第25話 Totus tuus(聡史)⑤
「ひとみちゃん、ただいま」
集中してどうにか採点を終わらせて帰宅すると、まだ5時半過ぎだった。明日はこれで休みだ、と思うと気持ちも晴れやかだ。ひとみちゃんと思う存分のんびりして過ごせる。
「おかえりなさい、聡史くん」
いつものように玄関で出迎えられて、ああ、やっぱり可愛いなぁ、と思ったら靴を脱いですぐに反射的に抱き寄せてしまった。シャワーを浴びたばかりなのか、すごくいい匂いがした。
「わ……どうしたの?」
ひとみちゃんはびっくりした様子で固まっている。ごめん、と謝ってから軽くキスをした。
「今日は、単純作業ばかりで逆に疲れたんだ。採点、無理して全部終わらせてきた。明日、休みにしたくてさ」
「おつかれさま。大変だったね」
ひとみちゃんがぽんぽん、と背中を叩いてくれた。
「ゆっくり休んでね。お風呂に入ったら?」
「あとでいいや。まず充電したい」
「充電?」
首を傾げるひとみちゃんに、再び僕は口づけた。さっきよりも、少しだけ深く、長く。始めは戸惑っていた様子のひとみちゃんも、おずおずと口づけに応えてきた。しばらくして唇を離して、そのままひとみちゃんのほおにもキスをした。
「ひとみちゃんを充電させて? だめかな?」
「え、と……」
困ったように目を伏せたそのほおは少し赤くなっていた。僕が意味するところがわかった証拠だった。実際、こうやって夕飯前にベッドに、ということは初めてではないし、誘って拒まれたこともない。
「だめ、じゃないけど。お腹すいてないの? 今日、カレーだよ?」
確かに台所からカレーのいい匂いがしているけれど、どちらかというと、ひとみちゃんから漂うせっけんの匂いの方が今は気になって仕方がないのだった。
「お腹はすいてるよ。でも、まず、こっちが食べたい」
ちゅっ、と首筋にキスをすると、きゃっ、とひとみちゃんが小さく悲鳴を上げた。
「……帰ってくるなり、オオカミさんだね?」
「うん。だから、大人しく食べられた方がいいよ」
「もう……あ、聡史くん、でも、今ね」
玄関先に鞄を置いたまま、再びぎゅっとひとみちゃんを抱きすくめた。壁際まで追い詰めて、言葉の続きを封じ込めるために唇をふさいでしまう。諦めたのか、ひとみちゃんも今度はしっかり応えてくる。ちゅるっと音を立てながら深いキスがしばし続く。
ひとみちゃんは苦しそうに肩をすくめるしぐさをしたけれど、薄く眼を開けてみると、ものすごく可愛い顔でうっとり目を閉じていたから、唇を合わせたままワンピースの上に羽織っているカーディガンを脱がせていく。
ほっそりした肩から背中、腕へ手を滑らせながら、キスを続けていると――ガチャッ、と突然玄関の戸が開く音がした。
「こんにちはー。不用心だなぁ、鍵が開い……」
聞き覚えのある声にぎょっとして唇を離すと、入ってきたのは案の定、美也子だった。
げ、と思って慌てる僕の腕の中からひょっこり顔を出し、ひとみちゃんは間の抜けた声を出した。
「あ、美也子ちゃん、いらっしゃい。早かったね」
「ちょっと。玄関先で一体何してるわけ?」
美也子が呆れたように僕を睨んでくる。
「……別になにも」
どちらかというと邪魔されたことに腹が立ってしまって、思わず不機嫌な声が出た。
「というか、なんで突然来るんだよ?」
「あ、あの……さっき電話くれて、今日、仕事帰りに寄るね、って」
ひとみちゃんがおろおろと説明を始める。
ああ、さっき言いかけたのって、これか、と今更ながらに思い至る。わかっていれば、さすがにこんなことはしなかった――とはいえ、最後まで言わせなかったのは、まぎれもなく僕だ。
美也子は深々とため息を吐く。
「はぁぁ……お兄ちゃん、仕事から帰ってくるなり玄関先で奥さん襲うって、一体どうなってんの?」
「人聞き悪いな。別に襲ってない」
「じゃあ、こんな玄関先で、何してたのさ? どう見たって、ただいまのキス、って感じじゃなかったじゃん。これからばっちり始まりそうな雰囲気だったし」
相変わらず、品のない言いようだ。でも始末が悪い事に、指摘自体は間違っていない。邪魔さえ入らなかったら、今ごろばっちり始まってるはずだったんだよ、とこっそり心の中で悪態をつく。
脱がせたカーディガンをひとみちゃんに着せてあげながら、一応言い返しておいた。
「べ、別にいいだろ、家で何しようと」
「聡史くんね、今日すごく疲れちゃった、って。だから、充電したいって」
ひとみちゃんが正直に僕のさっきの言葉を繰り返した。
我ながら、恥ずかしい台詞だった。他の人の口から聞くと、顔から火が出そうだ。
「充電かぁ……ものは言いようだ」
美也子はやれやれ、と肩をすくめて、なにやら紙袋を
「出張行ったから、お土産渡しに来ただけだから、もう、帰るわ。どうぞ、ごゆっくり」
「あ。美也子ちゃん、ごはん、食べていかない? 今日、カレーなの」
「お兄ちゃんは、カレーよりほかに食べたいものがあるみたいだけど?」
じゃあね、と手を振りながらも僕を睨んで、美也子は出て行ってしまった。
「美也子ちゃんに悪い事したなぁ……」
困ったようにつぶやくひとみちゃんに、ごめん、と謝ったものの、やっぱり今日は――
「……ひとみちゃん、やっぱり充電したいんだけど」
一瞬目を見開いたものの、ひとみちゃんは可笑しそうにくすくす笑って僕にくっついてきた。
「トータス・トゥース、だったっけ?」
ああ、と僕は頷いた。
「Totus tuus」
「ああ……綺麗な発音。やっぱり聡史くん、それ、すごく素敵だよ」
うっとりしたように言われて、複雑な気分になる。イケボでラテン語、という藤澤のくだらない言いぐさを、またしても思い出してしまったのだった。
「もう、わたしは聡史くんのものだから、好きにしていいんだよ?」
ものすごく可愛い顔でそんな台詞を言って僕のほおに短くキスをして、するりとひとみちゃんは離れていってしまった。
「ちょっとだけ待ってね。お土産、桃みたいだから、冷蔵庫に入れてくる。あと、お弁当箱とお箸、ちょうだい?」
「お弁当、とてもおいしかった。いつもありがとう」
手提げ袋ごと、はい、と渡した。
「洗ってあるから」
「いいのに」
「僕がしたいから、してるだけ」
少しだけ困った顔で「ありがとう」と言ってから、ひとみちゃんは台所へ消えた。
すぐに行くから、上で待っててね、と言い残して。
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