第35話 Seesaw(美也子)⑧

 会社を出て待ち合わせ場所に向かいながら、再度時計を確認した。6時まであと20分。ちょうどいい時間だ。さほど几帳面なタイプでもないけれど、時間に関してだけは昔からきっちりしているのが密かに自慢だったりする。約束に遅れたことは一度もない。

 5時半を回っているとはいえ、季節柄まだまだ明るい。このあたりはオフィス街で、今時分に行き交うのは仕事帰りと思われる人が大半だ。今日はそれに交じってずいぶん子どもの姿が多いな、と思っていると、近くにある学習塾がちょうど入れ替えの時間らしい。小中学生と思しき集団で、入り口付近がずいぶん混雑している。ああ、ここ、あたしも通ってたなぁ、なんて少し懐かしく思い出す。

 大きな通りに出て少し歩くと、道路を挟んで向こう側、繁華街の一角にある真新しい洋菓子店が見えてくる。奇しくも、お兄ちゃんがひとみちゃんと再会したあの晩、ケーキを買ったお店で、そこに併設してある喫茶コーナーが、今日の待ち合わせ場所だ。

 横断歩道を渡ってふとガラス張りの喫茶コーナーに目をやると、すでに彼は窓際の席に座っていた。店の人と何か話しているようだ。しかも、えんじ色の制服と同じ色の帽子を身に着けたあの姿は、例のコルドンブルー出身のここのチーフパティシエだ。以前、うちで特集を組んだから、よく覚えている。残念ながらあたしが取材したわけではないけれど、ここのケーキは好きでよく買いに来ているから、奥で作業している姿を何度も見たことがある。

 まじまじ見ていると、彼が――小野田弁護士が気づいて笑顔で手を振ってくる。思わず、あたしも手を振り返してしまった。すぐに、なんだか恥ずかしくなって目をそらした。まだ10分以上前なのに、ずいぶん早い。やっぱり、職業柄、待ち合わせをすることは多いのだろう。

 入り口からまっすぐ喫茶コーナーに向かうと、彼は笑顔で席から立ち上がった。

「お久しぶりです、美也子さん」

「小野田さん、ご無沙汰してます」

 お辞儀して向かいに座ると、すぐに彼は尋ねてきた。

「ねえ、美也子さん。食事前に甘い物食べるのって、抵抗あります?」

「全然」

 少々面食らったものの、間髪入れずに首を振った。

「いつなんどきも、甘い物は別腹なので」

「よかった」

 やたらと嬉しそうにされて、ちょっと焦る。

「実はさっき、ちょっと訊いてみたんです、ここのパティシエさんに。食事前なので、あまり重くなくて何かお勧めはありますか、って」

 なるほど、さっきの光景はそういうことか、と納得する。

「小さなタルトが数種類、新作なんだそうです。桃と洋ナシをお勧めされたんですが、いかがですか?」

 タルト! もう、大好き。というか、数種類の新作、全部食べたいくらいだ、とこっそり思いながら、自然と顔が緩んでしまう。

「ぜひ。タルト大好きなので」

「よかった。あ、紅茶とコーヒー、どちらがいいですか?」

「じゃあ、紅茶を」

「わかりました。ちょっと待ってくださいね」

 すぐさま手際よく注文する様子に、なんだか感心してしまう。しかも、お店の人に対する物腰や言葉遣いがすごくきちんとしている。まあ、職業柄、当然なのかもしれないけれど。でも、プライベートだと、店員になぜか横柄な人がわりとよくいる。正直、そういう人はすごく苦手だ。理由もなく人を見下すなんて、いったい何様?と思うし、もしも彼氏がそんな態度なら、いずれ自分もそういう風に扱われるのでは、とあっという間に気持ちが冷めてしまう。

 ほどなく、かわいらしいプレートに載ったタルトが二つと、プレートとおそろいのカップに入った紅茶が運ばれてきた。小ぶりだけれど、ナパージュでつやつや輝く桃と洋ナシがこんもり贅沢に山盛りされていて、とても美味しそうだ。

