第34話 Seesaw(拓弥)⑦

 早朝の新幹線で長野入りしたぼくは、在来線に乗り換えて郊外にある大きな邸宅に向かっていた。本日11時に面会の約束している一人目のクライアントが現在住む別荘である。

 初めて伺ったときは場所がよくわからなくて結構迷った。転地療養目的だからしかたがないとはいえ、ずいぶん辺鄙へんぴなところに別荘を建てたものだ、と文句の一つも言いたくなるくらい、中心部からは離れている。というか、長野県は地図で見る以上に体感的にものすごく広いことを思い知らされる。そして、横浜と比べるとずいぶん涼しい。

 約束の時間の10分前に着いて玄関の呼び鈴を鳴らすと、以前と同じく家政婦の女性が出てきて応接間に通された。

 ぼくのアパートの居間の軽く3倍以上の広さがありそうな洋間で、クリーム色の革張のソファーセットと大理石のテーブルが置かれている。赤い糸で綺麗なステッチが入ったソファーはとてもモダンな雰囲気で、しかも座り心地が良すぎて寝ころびたくなるほどだ。テーブルの上の花瓶は、おそらくボヘミアガラスだろう。活けてあるカトレアの華やかさに決して負けない見事な細工が施されている。さりげなく置かれたフロアランプも室内の雰囲気にしっくりなじむモダンなもので、デザインと機能性どちらも兼ねそろえたもののようだ。壁に掛けられた数枚の風景画も、床に敷かれたふかふかのラグも、何もかもが上質で、住居というよりはモデルルームのような雰囲気だ。

 書類をそろえて本人が来るのを待ちながら、窓の外を眺めた。これまた、きちんとプロが手入れしているのがよくわかる立派な庭だ。今は住んでいる人間がいるから当然ながら、もともとは別荘だったのだから、これほど凝らずともよさそうなものなのに、木も草花も見事なまでに整えられていて、やはり金がかかっているのは一目瞭然だ。

 まあ、使い道がそれしかないのだろう。羨ましい限りだ。

「お待たせしてすまないね」

 真っ白な髪をきちんと整えた和装の男性が入ってきて、ぼくはソファーから立ち上がった。

「お久しぶりです、井下いのしたさん」

「ああ。半月ぶりかな。すっかり暑くなったね」

「ええ。といっても、横浜よりはずいぶん涼しいですよ」

「まあ、そうだな。ああ、離れてたいして経ってないのに、もう懐かしいな。ここは静かすぎて、あの喧騒が若干恋しい」

 まあ、座って、とぼくを促してから、井下氏は向かいに腰をおろした。

「遠いところを何度もすまないね、小野田くん」

「いえ。ちょっとした旅行気分で、なかなかいい気分転換になります」

 あながちただの社交辞令でもなくなった、と半ば心から微笑んでしまう。

 今回の出張で会う一人目のクライアント、井下ゆずるは、電子部品を製造する大手メーカー、井下製作所の創業者だ。

 井下製作所は、東証一部上場の超優良企業だ。本来なら、ぼくのような駆け出しが担当するはずのない大物だが、井下氏とは今の事務所に入って一年目の秋からの付き合いになる。

 もともとは、現在のうちの所長である本山勝美先生(この春に引退した元所長、恒美先生の息子)が担当していた。当時はもちろん横浜在住で、勉強を兼ねて面会に同行したところ、どういうわけかぼくは井下氏にえらく気に入られてしまい、当時とても忙しかった勝美先生から「ちょうどいいから、お前に任せた」と半ば強引に引き継がされてしまった。

 実は、あの頃から井下氏は少々身体を悪くしていて、長野の別荘に移り住むかもしれない、とは聞いていた。勝美先生は、実は面倒でぼくに押し付けたのでは、と恨めしく思ったこともあるが、今となってはそれに感謝である。大手を振って長野に――美也子さんのいる長野に来る大義名分があるのだから、本当にラッキーである。

 勝美先生に感謝、長野に別荘を持っている井下氏に感謝、である。

 先ほどの家政婦の女性が、トレイに載せたティーポットやカップを持って入ってくる。75をとうに過ぎている井下氏と同じくらいの年齢と思われる小柄で痩せたその女性は、手際よく紅茶を淹れてすぐに部屋から出て行った。

