。視線をそらそうとすると、つないだ手にぎゅっと力がこもって、そのまま引き寄せられた。

 彼の両腕がそっとあたしの身体に回る。まるで壊れ物でも扱うように、とても優しく包み込まれていた。愛おし気に髪にほおずりする仕草に、胸の奥がじわりと切なく疼く。

「何か不安だったり、辛かったりしたらすぐに言ってほしい。遠慮しないで、すぐに。ひとりで辛くなって、泣いたりしてほしくない」

 初めは遠慮がちにそっとあたしを閉じ込めていた腕に、しだいに力がこもっていった。

 ちょっと改まったように、彼が言う。

「美也子さん、大好きです。大事にします、あなたのこと」

 ああ、もう、だめ――彼の腕に包まれたまま、涙が込み上げてくるのを感じていた。

 こんなにシンプルな言葉が、これほどまでに嬉しい。

 そして、なぜかちゃんとわかる。

 このひとは、あたしを大事にしてくれる。100パーセント、信じることができる。

 涙を見られたくなくて、ぴったり彼の胸に顔をつけたままでいると、心配そうな声がした。

「……泣いてるの?」

「ごめん」

「謝らなくていいよ」

「幸せすぎて、泣けてきたの」

 そっと肩を掴まれて、顔を覗き込まれる。小さな外灯の光を受けて、彼が微笑んでいた。

「泣き顔もとてもかわいいけど、笑ってる方が美也子さんらしいよ」

 指でそっと涙を拭ってくれた彼に、あたしは笑って見せた。たぶん、泣き笑いみたいな、変な顔になってると思う。それなのに。

「うん。すごくかわいい」

 そう言ってわたしのほおに触れ、そのまま唇が重なった。甘い、お酒の味のするキス。

「……拓弥さん、あたしも大事にするよ。あなたのこと」

 唇が離れたほんの一瞬、そう呟くと、ふうっ、と彼は小さなため息を漏らした。ちょっと苦しそうな声する。

「やばいよ、それ、美也子さん」

 言い終わるやいなや、再びキスが落ちてきた。顔を傾けて深く口づけてきた彼に、あたしも応えた。ときおり鼻から抜ける吐息はどこか切なげで、でもとても優しいキスだった。

 こんなに幸せなのは、初めてだった。

 いつまでも、こうしていたかった。

 このキスがいつまでも終わらなければいい――ただそう願いながら、あたしは彼の腕に抱かれて、目を閉じていた。

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