第26話 Totus tuus(ひとみ)①
午後の勉強が終わってから、居間と玄関、廊下にモップをかけた。トイレもさっと掃除して、床も雑巾をかけておく。お風呂と階段、二階は午前中にやっておいたから、これで今日の掃除は終わり。毎日こまめに掃除するようにしているからさほど汚れていないし、さりげなく聡史くんが二階に掃除機をかけてくれていることがしょっちゅうだから、とても助かっている。申し訳なく思いつつも、ありがたい。
7月ともなると、少し動いただけで結構汗をかいてしまう。軽くシャワーを浴びて、新しいワンピースに着替えた。時計は5時過ぎを指していた。特に電話もないから、そろそろ普通通りに聡史くんは帰ってくるはずだ。疲れているだろうから、浴槽にお湯を張っておく。
先週は、学会発表の準備で本当に忙しそうだった。ごめんね、とすまなそうにしながら、帰宅後もずっと部屋で仕事をしていた。邪魔になりたくないから、お茶だけ運んだあとは、わたしは居間でひとり本を読んだり勉強したりしておとなしくしていた。
寂しいといえば寂しかったけれど、研究は聡史くんのライフワークだ。立て込めば、当然ストレスも感じるだろうけれど、好きで打ち込んでいるのは傍で見ていてよくわかる。そういう聡史くんを見ているのは、小さな頃から大好きだった。本に夢中の眼鏡の横顔は、今なお健在なのだ。
準備にめどがついたらしく、この前の金曜日は、久しぶりに大学の中庭で待ち合わせて出掛けた。いま着ている白い麻のワンピースは、その時買ってもらった。服も靴もいつもたくさん買ってもらっているから、いいよ、と遠慮したのだけれど、試着すると「すごくよく似合ってるから、ぜひ着てほしい」と半ば強引にプレゼントされてしまった。家で着るにはちょっと贅沢かな、とも思うけれど、せっかく買ってもらったから、身に着けて聡史くんを出迎えたかった。上に、一緒に買ってもらったカーディガンを羽織る。
昨日、お肉屋さんで牛すじがとても安かったから、今日のメニューはカレーと決めていた。すでに顔見知りになったお店の人が「たくさん入れた方が美味しいから」と、ずいぶんおまけしてくれた。近所の商店街は小さいころにもよく行っていたから、なじみがあってほっとする。スーパーの方が何でもそろって便利だけれど、お肉はこちらの方が種類が多くて値段も手ごろなのだった。
午前中、いつものようにダイニングで勉強しながら、牛すじをじっくり茹でて下処理した。玉ねぎをたくさん入れてコトコト煮込んでおいたルウに、ほかの野菜とその牛すじをたっぷり入れて再度煮込み、もうカレーは完成している。キャベツとツナでサラダも作ってあるし、ご飯も多めに炊いてある。準備は万端だ。
グラスやスプーンを準備していると、電話が鳴った。聡史くんかな、と思って出ると、美也子ちゃんだった。
「ひとみちゃん、今日って、お兄ちゃんは遅い?」
「ううん。特に連絡ないから、そろそろ帰ってくると思うよ」
「そっか。じゃあ、仕事帰りにちょっと寄ってもいい? もうすぐ出れそうなの」
「もちろん」
美也子ちゃんがうちに来るのは久しぶりだから、嬉しい。
「よかったら、ご飯食べていかない?」
「あー、魅力的な提案だけど、邪魔になりそうだからなぁ」
半ば本気をにじませた声だ。お邪魔虫になりたくないから、とこの家を出てしまってから、けっこう気を遣ってくれているようで、ことあるごとに美也子ちゃんはそういう口ぶりになる。
「そんなことないよ?」
「ん-。お兄ちゃんの様子見てから決める」
「聡史くんも、喜ぶと思うけど」
「ナイナイ。二人きりでいちゃいちゃしたくてたまらないの、まるわかりだから、あれ」
出張のお土産持ってくからね、と電話が切れた。
ソファーに座って例の修道士カドフェルシリーズの続きを少し読んだところで、入り口の戸が開く音がした。本をテーブルに置いて、すぐに玄関へ向かう。
「ひとみちゃん、ただいま」
「おかえりなさい、聡史くん」
いつものように微笑んでくれるその顔は、少し疲れているように見えた。