「早速ですが、以前仰っていた遺言書の文言につきまして、ご希望のとおりに変更いたしましたので、ご確認いただけますか?」

「ありがとう。見せてもらうよ。目が悪いので少し時間がかかるが」

「ごゆっくりご覧ください」

 経営の第一線から退いたのちも、しばらくは相談役として院政を敷いていたという。ところが、2年ほど前から身体を悪くして主治医に転地療養を勧められ、ここ長野の別荘に引っ込んだ、というわけだ。

 経営からは完全に引退し、悠々自適の別荘生活――と思ったところで、気にかかったのは、相続問題だという。奥様はすでに他界されていて、息子二人が事業を引き継いでいる。その他の親戚関係は会社の経営陣には一人もおらず、実にシンプルな話ではないか、と初めは高をくくっていたのだが、実はこの井下氏、バツイチだった。前妻との間に儲けた娘がひとりいて、奇しくもここ長野に住んでいる。当然、すでに40代で家族を持っている。

 別れてしまえば、元妻には相続の権利はない。ただし、子供は別だ。井下氏の場合、すでに奥様は他界されているため、息子二人と前妻の間との娘、この3人が法定相続人となる。それぞれ三分の一ずつ相続する権利があるわけだ。

 息子二人には何度も会っているが、実に真面目な企業人、といった感じで、親の財産をあてにして怠ける気満々、といった素振りは微塵もない。そもそも、相続税を乗り越えて末永く一族が繫栄するために、身を粉にして働く勤勉な姿勢を叩き込まれて育ったらしい。とはいえ、裕福な家庭特有の鷹揚おうようさというか、平たく言えば金持ちの余裕がちゃんとあり、いずれ相続するだろう莫大な財産について、過度の執着はないようだ。つまり、もらえるものはありがたくいただくが、醜い内輪もめは絶対したくない、というスタンスだ。よって、父親の元妻の娘――つまり、息子二人にとっては腹違いの姉――の存在は、さして気にならない様子だった。もともと知らされていて、納得ずくなわけだ。

 ただ、この娘の存在は、当初ぼくとしては結構な懸念材料だった。本人がどういう人物かわからない上、井下氏の別荘があるここ長野に住んでいる、というのもネックである。

 下世話な心配だが、もしもこの娘が井下氏の療養先に顔を出していたりすれば、ちょっとややこしい話になる。介護をした、と認められれば、寄与分といって、既定の相続額に上乗せされるという制度がある。

 井下氏曰く、娘の成人後は、一切没交渉だという。養育費の支払いが済んで以来は、会うこともなかったらしい。結婚式にも出ていないし、孫にも会ったことはないという。これを聞いて、まずはほっとした。

 ただ、法律上、彼女が法定相続人の一人であるのは動かしようのない事実だ。これを意図的に捻じ曲げれば、権利を侵害されたと本人から訴えられかねない。こうした話はなぜか外に漏れやすく、ともすれば企業イメージダウンは避けられない。

 そういう経緯もあり、遺言書の作成がわりと難航していたのだけれど、何度か話し合いを重ねた結果、基本的に法律で決められた通りの遺産分割を行う旨を遺言書に記した上で、それを受け入れるか放棄するかは、彼女自身に判断に委ねよう、ということになったのだった。

「待たせたね。ありがとう、この文言で特に問題はないよ」

 目を通し終わった井下氏が顔を上げた。

「何度も面倒をかけてすまなかったね。ひとまず、これで安心だ」

「問題ないようで、よかったです。あとは……」

 言いにくいことだが、きちんと確認しておかねばならない。

「井下さん、非常に失礼な質問ですが、大事なことなので確認させてください。現在、個人的に親しくされている女性はいらっしゃいますか?」

 一瞬、目をしばたたいてから、井下氏は破顔した。

「あっははは……おいおい、私を何歳だと思っているのかね? もうとっくに、そういうのは引退したよ」

「すみません、ぼくとしても、こういうのを伺うのは本当に心苦しくて。不躾なことを、大変申し訳ないです」

 ぼくは紅茶を一口飲んで、ふう、とため息をついた。

「ただ、相続で一番揉めるのは、いわゆる……内縁の妻や愛人の存在なんです。生前、正直に本人が弁護士に教えてくれないケースもありまして。となると、亡くなったあとで、ひと騒動になりかねません。たいていの場合、そういった女性に相続権は認められないのですが、醜聞自体が独り歩きして根も葉もない噂が立つ、なんてこともありまして。会社の業績に悪影響を及ぼしかねません」