 思わず、ため息がこぼれてしまう。

「わあ、すごい……」

「気に入ったみたいでよかった。どうぞ」

 向かいでにっこり微笑まれて、なんだか落ち着かなくなってきた。ひとまず、フォークを手に取った。

 桃の方をまず一口食べると、見た目を裏切らない素晴らしい味だった。コンポートにした桃の舌触りは滑らかで、中のカスタードクリームとの相性も抜群だ。

「とっても美味しい」

「紅茶もどうぞ。夕方限定で出している紅茶らしいです」

「いい香り。さくらんぼ? かな」

「みたいですね」

 小野田弁護士は紅茶を一口飲んで、あ、と思い出したように付け加えた。

「デカフェなので、夜眠れなくなったりの心配はないです」

 なんだろう、この細やかな気遣いは。軽く感動すら覚えそうになりながら、あたしは紅茶をいただいた。控えめで上品な香りで、とても美味しい紅茶だった。これでデカフェなら、買って帰って夜中でも気にせず飲みたいくらいだ、と思ってしまう。

 あたしの反応に安心したのか、彼は向かいでようやくフォークを手に取り、自分の分のケーキを食べ始めた。

 綺麗な深緑のポロシャツにベージュのボトムス。さりげなくおしゃれできちんとして見えはするけれど、仕事帰り、という感じではない。いわゆる弁護士バッジらしきものも着けていない。

「5時過ぎに仕事が終わったもので、ホテルにチェックインして着替えてきたんです」

 まじまじ見ていたから、思考を読まれてしまったらしい。ちょっとばつが悪い。

「スーツだと、暑いですものね」

「ええ。ああ、でも、横浜よりはずいぶん涼しいですよ」

 ひとつ食べ終わってフォークを置き、しばしあたしをまっすぐに見てきた。

 観察されているようで、再び落ち着かなくなる。

「美也子さん、今日もとても素敵ですね」

「……あ、ありがとうございます」

「正直、意外でした。もっと隙のない感じのファッションでお仕事されてるんじゃないか、と勝手に想像していたもので」

 まさにこのひとの言う通りだ。普段、通勤着はパンツスーツと決めている。なにしろ動きやすいし、ストッキングの伝線を気にする必要もない。女を前面に出さない方が侮られる心配もなく、仕事に集中できる。そして、なにより、セクハラまがいのことをされずにも済む。