出迎えながら、今日はテストだって言ってたかな、そういえば、と思い出す。採点とかそういうのかな、なんて考えていると、靴を脱ぐやいなや、がばっと抱き寄せられてすごくびっくりした。
「わ……どうしたの?」
右耳の辺りですうっと息を吸い込む仕草をされて、ちょっと焦る。あ、でも、ちゃんとシャワー浴びたばかりだし、とほっとする。少なくとも、汗くさかったりはしないはずだ。むしろ、せっけんのいい匂いがするはずだから、大丈夫だよね、と思っていたら、「ごめん」という言葉と共に、今度はキスされた。本当にいきなりで、またまたびっくりした。
すぐに唇が離れて少し残念に思いながらもほっとしていたら、わたしを抱きしめたまま、ふう、と聡史くんは小さくため息を吐いた。
「今日は、単純作業ばかりで逆に疲れたんだ。採点、無理して全部終わらせてきた。明日、休みにしたくてさ」
ちょっと甘えたような声がなんだか可愛い。
「おつかれさま。大変だったね」
頭をよしよししてあげたいけれど、こんなふうにぎゅっとされていると、難しい。とりあえず、背中をぽんぽん叩く。やっぱり、お風呂のお湯、張っておいてよかった。シャワーより、やっぱりお湯に浸かった方が疲れはとれるはず。
「ゆっくり休んでね。お風呂に入ったら?」
「あとでいいや。まず充電したい」
「充電?」
場違いな単語に思えて聞き間違いかな、と思っていたら、突然、唇が重なった。しかも、さっきと違って、少し顔を傾けて深く口づけられてどきっとした。決して乱暴ではないけれど、どこか余裕がない聡史くんの表情を見ているのがなんだか恥ずかしくて、あわてて目を閉じる。
一瞬だけ離れて、今度は下唇をゆっくり食むように再び重なる。これ、ただの「ただいまのキス」じゃない。本当にどうしたんだろう、とちょっと心配になりながらも、こうしてキスされるのは決して嫌じゃない。というか、むしろ嬉しくもある。差し込まれた舌に応えて、わたしもそっと自分の舌を絡めた。聡史くんの腕に少しずつ力がこもるのを感じながら、これ、このままでは終わらないんじゃないかな、と今度は違う心配が頭をもたげていた。
苦しくて頭がぼうっとなりかけた頃、ようやく解放された。そのまま、ほおにも小さくキスが落ちてくる。
目を開けると、至近距離でじっと見つめられていた。その視線がずいぶん熱っぽくて、知らず知らず身体の奥がきゅっと切なく疼いた。
「ひとみちゃんを充電させて? だめかな?」
「え、と……」
充電、って――それはつまり、このままベッドに行こう、ということだとすぐわかった。
聡史くんは普段からすごく優しいし、わたしが嫌がることは絶対にしない。でも、こういうことになると、びっくりするくらい強引な時がある。これまでにも、ソファーの上でくっついていて、こういう雰囲気になってしまったことは何度もある。なし崩し的に夕ご飯前に二階に連れていかれてそのまま、ということも一度や二度ではなかった。
すごく恥ずかしくはあるけれど、こうやって求められること自体はとても嬉しいから、決して嫌ではないのだった。だから、断ったことは一度もないし、今日も拒むつもりもないのだけれど。
せっかく、カレー、できてるのになぁ、とちらりとそれだけが頭をかすめる。いい匂いがしているから、聡史くんだってわかっているはずだ。それに、牛すじカレー、聡史くんの好物のはずなのに。
「だめ、じゃないけど。お腹すいてないの? 今日、カレーだよ?」
「お腹はすいてるよ。でも、まず、こっちが食べたい」
ごく自然に、ちゅっと首筋にキスされて、思わず悲鳴みたいな声が出てしまう。なんだか恥ずかしくなって俯こうとするのに、そのまま、唇がすうっと上ってきて、耳朶を食まれた。痺れるような心地よさが背筋を駆け抜ける。
ああ、冗談じゃなくて、聡史くん、しっかり本気だ。これでは、子羊はなすすべもない。
「……帰ってくるなり、オオカミさんだね?」
「うん。だから、大人しく食べられた方がいいよ」
眼鏡の奥ですうっと細くなる目は、いつもならすごく優しいはずなのに、今はやっぱり熱を帯びている。じっと見つめられると、このまま身体が蕩けてしまいそうだ。