「うんうん、わかるよ」

 特に気分を害した風もないのでほっとしていると、井下氏は紅茶のカップを持ち上げて口をつけてから、こう続けた。

「実はね、私は元妻に浮気されて離婚したというのもあって、自分は絶対にそれだけはすまい、と再婚後は心に誓っていてね。若い時も、年をとってからも、女は妻だけだ」

 話を聞きながら、ぼくはこの前のガーデンパーティーでのことを思い出していた。浮気、というフレーズであからさまに表情を硬くした美也子さんのことを。

「嫁さん一筋だなんて、変だと思うかね?」

「まさか」

 ぼくはただ微笑んで続きを促した。

「いい女でねぇ……毎晩、家に帰って一緒にいられれば、それで幸せだった。多少若かろうか、綺麗だろうが、他の女とどうこうしよう、なんて気にはまったくならなかった。嫁さん泣かすような真似だけは、絶対にしたくなくてね」

「素敵なお話ですね」

 すっかり白くなった髪のせいで年相応には見えるものの、日本人離れした眉と目の間の狭さやすっきり通った鼻筋、綺麗な形の唇は、はっきりと目を引く。今でもなかなかの男前だ。井下氏、若いころは結構モテただろう、と思う。

 一代で大企業を築き上げた才覚は、そのまま外見にもにじみ出ている。もともとの整った容姿に加えて、漂う知性もバイタリティも、威圧感というよりは、どこか見る人をうっとりさせてしまう不思議なオーラに思えるのだった。

「妻が他界した後も、別にこれで自由になったな、なんて微塵も思えなくてねぇ。まあ、自分がもっと若ければ話は別だっただろうが、70超えてまで新しい女を見つけて一から好きになろう、だなんて、とてもとても。というわけで、相続云々で出張ってくるような愛人はおらんよ。むろん、隠し子も」

「承知いたしました。不躾な質問、重ね重ねお詫びいたします」

 ほっとしながら頭を下げた。

 よし、今後は財産目録の作成か。まだ長野へ出向く機会は多そうだな、と考えて、知らず知らず微笑んでしまいそうになる。

 そんなぼくを、井下氏はどこか楽しそうに見つめてきた。

「ところで小野田くんは、恋人、いないのかい?」

「ああ……好きなひとはいます」

 当然、ぼくは美也子さんを思い浮かべていた。

「ほう。どんな人?」

「すごくかわいいひとです」

「ほほう」

 兄である過日の新郎からはさんざんな言われようだったが、ぼくにとってはなにもかもかわいらしく映った。率直な物言いも、豊かな表情も、やや気難しそうなところも、愛嬌のある顔立ちも。それに、あの脚。あれはかわいいというよりとても綺麗だった。というか、最高だった。

「たぶん、ぼくにしかわからないかわいさですね」

「それはなによりだ。上手くいくことを祈っているよ」

「ありがとうございます」

 思い浮かべるだけで、なんだか幸せな気分になる。今晩会えると思うとこの後の仕事すら、楽しみに思えてしまうほどだった。


 井下氏の別荘を辞して、再び電車で長野の中心地へ戻った。途中で昼食を済ませ、しばらく書類作成の仕事を片付けてから二人目のクライアントのもとへ向かう。砂場がやたらと広い児童公園の傍にある、ごく普通の一軒家だ。

 約束していた15時ぴったりに着くと、記憶の中と同じ色白のひょろっとした男の子が出迎えてくれた。今はもう夏休みに入っているのか、と納得する。

「こんにちは。お久しぶりです、岳琉たける君」

「あ……どうも」

 ややぶっきらぼうな挨拶をして、ぺこっと頭を下げると、すぐさま中へ入っていって「叔母さん、小野田さんがいらしたよ」と奥にいる家の人に声をかけている。

 すぐさま長い髪を束ねた女性が出てきて、笑顔で出迎えてくれた。

「お待ちしていました」

「お久しぶりです。岳琉君、元気そうで安心しましたよ」

「ええ、おかげさまで」 

 どうぞ、と中へ案内され、そのまま居間へ通された。きちんと片付いてはいるが、しっかり生活の匂いがするごく普通の一般家庭の居間で、なんだかほっとする。高そうなベネチアガラスの花瓶の代わりに、シクラメンの鉢植えが飾られている。

「この時間ですもの、暑かったでしょう」

 どうぞ、と麦茶を出されて、すぐにありがたく一口いただいた。

 岳琉くんはそのまま自分の部屋にでも行ってしまったらしい。

「こちらの中学校、慣れたようですか?」

「ええ。いい先生ばかりで、とてもよくしていただいて」

「それはよかった」

 二人目のクライアント――厳密には、両親がクライアントである――林岳琉は、もともと横浜の中学校に通うごく普通の男子生徒だった。学校の友人との間にトラブルがあり、半年ほど前にぼくが相談を受けた。

