第33話 Seesaw(美也子)⑥

 アラームの音で、はっ、と目が覚めた。

 図らずも、お兄ちゃんに最大級の借りを作ってしまったあの場面を夢で思い出すとは、一体どうなっているのか。昨日はさんざん腹を立てていたはずなのに、なんでまたよりにもよって、と苛立たしい。

 しかも、元カレの部屋を飛び出したあの晩のことまで――当然ながら、目覚めは最悪だった。わりと深く眠れたはずなのに、ちっともすっきりしていない。幸いなのは、目が覚めて、泣いてはいなかったことだ。さらに、起き上がって鏡を見てみると、昨夜、電話の後で泣いた名残もひと晩寝てすっかり消えていた。

 ほっとしながら、顔を洗ってメイクを済ませ、簡単に毛先だけコテでゆるく巻いてから髪をシンプルなバレッタでまとめる。クローゼットを開け、少しだけ迷って、いつもの通勤着のパンツスーツの代わりに、今日はサーモンピンクのボウタイ付きブラウスとチャコールグレイのフレアスカートを身に着けた。ピアスとネックレスもブラウスに合わせてピンクゴールドにした。職場に着けていっても問題のないシンプルなデザインだけれど、上品でとても気に入っているものだ。一昨日塗ったネイルはまだもちそうだ。トップコートだけ重ね塗りして、速乾剤を使う。

 夜の待ち合わせのことをちらりと、というか、しっかり意識して身支度してしまった自分に、少なからず驚いていた。あんな夢まで見たというのに、あたしは一体どうしてしまったのか。

 いやいや、礼儀でしょ、社会人として当然の。誰にするでもなく言い訳しながらハムエッグを作って、トマトを輪切りにしてドレッシングをかける。パンをトースターにセットし、コーヒーを落とした。せっかくわざわざ食事に誘ってくれたのに、いかにも仕事着です、という姿で会うのは、失礼だ。曲りなりにも、相手はデートのつもりでいるだろうから、きちんと合わせるのが礼儀だ。

 新聞に目を通しながらゆっくり朝食を食べて、後片付けをしてから、ダイニングテーブルにルームメイトのかえであてに書置きをした。

 今日は、夕食の約束があるから、ちょっと遅くなる、と。

 出社すると、午前中から目の回りそうなほど忙しい日になった。編集会議のあと、明日に予定されていたはずの取材が急遽繰り上がって、ばたばたと出掛ける羽目になった。普段なら、文句のひとつもこぼすところだけれど、今日は忙しいことに感謝だった。あっという間に時間が過ぎて、あれこれ考える暇がないのはこの上なくありがたい。

 地元きっての進学校――ちなみに、お兄ちゃんの母校でもある――の養護教諭への取材は、なかなか興味深かった。気さくな先生で、今どきの高校生の実態を赤裸々に語ってくれた。保健室でしか話せない類の話というのは、やはりある。半数の生徒がファーストキスを高校在学中に経験するというアンケート結果を見せられて、納得しつつも、ここに通う真面目な子たちでもそういう方面にはちゃんと興味があるんだな、と意外にも思った。

 取材後、会社へ戻る道すがら、当然ながら昔の自分と重ね合わせてしまう。

 あたしが通ったのは、お兄ちゃんの母校よりも一つ下のランクの公立二番手の高校だ。そして、所属していた文芸部の先輩が、あたしのファーストキスの相手だった。ついでに、その先のあれこれも全部そのひとが教えてくれた。

 すらりと背の高い、細面の綺麗な顔をしたひとだった。明治、大正あたりの書生みたいな雰囲気なのに、二人きりのときはなかなか情熱的なひとだった。先輩が卒業するまで付き合いは続いたけれど、北海道の大学へ進学が決まったすぐあと、そのひとはすまなそうにこう言った。

『傍にいられないと、好きでい続ける自信がない』

 やんわりと別れを告げられ、ショックだった。もちろん、あたしは言い募った。

 そんなことない。傍にいられなくても、あたしは好きでいられる、と。

『ごめんね。僕は、きっぱり言い切る自信がない。ずるいって詰ってくれてもいいよ。でも傷つけてしまう前に、終わりにした方がいいと思う。まだちゃんとお互い好きなうちに』

 ある意味、とても正直で誠実なひとだったのだろう。もちろん、ずるいひとでもあったけれど。

 その後、そのひとにすぐ新しい恋人ができたことを噂で聞いた。すっかりアホらしくなって、おかげできれいさっぱり吹っ切ることができた。

 もちろん、好きではあったけれど、あたしもあのひとも所詮は高校生だ。相手のすべてが好き、というよりは、自分を好きだと言ってくれるひとがいることが単に心地よかった。そして、キスやセックスは純粋に愛情の延長線上でするものではなく、どちらかというと生理的欲求と好奇心から貪るものにすぎなかった。