 適当に理由をでっちあげて言い訳することもできたはずなのに、気づくとあたしは正直に言ってしまっていた。

「……せっかく誘っていただいたので、今日はきちんとおしゃれしようかな、って」

「嬉しいな。ちゃんとデートだって思ってくれてました?」

「同僚には、デートでしょ、って言われました」

「美也子さんは?」

 さっきまでの穏やかな笑みが一瞬消えていた。半ば本気の問いかけのようにも思えて、焦る。あたしはとっさに視線をそらした。

 もう一つの洋ナシのタルトにフォークを入れ、口に運ぶ。ああ、こっちもうっとりするほど幸せな味がする。

 仕事で疲れたところに、美味しいケーキと紅茶。しかも、少しも押しつけがましくなく、ちゃんと丁寧にあたしの希望を尋ねてくれる。

 こんなふうにお姫様扱いをされたこと、今の今まで一度もなかった。

「……ずるいひと。こんな風におもてなしされたら、デートだって思わざるを得なくなるし」

 ふっ、と向かい側で小野田弁護士が微笑んだ。いわゆる営業スマイル的な綺麗な笑みじゃなく、すごく嬉しそうに見えて、またまたあたしは焦ってしまいそうになる。

 どうしよう。会ってまだ30分足らずなのに、すっかりこのひとのペースだ。決して嫌ではないけれど、なんとなくあたしは怖くなりかけていた。

「あ、そうそう。カレーの食べられるお店、候補を見つけておいたんですけど」

 あっさり話題が移って少しほっとしたのと、拍子抜けしたのと半々だった。

「ここから歩いて行けるところを、3つほど」

 牛すじカレーが食べられる、この通りをまっすぐ行ったところにあるお肉屋さんの隣のお店。

 辛いのが平気なら、中通りを入ったところにある、スパイス専門店に併設しているカレー店。

 トッピングやサイドメニューを楽しみたいなら、駅の方へ15分くらい歩いたところにある、近頃オープンしたばかりの洋食店。

 手帳やメモを見る様子もなくすらすら挙げる様子を、半ば呆気に取られて見ていた。

「美也子さんの好みで決めましょう。または、どこかおすすめがあるなら、この3つ以外でも全然OKです」

 ちゃんといいお店を押えていることに、感心してしまう。

 最初の二軒は、地元民にもとても人気が高く、何度か行った。間違いなく美味しい。ただ、肉屋さんの店のものよりも、実はひとみちゃんの牛すじカレーの方が数段美味しいのだった。

 そう言うと、小野田弁護士は意外そうに目を見開いた。

「あの若さで、お料理も上手なんですか……すごいな」

「ホントに兄にはもったいないです」

「実はさっき、会ってきたんですよ、お兄さんとひとみさんに」

「え?」

 どこか意味ありげな笑みが口元に浮かんでいた。

 なんだろう、と思っていると、まあ、まずはお店を決めて移動してからにしましょう、と促された。

 オープンしたばかりだという洋食店には行ったことがなかったので、そこにすることにした。

「洋食全般のお店だそうですが、カレー、すごく評判がいいらしいです」

「楽しみです」

 タルトと紅茶にすっかり満足したものの、逆に食欲を刺激されてしまったあたしは、本当に楽しみでしかたがないのだった。


 きっかり15分歩いてお店に着いた。一階が駐車場で、急な階段を上った先の二階が店舗になっている。こじんまりした店内には、すでに3組ほどのお客さんがいる。見た感じ、全てデートと思しき若いカップルだった。

 確かに、デートにぴったりな雰囲気のお店だった。パイン材の床や淡い黄色の照明が温かい雰囲気で、畏まりすぎず、かといってカジュアル過ぎず、とても居心地がいい。壁にいろんな犬の絵が飾られていて、目にも楽しい。カウンターには、店主の愛犬らしいゴールデンレトリバーの写真がたくさんの小さな写真立てに収められている。

 メニューを見ると、ハンバーグやオムライス、ビーフシチューといった定番の洋食がずらりと並ぶ。今日の目的であるカレーも数種類あった。お店の人におすすめを訊くと、ビーフカレーとのことだったので、あたしはそれを選んだ。小野田弁護士はシーフードカレーを選んで、「トッピングは何にします?」と尋ねてきた。

 レンコンやナス、ピーマンや山芋などの素揚げ野菜の他、唐揚げやミニヒレカツ、コロッケ、エビフリッターなどの揚げ物系、その他軽めのチーズやフライドオニオンなどなど、種類がとても多くて迷う。

 ちなみに、彼はエビのフリッターを選んだ。シーフードで統一しておきます、と。

 今日は本当にお腹が空いていて、お肉気分だったあたしは、唐揚げに決めた。ビーフカレーに唐揚げ。どんだけ肉食女子なの、あたし、と選んだあとで恥ずかしくなってきた。

 野菜の素揚げとか、もっと女子っぽいもの選んでおけばよかったかな、とちょっとだけ後悔しつつ、でも、まあいいや、と開き直ることにした。そもそも、初対面の時だって言いたい放題だったし、今さら猫をかぶったところでどうしようもない。

「ごめんなさい、あたし肉食女子なので」

「お。なんか、ちょっとドキッとしました」

 さらっとそんなことを言って、くすっと笑う。

「ぼくもどっちかというと肉食男子なんですが……こういう場合、どっちかが引かないと相性悪いのかな」

「え」

 相性って、なんの相性?