 端的に言えば、いわゆる「いじめ」である。しかも、詳しく調べると、本人には全く落ち度のない一方的な嫌がらせだった。持ち物を隠される、無視される、教科書やノートを破かれる、など、幼稚で低俗な行為をさしたる理由もなくされ続けていた。

 そもそも、ぼくは「いじめ」という言葉が大嫌いだ。こんなソフトな言い方をせず、はっきり「侮辱罪」「名誉棄損罪」「暴行罪」「傷害罪」と呼べばいいと常日頃から思っている。でないと、いじめている側は自分たちのしていることの深刻さを思い知ることも、心から反省することもない。子どもだからといって大目に見る必要など、断じてない。

 今回の岳琉君のケースもまさにそうで、相手グループは実にたちの悪い連中で、いくら謝罪させようとしても、のらりくらりと言い訳するばかりだった。二言目には「ただふざけていただけ」などとのたまう。担任も担任で、「弁護士さんが出てくるような大げさなことではない」とおろおろするばかりで、話にならなかった。

 岳琉君は実に賢く、きちんと日記をつけており、誰に何をされたか、何を言われたかをしっかり記録していた。これには本当に感心させられた。立派な証拠になる上、言い逃れの余地もなくなる。しかも、目撃者も多数いて、ほぼ全員が岳琉君に協力的だった。ゆえに、徹底的に争って完膚なきまでに叩きのめすことも可能だったし、勝算は十ニ分にあった。ぼくとしてはぜひそうしたかったし、する気満々だったのだが、本人とご両親があっさり諦めてしまった。時間も労力も惜しいから、転校する、と。下手に恨みを買うと面倒なので、証拠はしっかり握ったままとりあえず横浜から離れる、と。

 依頼人がそう決めたのだから、ぼくは従うしかない。学校側があからさまにほっとしていたのが気に食わなかったものの、どうしようもない。

 ただ、ひどく頭にきたのは、いじめていた連中の親が「転校するなんてまるでこちらが悪いみたいだ」とふざけたいちゃもんをつけてきたことだ。これにはさすがに我慢ができなくて、きっちり釘を刺しておいた。

『本来、この学校から去るべきだったのはどちらなのか、少し考えればおわかりになるはずです。端的に申し上げれば、転校してくれてラッキーだったのはあなたがたですよ』と。

 終始笑顔ではっきり言ってやると、さすがに絶句して尻尾を巻いて帰っていった。もちろん、この程度ではとても留飲は下がらないが、その後、残された加害者生徒たち及びその親は、周囲からの冷ややかな目に晒され、どうやら針のむしろらしいから、因果応報である。

 結果的には岳琉君とご両親の判断は賢明だった。くだらない連中を相手にして疲弊するのを避けた、という点では、まったくもって正しい決断だ。

 弟と妹がいる関係で、岳琉君はこうしてひとり親戚の家に下宿しながら長野の中学に通っているわけだが、やはり住み慣れた横浜が恋しく、高校からはぜひ戻りたい、と思っている。それで、ぼくは横浜のご両親とも定期的に連絡を取り、引き続きこうして長野にも出向いて相談に乗っている、というわけだ。

 岳琉君の弟さんや妹さんが心配でもあったので、二人が通う小学校へも出向いてそれぞれの担任とは話をしておいた。なんというか、学校の先生という人種は弁護士がよほど嫌いらしい。上着の弁護士記章(いわゆる弁護士のバッジ)を見たとたん、さっと顔色が変わる。疚しいことが何もないなら、堂々としていればいいものを。検事をしている大学時代の友人曰く、警察も同様に学校からは敵視されているのだという。けれど、司法や公安が踏み込みにくい場になっては断じていけないとぼくは思う。ただでさえ閉鎖的な空間なのだから、そこで一日の大半を過ごす子どもたちを守るには、教師だけで解決が難しい場合は外部機関ときちんと連携をとらねばならない。

 岳琉君の叔母さんの話だと、こちらに来てからも成績はよく、本人が希望している横浜の私立高校へは問題なく進学できそうとのことだった。

 まだ1年以上時間があることだし、戻ってからのことを考えるのはおいおいでいい。例のいじめグループの動向はしっかり押さえて、下手な真似ができないようにしておけばいい。