「もう」
しかたないなぁ、といったん諦めかけて、あることを思い出す。
「……あ、聡史くん、でも、今ね」
美也子ちゃんからね、と言う間も与えられず、再び抱きすくめられ、唇を奪われた。さっきよりもさらにせっかちな様子に、びくっと心臓がはね上がる。肩や背中をなぞるように、優しく、でもねっとりと手が上下する。後ずさっているうちに、いつの間にか追い詰められて、わたしは壁を背にしたまま深く口づけられていた。
もう、こうなってはオオカミのなすがままだ、と諦めてわたしは口づけに応えた。小さく唇を開いて、舌を絡め、唇を食む。ちゅっ、ちゅっ、と静かな夕暮れの玄関にキスの音だけが響く。
時おり悩まし気な声を漏らしながら、聡史くんは執拗にわたしの唇をふさぎ続けていた。解放してくれる気配はまったくなくて、その余裕のない仕草にうっとりしつつも、頭がぼうっとしてきた。
思わず身じろいでしまうと、身体を撫でていた手がカーディガンの首元に触れて、剝くようにするすると脱がされる。そのまま、ワンピースの上から肩や背中をすうっと撫で上げられて、やはりぞくっとした。
んっ、と鼻から変な声が抜けてしまって恥ずかしくなる。身体の奥の方がしっかり熱くなっているのがわかる。こんなふうにされ続けたら、脚に力が入らなくなる。まだ触れられてもいないのに、太腿の付け根がざわざわと落ち着かない。
結局のところ、このあと起こることをしっかり期待してしまっている自分がいる。強引に聡史くんに引きずられているだけ、というわけでは決してないのだった。
それに、このキスーーこういう深いキス、初めてした時、びっくりしたけれど、骨ごと全身がバターみたいに溶けてしまいそうな気分になる。今だって、背中を壁にあずけていなければ立っていられないくらいだ。でも、気が遠くなるくらい気持ちがいい。
ああ、もう、このままどうなってもいいかも、とそんな考えがちらりと頭をかすめたその時だった。
ガチャッ、と玄関の扉が開く音とともに、いつもの元気のいいあの声が聞こえた。
「こんにちはー。不用心だなぁ、鍵が開い……」
ぱっと聡史くんの唇が離れた。同時に腕の力も緩んだから、するりと顔を出して美也子ちゃんの方を向いた。
「あ、美也子ちゃん、いらっしゃい。早かったね」
どうにか微笑んでそう言ってみると、美也子ちゃんの呆れ顔がまっすぐ聡史くんに向けられた。
「ちょっと。玄関先で一体何してるわけ?」
「……別になにも」
ものすごく機嫌が悪そうな声で、ちょっと焦った。当然、わたしと二人きりの時には一度もこんな声を出したことはない。
「というか、なんで突然来るんだよ?」
「あ、あの……さっき電話くれて、今日、仕事帰りに寄るね、って」
わたしに怒っているわけではないにしても、今の聡史くんはちょっと怖い。ああ、ちゃんと言っておけばよかったなぁ、と後悔しつつ一応説明すると、美也子ちゃんが盛大にため息を吐いた。
「はぁぁ……お兄ちゃん、仕事から帰ってくるなり玄関先で奥さん襲うって、一体どうなってんの?」
「人聞き悪いな。別に襲ってない」
ん-、そうかなぁ、とわたしはこっそり首を傾げた。
しっかりオオカミさんだったでしょ、とちらりと聡史くんを窺ってみると、目が合った。ちょっとばつが悪そうにその視線が明後日の方向へと流れていく。
「じゃあ、こんな玄関先で、何してたのさ? どう見たって、ただいまのキス、って感じじゃなかったじゃん。これからばっちり始まりそうな雰囲気だったし」
あの一瞬で正確に状況を把握してしまった美也子ちゃんに半ば感心していると、聡史くんがおもむろにさっきのカーディガンを着せてくれた。
「べ、別にいいだろ、家で何しようと」
「聡史くんね、今日すごく疲れちゃった、って。だから、充電したいって」
一応、肩を持つつもりでそう言っておくと、なぜか聡史くんは真っ赤になってしまった。おかしいな、なんか変なこと言っちゃったのかな、と不安になりかけていると、「充電かぁ……ものは言いようだ」と美也子ちゃんは肩を竦めた。
「出張行ったから、お土産渡しに来ただけだから」