「まあ、男のぼくとしてはできたら食べる側に回りたいけど、美也子さんになら食べられても全然いいかな。というか、むしろそれでいいかも」

 ちょっと、なんか変な話になってない? これって――と顔が熱くなりかけたところで、小野田弁護士はまたくすっと笑った。

「美也子さん、けっこうすぐ顔に出ますね」

「……からかわないでください」

「ぼくは、職業柄ポーカーフェイスは得意中の得意なので。顔に出さないと決めたら、絶対出ませんよ。ということで、実は今、けっこうドキドキしながら話してるんですよ。そうは見えないかもしれませんが」

 絶対、嘘でしょ、それ。

 ああ、ここでもやっぱり、すっかりこのひとのペースだ。

 あたし、このまま押され続けたら、どうなっちゃうんだろう――またしてもなんだか怖くなってくるのだった。


 おすすめされたシーザーサラダもカレーと一緒に注文したあと、さっそくあたしは尋ねた。

「今回、長野へは出張でいらしたんですよね? ひとみちゃんに用事だったんですか?」

「いえ。ひとみさんの他にも、何人かこちらに住んでいるクライアントがいまして」

 守秘義務があるので、あまり詳しいことは話せませんが、と前置いて、少しだけ仕事の話をしてくれた。

「午前中は遺言書の作成を依頼されたクライアントと面会だったんです。以前は横浜に住んでいた方なんですが……」

 話を聞きながら、すっかり弁護士の顔になった向かい側の彼をしばし観察した。

 改めて正面からちゃんと見ると、どこか人目を引く顔立ちだ。すごいイケメン、というわけではないけれど、感じがとてもいい。営業スマイルを浮かべているとうさん臭く見えるけれど、今のように自然体だと親しみやすいというか、決して嫌いな顔ではないな、と思う。ぎらぎら男っぽ過ぎるわけでもないし、かといって決してなよなよしているわけでもなく、バランスがいい。さっき並んで歩いていて、背もわりと高いとわかった。お兄ちゃんと同じくらいだ。

 そして、手が大きくて指も長い。綺麗だけど、しっかり男の人の手だ。ああ、これ、楓なら「手がセクシー」とはっきり言いそうだ、と他人事みたいに片付ける。変に意識すると、赤面してしまいそうな気がする。

 職業柄なのか、結婚式の時は髪はきちんと分けていたけれど、今日はラフに見える。並んだ時になんとなくいい匂いがしたし、シャワーを浴びたのかもしれない。ああ、髪の色、結構茶色いな、と思っていたら、またしても思考を読まれたらしかった。

「ああ、これ、一応自毛です」

「ごめんなさい……まじまじ見ちゃって」

「父親もこんな感じなんです。目も、結構変な色だってよく言われます。わかります?」

 ほら、と何の前触れもなく身を乗り出してこられて、すごくびっくりした。だめだめ、照れたりしたら、相手の思うつぼだ。心臓が跳ね上がりそうなのを必死で隠して、なるべくなんでもない風を装って彼の目を覗き込んだ。

 ああ、確かに。結構、色素が薄い。こげ茶、というよりは薄い茶色だ。

「綺麗な色ですね、目も、髪も。ちょっと羨ましいかも」

「そうですか? ぼくはどっちかというと、美也子さんみたいな黒髪の方がいいなぁ」

 また臆面もなくそういうことを、と思っていると、彼はこともなげにさらりとこう続けた。

「はかりなき 千尋の底の 海松みるぶさの 生ひゆくすゑは 我のみぞ見む」

 ああ、カンペなしですらりとこれだ。このひと、ホントに法学部だったの? 嘘でしょ、と半ば呆れそうになった。

 果てしない海の底にある海松のように豊かに成長していくあなたの黒髪を、私だけが見届けよう――光源氏が、若紫の髪を切りそろえたあとで詠んだ歌だ。つまり、あなたの将来を見届けるのは僕だけだよ、という、年若い恋人へ向けての恋の歌。