 そもそも、岳琉君にいやがらせをしていた連中の成績は下の下で、岳琉君が進学予定の高校には絶対に入学できそうにないから、まず問題はないはずだ。

「逆恨みされる可能性がないとも言い切れないので、今後も注意は必要ですが、彼らも、これ以上何かしたところで得になることは一切ないと悟っているはずです」

 ぼくの話に、岳琉君の叔母さんはほっとした様子だった。

 最後に部屋から岳琉君を呼んでもらって、少し話をした。こちらでの生活にもすっかり慣れ、学校が楽しいようでひとまず安心する。ご両親や弟、妹と離れていることについては、はっきりとは言わないが、やはり寂しいようだった。

 夏休み中に一度横浜に帰省するという。何かあったら、いつでも相談に来てください、と再度名刺を渡して、ぼくは失礼した。

 外に出て時計を見ると4時過ぎだった。ここからひとみさんのところまでは歩いて行ける距離のようだ。一応、電話を入れてみると、出たのは新郎――もとい、ひとみさんの夫であり、美也子さんの兄でもある聡史さんだった。この時間に在宅ということは、仕事が休みだったのだろう。というか、大学もそろそろ夏休みか、と思い至る。

 ひとみさんに渡しておきたい書類がある旨を伝えると、このあと特に出掛ける予定もないとのことだったので、すぐに伺うことにした。

 住所を頼りに少し歩くと、電話で聞いていた通りの緑色の屋根の一軒家がすぐに見つかった。わりと古めかしいデザインではあるが、壁や玄関のドアは塗りなおしたらしくとても綺麗だ。中からはピアノの音が聞こえる。詳しくはないが、たぶんバロック音楽のようだ。教会音楽の類だろうか、と思いながらチャイムを鳴らすと、ピアノがピタッと止まった。

 いいよ、ひとみちゃん、僕が出るから、という声が中からはっきり聞こえて、すぐにドアが開いた。

「こんにちは、どうも突然すいません」

「いえ。お久しぶりです、小野田さん」

 会うのは結婚式以来だった。過日の新郎――聡史さんは、Tシャツにジーンズというラフな姿で、いつもの学者然とした様子は陰を潜めている。といっても、やはり知的な雰囲気はそのままで、なかなか素敵に見える。ひとみさんの初恋の人、というのも確かに頷ける。当然ながら、博論が終わって美也子さんが無理やり買い直させた、という例のおしゃれ眼鏡をかけていた。

 どうぞ、と中に促された時、部屋の奥からひとみさんが姿を現した。

「あ、小野田さん。こんにちは」

 過日の花嫁姿とは異なるものの、涼しそうな麻の白いワンピースを身に着けたひとみさんは、やはりフラ・アンジェリコの描く天使のごとくかわいらしかった。

 ただ、にっこり微笑むその天使の首元には、本来の天使には決してないはずの妙な痣がいくつもついている。しかも、とても色白なので、余計に目立つ。

 あー、これは、これは。

 ゆうべはお楽しみでしたね。

 某伝説的RPGの名ゼリフがぼくの脳裏をよぎる。

 ちらりと聡史さんを窺うと、目が合った。

 なんか文句でも? というような、半ば開き直った視線を向けられて、ぼくはとっさにいつもの営業スマイルを貼り付けた。

「お休みのところ、申し訳ありません。出張でたまたま今朝からこちらに来ておりまして。今さっきまで、すぐそこでクライアントと面会だったもので。書類、ついでにお渡しできれば、と思っただけですから。すぐに失礼します」