トン、と紙袋を
「もう、帰るわ。どうぞ、ごゆっくり」
「あ。美也子ちゃん、ごはん、食べていかない? 今日、カレーなの」
さっき、聡史くんの様子を見てから決める、って電話で言っていたけれど――これじゃ、無理か。
「お兄ちゃんは、カレーよりほかに食べたいものがあるみたいだけど?」
案の定、美也子ちゃんは淡々と言い捨てた。
「じゃあね」と手を振りながら、聡史くんをじろっと睨むと、そのまま出て行ってしまった。
「美也子ちゃんに悪い事したなぁ……」と思わずつぶやいてしまうと、さすがに聡史くんはちょっとばつが悪そうに「ごめん」と小さな声で謝ってきた。
じゃあ、ご飯にしよっか、と言おうとすると、まさかの一言が聡史くんの口から飛び出した。
「……ひとみちゃん、やっぱり充電したいんだけど」
えっ、と一瞬わけがわからなくなって、ぽかんとしそうになった。
やっぱり、そこに戻るんだ、と。
でも、なんだかそういう聡史くんがとても可愛いと思えてしまって、わたしは声を出して笑ってしまった。
いつもの真面目で優しい聡史くんからは、想像もつかない強引さだ。けれど、決して嫌ではないのだった。むしろ、こんなにまでほしいと思ってもらえるなんて、わたしは幸せだ。
結婚指輪の内側にある、刻印の言葉を思わず口にしていた。
「トータス・トゥース、だったっけ?」
ああ、と頷いて、聡史くんは流暢に発音してくれた。Totus tuus、と。
静かで落ち着いた聡史くんの声に乗ると、ただでさえ響きの美しいラテン語が輪をかけて素敵に思えた。
「ああ……綺麗な発音。やっぱり聡史くん、それ、すごく素敵だよ」
なぜか困ったようにわたしを見ている聡史くんは、やっぱりどこか可愛らしく思えた。
「もう、わたしは聡史くんのものだから、好きにしていいんだよ?」
まだ困った様子の聡史くんのほおに、小さくキスをしてあげた。
「ちょっとだけ待ってね。お土産、桃みたいだから、冷蔵庫に入れてくる。あと、お弁当箱とお箸ちょうだい?」
「お弁当、とてもおいしかった。いつもありがとう」
はい、と手提げ袋ごと渡された。しかも、いつものようにこう言ってくれた。洗ってあるから、と。
「いいのに」
「僕がしたいから、してるだけ」
忙しいのに、いつもこうやってお弁当箱とお箸を綺麗に洗って持って帰ってきてくれる。聡史くんのこういうところが、本当に大好きだ。
「ありがとう。すぐに行くから、上で待っててね」
桃と手提げ袋を持って、わたしは台所へ向かった。
桃を冷蔵庫に入れてから、お弁当箱とお箸を袋から取り出してしまおうとしていると、聡史くんがやってきて「やっぱり、さっとシャワー浴びてくるね」と言って、浴室に消えた。あの様子だとすぐ出てくるだろう。カレーのお鍋の火を止めて、炊飯器のご飯をいったんお
食後のデザートは桃だ。しかも、すごく大きくて、立派な桃だ。
ちょうど、ちゃんと冷やす時間もできたことだし、と素で思ってしまって、とたんに恥ずかしくなる。
台所に立ったまま、ひとり、ふるふると首を振った。結局、全然嫌だと思っていないどころか、むしろ嬉しいんじゃない、自分、と顔が熱くなる。
ちょうどそのタイミングで、おまたせ、とTシャツにジーンズというラフな格好になった聡史くんが脱衣所から姿を現した。どんな顔をしていいのかわからなくなって、思わずわたしは固まってしまった。
「どうしたの? 顔が赤いけど」
「……な、なんでもないよ?」
目をそらして俯こうとすると、そのまま抱き寄せられた。耳元でちょっと意地悪な声がする。
「もう恥ずかしいの? まだ何もしてないのに?」
まだ、だけど、これからするでしょ、とちらりと思ってさらに顔が熱くなってくる。
「お風呂、せっかくだから一緒に入ろう? あとで」
あと、ってなんの?
もう。こんなことばかり考えている自分が恥ずかしい。
ふう、と息を吐いたところで、ちゅっとほおにキスされた。
「ひとみちゃん。上、行こう?」
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