 こんなことをされれば、当然、負けず嫌いスイッチが入る。国文学科出身としては、受けて立たねばならない。すかさずあたしは、返歌を口ずさむ。

「千尋とも いかでか知らむ 定めなく 満ち干る潮の のどけからぬに」

「さすがだなぁ」

 ふっ、と彼は笑みをもらした。しかも、すごく嬉しそうだ。

 定めなく満ち干る潮、とは、絶え間のない潮の満ち引きのように、ふらふらあちこちの女を訪ね歩いて落ち着かない源氏を皮肉っている。つまり、そんなあなたに、わたしの将来なんてわかるわけないわ、と拗ねている歌だ。 

「ああ、でも。ぼくは定めなくあっちこっちの女性に通ったりしませんから、ご安心を」

 とどめにこんな台詞を口にされた挙句、にっこり綺麗に微笑まれてしまう。

 受けて立ったはずなのに、あっさり足元を掬われる。もう、どうしていいのか途方に暮れかけていた。

「おまたせしました」

 ちょうどいいタイミングでカレーが運ばれてきて、あたしはほっとした。

 見た目はとてもシンプルなカレーだった。玉ねぎやジャガイモといった、定番の具は見当たらず、代わりに大きめのビーフがたくさん入っていた。ルウはさらっとしたタイプで、お皿の真ん中でごはんとぴったり隣り合っている。トッピングに注文した唐揚げも、しょうがのとてもいい香りがする。

 向かい側のシーフードカレーも、ホタテやエビ、イカやムール貝など、贅沢に具がたくさん入っている。フリッターのエビもすごく大きかった。

 いただきます、と手を合わせてさっそくスプーンを入れる。一口食べて、思わずうっとりしそうになった。

「なにこれ……すっごく美味しい」

「ほんとだ。シンプルなのに、スパイスの香りがすごいですね」

 家庭で作るカレーとは対極にある、シンプルの極み、という感じのカレーで、びっくりする。一体どうやって作っているのか、全然わからない。すっきりしてまったく雑味がないのに、鼻を通るスパイスの香りはとても強い。でも、ただ辛いだけじゃなくて、実にいいバランスで余韻が残る。

 美味しくて、夢中で食べてしまう。昼間、取材帰りに簡単にお昼を済ませてしまったこともあって、やっぱり今日はお腹がすごく空いている。

 ふと視線を感じて顔を上げると、ずいぶん楽しそうに微笑む彼と目が合った。

「美也子さんって、すごく食べっぷりいいですよね」

「す、すみません……美味しくて、つい」

「謝る必要皆無ですって。そういうとこ、ぼく、ホント好きです」

 照れもなくさらりと口にされるそんな言葉にも、少しずつ慣れてきた。今、確かに素直に嬉しいとさえ思えていた。

「サラダ、取り分けますね」

 とりあえず、返事の代わりにシーザーサラダを取り分ける。こちらも、チーズのいい香りが食欲をそそる。レタスやクレソン、チコリにラディッシュ、それにちゃんと完熟した真っ赤なトマトが目にも鮮やかだ。

 ストレートにこうやって褒められたこと、あまりないなぁ、とぼんやり思いながら、取り皿二つにサラダを盛り付ける。

 そもそも、「あっさり、さばさばした人」という周囲の期待通りにふるまってきた、というかふるまわされてきた。確かに、どちらかというとはっきりものを言うタイプだし、周りからそう思われているのをいいことに、けっこう言いたい放題なところはある。特に、お兄ちゃん相手だと、遠慮のえの字もないのは自覚している。

 そこまで考えて、さっきケーキを食べていた時のことを思い出す。

「ああ、そういえば、兄とひとみちゃんに会ってきたって……」

「ええ。午後の面会場所から結構近かったので、ついでに書類を渡しに行ったんですけどね」

 小野田弁護士は、思い出し笑いなのか、さも可笑しそうにしている。

「……まあ、新婚夫婦のお宅なんて、アポなしで行くもんじゃないな、と」

 どこか意味ありげな笑みに、あたしは嫌な予感しかしなかった。

 まさか、またしても玄関で超濃厚キスシーン?

 いやいや、さすがに、チャイムは鳴らすだろうから、それはないか。だとしたら一体……?