 はい、これです、とひとみさんに封筒を渡す。

「特にぼくから説明はいらないと思うんです。読んでいただければ、わかるものなので」

「そうですか……あ、でも、せっかくだし、お茶でも」

「いえ。このあと、夕食の約束があるもので」

 ぱっ、とひとみさんの顔がどこか楽し気に綻んだ。

「もしかして、美也子ちゃんと?」

「あー、実はそうです」

「そうなんですね。ふふ……がんばってください」

「どうもありがとうございます」

 はい、がんばります、いろいろ、と心の中でつぶやいたところで、小野田さん、と呼ぶ声がした。

「はい?」

「……ちょっと、いいですか?」

 先ほどとはがらりと違う真面目な顔で言いながら、聡史さんは靴を履いて玄関の外まで出てきた。

「ひとみちゃん、ごめん。ちょっとだけ、小野田さんと話があるから」

「え……うん、わかった」

 びっくりした様子のひとみさんに小さく微笑んで、再び、ごめんね、と言って、聡史さんは玄関のドアを閉める。

 それから「すみません、突然」と前置いて、ぼくを見た。

「小野田さん。差し出がましいですが、ひとつだけ、お願いがあります」

「美也子さんのことですか?」

 ええ、と聡史さんは頷いた。

「……もしも本気でないなら、そっとしておいてやってくれませんか?」

 ぼくは黙っていた。ただ聡史さんと視線を合わせたままで。

「傍にいられないのに、いたずらに近づいて踏み込むのは、反則だと僕は思うんです」

 仕事中にいつもそうするように、個人的な感情をさっくり切り離す。相変わらず、感じが良いと映るであろう笑みを浮かべたまま、ぼくは黙っていた。

 話は最後まで聞く。決して遮らない。言いたいことは全て吐き出させる。最後の最後の一滴まで、全て。

 おしゃれ眼鏡の奥で、二つの瞳が困惑の色を湛えていた。いや、どちらかというと葛藤かもしれない。

 言うか、言うまいか。迷っているのがよくわかった。

 ふう、と小さくため息を漏らして、眼鏡の奥から注がれていた視線がぼくから離れていく。

「……色々思うところはあっても、やっぱり妹なので。もう泣くところは見たくないんです」

 ぼくが彼女を泣かせるかもしれない、という前提で話しているわけか。

 いや、決してぼく自身が問題ではないのだろう。

 そう判断できるくらいに冷静でいられる自分に感謝した。

『遠距離恋愛なんて、ぜったい嫌』

 あの言葉が、はっきり脳裏に蘇る。

 何か知っているのだろう、とは思っていた。でも、おそらく、これ以上はもう話すつもりはないのだろうし、ぼくとしても聞きたくはなかった。

 最後の一滴まで、とはいかないまでも、言うつもりだったことはおおかた吐き出したらしい。

 今度はぼくの番だった。

「ぼくは本気です。決して、ただの気まぐれで近づこうとしているわけではありません」

 ああ、やっぱり、というような視線を受け止める。

「いつも傍にはいられないかもしれない。でも、物理的な距離と心の距離は必ずしも比例しない。好きだと思ったら、いつも心にある。簡単に揺らぐものではない。逆に厄介で、苦しいくらいに。本当に好きになるって、そういうことじゃないですか?」

 聡史さんは一瞬目を見開いてから、ああ、と小さくうなずいた。

「……悔しいけれど、否定はできないな。身をもって知った僕としては」

 そう。こう言わざるを得ないのだ、このひとは。

 距離も時間も乗り越えて、まるで奇跡のように16歳の花嫁と結ばれたこのひとは。

「すいません、まさに反則のような真似をして」

「さすがは弁護士ですね。悔しいけれど、ぐうの音も出ない」

 やれやれ、という風情だが、微かに皮肉も混じっているのは確かだ。

「いつもこうやって言葉をろうして相手をやり込めている、と思われても心外なんですが……美也子さんには、正面切って向き合いますよ。好きになったひとにだけは、せめて真っすぐに、誠実に」

 聡史さんはもう何も言わなかった。どこか諦めたようなその表情に、少しだけ心が痛んだ。

「ひとつだけ。これだけははっきり言わせてください」

 別れ際に、営業スマイルを引っ込め、ぼくはじっと美也子さんの兄を見つめた。

「美也子さんを泣かせるような真似は、絶対にしません」


 ホテルにチェックインすると、まだ5時過ぎだった。待ち合わせ場所はホテルのすぐ向かいだ。美也子さんの勤務先からもわりと近い。

 シャワーを浴びてきちんと身支度を整えた。仕事着のスーツのまま、というのは嫌だったから、ちゃんと着替えを持参していたのだった。弁護士記章だけは手帳に挟んで一応携帯しておいた。万が一、何があるかわからない――というか、何もあるわけがないのだけれど。もう5時を過ぎているから、一応、勤務時間も終わりだ。

 もう一度、候補に挙げておいた店の名前と場所をチェックして、頭の中の地図に再度書き込む。まあ、もしわからなくなったら、地元民である彼女に尋ねればいいだけの話だ。

 デートできてうれしいのがぼくだけなのは、申し訳ない。

 さて、まず店を決めがてら、仕事で疲れた彼女を甘いもので労って、少しでも笑顔に――そう思いながら、ぼくはホテルを出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る