 性欲お化けなのは、なにも高校生男子だけじゃない。昔から、どっちかというとあたしは肉食女子だった。ルームメイトの楓ほどあけすけに「好き」イコール「セックスしたい」だなんて口にはしないけれど、好きになったら相手の全部が欲しいし、自分の全部を与えたい。大人になった今は、そこにややこしい感情やら体面やらが絡んで単純に欲望にまっしぐら、というわけにはいかなくなった。けれど、高校時代は幼いがゆえの大胆さ、というか、怖いもの知らずな上、体力も時間も有り余っているから、もうやりたい放題なわけだ。

 そういう意味では、あたしたちはお似合いだった。今風に言うなら、セフレに近かったのかもしれない。周囲にはちゃんと恋人のていを装った、セックスの相手。もちろん、好きだという感情は多少なりともあったけれど、メインはあくまでセックスだ。

 現に、今あのひとの一番好きだったところはどこか、と尋ねられたら、迷いなく唇だと答える。あの薄い唇が囁いた睦言やあたしにしたことを思い出すと、ちょっとだけうっとりして、でもすぐにポンッと跡形もなく消えていく。別に上手なキスでもなかったし、上手なセックスでもなかった。ただの思い出フィルターだ、とちゃんとわかるくらいに、あたしは大人になってしまった。

 そしてそれゆえ、さほど傷つきもせず、あっさりあのひとのことは忘れてしまえた。覚えていて悲しむこともなく、忘れて微笑んでいられたわけだ。

 傍にいられないと、好きでい続ける自信がない。

 ただひとつ、あの言葉を除いては。


 午後は、抱えている原稿をいくつか片付けた。といっても、締め切りはまだまだ先のものばかりだった。こう見えて、仕事は早い方だ。余裕を持っていたいから、たいていのことは早めに手を付け始めるし、やりかけで放置するのも嫌いだから、さっさと仕上げてしまう。時間に余裕があれば、チェックが入って書き直すにしても、快く取り組める。クオリティも上げられるし、信頼してもらえる。評価もあがるし、たぶんお給料もあがる。いいことづくめだ。

 大阪に就職するつもりでいた頃は、別に何か取り立ててやりたい仕事があるわけではなかった。彼の住む街に行けるだけでよかったし、結婚していずれ辞めることになるなら、なんでもいいや、くらいにしか思っていなかった。

 でも、今は結構この仕事が気に入っている。全国紙だと、新入社員は記事を書かせてなんてもらえるはずがない。でも、ここだと、あたしみたいな新人でも立派な戦闘員だ。何しろ人手が足りないから、大きな会社みたいにじっくり半年も新人を研修している余裕なんてない。周りを見て仕事を覚えろ、というスタンスだ。それが心地いいし、なんだかんだとあたしには合っているようで、結構毎日楽しいのだった。

 残った時間で、午前中に高校で行った取材の文字起こしまで終わらせて、時計を見ると、すでに5時を回っていた。

「お、スカート。珍しいねぇ」

 唐突に声をかけられて見上げると、同期入社の森野椿希つばきだった。彼女は社会部に配属されている。同期入社の女子は彼女とあたしの二人だけだから、自然とよく話す仲になった。ぽっちゃりして大柄の割に、かなり俊敏でそのギャップに驚かされる。風貌はクマのプーさんっぽいけれど、ちょこまかした動きはリスのようだ。チップとデールでいうと、おっちょこちょいでいたずら好きのデールタイプかもしれない。

「どういう風の吹き回し?」

「ちょっとね」

 詳しく話すのも面倒だから、お茶を飲んで誤魔化そうとしたのに、椿希はごく自然に尋ねてきた。

「もしやデート?」

 げほっ、と反射的にむせてしまった。変なところにお茶が入り込んだらしく、死ぬほど苦しい。

「ちょっ……大丈夫? なに動揺してんの?」

 はい、とティッシュの箱を取ってくれながら、椿希はいぶかし気だ。

「ど、動揺なんて、してないし」

「ああ、もしかして、昨日の電話の男とデートなの?」

「え? 電話って……」

「昨日さ、遅番だったんだー。私以外みんな取材で出払ってて、8時まで電話番だったんだよね」

 人のよさそうな顔にのんびりした笑みを浮かべ、椿希は説明してくれた。

「で、美也子が帰ったあと、やたら礼儀正しい爽やかな声の男から電話がかかってきてさ。なんか、あんたの義理の姉の弁護士だ、とか言ってたから、急ぎの用かも、と思ってね。それでアパートの番号、教えたんだー」

 なるほど、犯人は椿希だったのか、とため息がこぼれた。

 というか、ひとみちゃんの資産管理をしているのは嘘じゃないにしても、ここでその話を持ちだすとか、意外と計算高い。さすがは弁護士。やっぱり、お兄ちゃんとは別の類の頭の良さだ。世間慣れしてて、実にソツがない。