「ひとみさん、襟のないシンプルなワンピースをお召しで。つまり……首元が丸見えだったんですけどね」

 うわ、そう来たか。

「……ああ、もしかして、キスマークでもついてました?」

「はい、それも、けっこうたくさん。色が白いから、もう、隠しようもないですね、あれは」

 はああ、とため息が漏れる。もう、お兄ちゃん、さすがにまずいでしょ、それは。ひとみちゃん、外、歩けないじゃん。

 サラダ、いただきますね、とフォークに持ち替えながら、小野田弁護士はやっぱりくすくす笑っていた。

「聡史さん、なんか文句でもある? って顔してましたよ。なんというか、清々しいほどの開き直りようでしたね。いつもの聡史さんからは、想像できないくらいの」

「……兄、何か言ってました?」

 ほんの一瞬だけ、妙な間があった。でも、すぐに感じのいい笑みが口元に浮かぶ。

「特に何も。ひとみさんには、がんばって、って言われましたけど」

「がんばって、って、一体なにを?」

「今夜、美也子さんと夕食の約束がある、って言ったら、がんばってください、って」

 え、なにそれ。ひとみちゃん、なんでこのひとのこと応援してるわけ?

 首を捻っていると、「そういえば、長野って思った以上に広いですよね。今日の午前中、それを思い知りましたよ」と、唐突に話題が移ってしまい、さっきの妙な間のことはすぐに忘れてしまった。


 美味しいカレーとサラダにすっかり大満足だった。それに、なんのかんのと、このひとと話すのは結構楽しいと素直に思い始めていた。

 一度、あたしが席を外したときに会計を済ませてくれていたらしく、さっきのケーキに引き続いて、またご馳走してもらうかっこうになってしまった。

 今日は誘われた側とはいえ、さすがに申し訳ない。お店を出たタイミングでちらりと時計を見ると、8時半になるところだった。

「あの。小野田さん、このあとまだ時間あります?」

「ええ。今日はこっちに泊まるので」

「少し、お酒飲みません? ご馳走してもらってばかりでさすがに申し訳ないし、あたしに奢らせてください」

 ちょっと驚いたように目を見開いてから、小野田弁護士はふっと笑顔になった。

「先を越されてちょっと悔しいなぁ。本当はぼくから誘おうと思ってたのに」

「もしかして、お店、考えてくれてました?」

「ええ、実は。やっぱり3つほど」

「なんか、手慣れてますね。いっつもこういうことしてます? もしかして」

「まさか」

 いきなり手を掴まれて死ぬほどびっくりした。決して乱暴ではなかったけれど、想定外で完全にあたしは無防備だった。

 表通りから離れた、人通りの少ない場所だ。しかも、しんと静まり返って、あたりには誰もいない。

 そのまま固まって動けないでいるあたしの手を、彼は自分の両手で包み込んだ。

「ぼくは定めなくあっちこっちの女性に通ったりしない」

「……それ、さっきも聞きました」

 だめだ、このひとのペースに引きずられる。怖くなって、あたしはうつむいたままでいた。

 ずいぶんと真剣な声が降ってくる。

「あちこちにばらまいたりしないで、本当に好きなひとだけに全部注ぎたい。自分のすべてを」

 鼓動が跳ね上がる。張り詰めた空気が怖い。身動きはおろか、息を吐くのすら怖い。

 そんなあたしをよそに、意外にもあっさりと包み込まれていた手が解放された。

「すいません。ちょっと調子に乗りました」

 すっと声の調子まで元通りになって、ほっとして脱力しそうになった。

 まるで何もなかったかのように、小野田弁護士は再びすらすらと候補のお店を挙げた。さっきと同じく、そのうち二軒はあたしも行ったことがあった。

「せっかくだから、行ったことのないところがいいかも」

「わかりました。じゃあ、こっちですね」

 行きましょう、とごく自然に彼があたしの手を取る。

 もう驚きはしなかったし、決して嫌でもなかった。そして、彼のペースに引きずられるのが、もう怖くはなくなっていた。

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