「あ、もしかして電話番号教えたの、まずかった?」

「……もう今更でしょ」

「ごめんごめん。っていうか、やっぱり、あの男とデートなの? それで、おしゃれしてる、ってわけ?」

「別に、取り立てておしゃれってわけでも……」

 と言いつつも、まあ、気に入っているけど、と認めざるを得なかった。

 今朝、無意識に選んだこの服、上下どちらもひとみちゃんと買い物に行ったときに見立ててもらったものだった。いつも、どちらかというとあたしがひとみちゃんの服を見立てることが多いけれど、これはひとみちゃんがずいぶん熱心に勧めてくれたのだった。

『美也子ちゃん、いつもかっこいい感じの服装だけど、こういうのも絶対に似合うと思う』と。

 どっちかというとひとみちゃん向けなんじゃないか、と思いつつも、試着すると、なかなかしっくりなじんでいて、すっかり気に入ってしまった。

 ボウタイの感じが可愛すぎないのもよかったし、フレアスカートも生地に張りがあるからフェミニンになりすぎず、あたしの好みだった。

「弁護士かぁ。いいねぇ」

「食事するだけ。別に、デートじゃないし」

「二人きりで食事でしょー? デートじゃん」

 椿希はにっこり微笑みながらあたしの肩を叩いた。

「真面目そうでいい人っぽい声だったし」

 あー、それ演技だわ、とこっそり思う。

 決して悪いひとではないだろう。けれど、職業柄なのか、きちんと表裏を使い分けているのはよくわかった。源氏物語の話をしている時は素ですごく楽しそうにしていたけれど、とにかく、あっさり心を許していい相手ではない。穏やかに強引なところも、考えてみれば、危ない。それに、ストレートに「あなたが気に入った」なんて台詞を臆面もなく口にするところなんかは、女を口説き慣れてるようにも思えるし、意外に遊んでるタイプかもしれない。

 そもそも、自分が正統派の美人じゃないことくらい、ちゃんとわかっている。ひとみちゃんならまだしも、あたしは一目惚れされるような容姿じゃない。しかも、はなから猫もかぶらず言いたい放題だったのだから、あれで好かれるわけがない。品もなければ、可愛げもない女に映ったはずだ。

 帰り支度を済ませた椿希が尋ねてくる。

「食事、あっちから誘ってきたんでしょー?」

「うん」

「断らなかったんだ?」

「……うん、まあ」

「どうして? 美也子の性格からして、嫌ならはっきり断るでしょー?」

 またしても言われてしまった。昨日、小野田弁護士にも同じ指摘をされたことを思い出す。

「押されると弱いのかも、あたし」

「えー? 嫌な相手なら、押されるとドン引くでしょー、美也子なら」

「確かに……」

 すらすら夕顔への和歌を口にしたり、それにかこつけてさらっと押しの一手を打ってこられて、すっかり流されてしまった。でも、ドン引くどころかなんだか少し嬉しいと思っていたのかもしれない。そして、また、あんなふうに話せるなら、楽しいかもしれない。心のどこかでそうも思っていたのは確かだ。

「まあ、ご飯はどっちにしたって食べなきゃいけないわけだし。ひとりで食べるよりは、誰か一緒の方が楽しいもん。ただ、それだけ」

 机の上を簡単に片づけて、バッグから化粧ポーチを取り出した。

「出る前にトイレ行くわ。椿希、じゃあ、また明日ね。お疲れ様でした」

「お、邪魔してごめんね。じゃあ、がんばって!」

 明日、話聞かせてね。余計な台詞を残して出て行く椿希を見送って、あたしはトイレでメイクを直した。幸い、今日はそれほど暑くなかったから、思ったほど崩れていない。

 額と鼻をあぶら取り紙で押さえて、ファンデーションを薄く重ねた。眉尻を描きなおし、ぼやけたアイラインも引きなおす。アイシャドウのグラデーションを整え、さっとマスカラも塗りなおしておいた。ネイルが剥げていないかチェックしてから、指先にオイルを塗っておく。

 ひとまとめにしていた髪を一度解いてブラシで梳かし、再びバレッタでまとめなおした。少しだけ香水を着けなおして、最後に口紅を塗る。

 よし、これでOK。ひとまず、最大限とはいかないまでも、綺麗には見える。少なくとも、並んで歩いて恥ずかしい女ではないはずだ。

 化粧するのも、礼儀だ。社会人なんだから。

 別に、デートだ、と浮かれているわけじゃない。

 誰にするでもなく言い訳をしながら、時計を見ると、5時半を過ぎたところだった。

 待ち合わせ場所はここから10分弱だ。ちょうどいい時間だ、と思いながらあたしはトイレを出た。

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