第24話 Totus tuus(聡史)④

「あ、芹沢先生。丁度よかった」

 研究室へ戻る途中、廊下で事務の女性に声をかけられた。

「今、研究室に行ったら、まだお戻りじゃないって言われて」

「すみません。試験だったもので、講義室で答案のチェックをしてまして」

 あ、いいんです、いいんです、と慌てたように手を振って、彼女は封筒を渡してきた。

「給料明細です。今月もお疲れさまでした」

「ありがとうございます」

 答案が入った封筒を脇に抱えなおして、両手で受け取った。そうだった、今日は給料日だった。

「ご結婚されましたよね? それで、今月分から少し金額が変わっていますので、ご確認ください」

「わかりました。わざわざありがとうございます」

 会釈してそのまま行こうとすると、あの、と引き留められた。

「園田さんに、聞きました。奥様、とってもかわいかったって」

「え?」

「ひとみちゃん、でしたっけ?」

 にっこり微笑まれてしまって、困惑した。はあ、と深いため息が漏れる。

 藤澤といい、園田さんといい、なぜみんなこうも口が軽いのか。

 ついこの前、園田さんとひとみちゃんが中庭のベンチで一緒にいるのを見たときには、驚くのを通り越して冷や汗が出たのを覚えている。別に何か疚やましいことがあるわけではないけれど、昔、一度告白されたことのある相手でもあるし、ひとみちゃんにあらぬ誤解をされるかもしれない、と思うだけでぞっとした。

 もちろん、特にひとみちゃんに嫌な思いをさせたわけでもなかったし、園田さんはいつもの調子で僕をからかって楽しそうにしていただけだったから、まあ、いいのだけれど。

 待ち合わせ場所にしている中庭は、文学部の建物からは少し遠い。たまたま通りかかる、という場所でもないはずなのだ。つまり、園田さんは、ひとみちゃんを見つけるために明らかにわざわざ中庭まで出向いていっていたふしがある。あそこに、ひとみちゃんがいることがある、という情報の出どころは、当然、藤澤だろう。

 それにしても、なぜ、この前のあれがこの女性にまで? と考えかけて、あ、と思い至る。

「そうか。後輩でしたっけ、彼女の」

「そうなんです。ESSのときの」

 この女性は、僕や園田さんと同じ高校出身だ。僕はまったく接点がなかったけれど、園田さんは部活が同じだったと言っていた。英語が堪能だから、留学生の相談窓口の担当でもある。

「噂には聞いていたんですけどね。園田さん曰く、ほんとに天使みたいだった、って」

 今度、ぜひお目にかかりたいです、と楽しそうな彼女に適当な返事をして、逃げるように研究室へ戻った。園田さんのところに文句を言いに行きたい気分でもあったけれど、とりあえず、採点に取り掛かることにする。今日はもう授業はないし、これを終わらせてしまえば、気持ちよく家に帰れる。

 採点を始める前に、給料明細を確認した。控除額が少し変更になっているのと、扶養手当がついているため先月より金額が多くなっていた。年齢の割に収入は悪くはないのは、ありがたい。学者なんて貧乏、というのが相場だろうけれど、運よく専任講師になれたから、結婚前はもちろん、ひとみちゃんと結婚してしてからも、お金の心配は当面必要ない。

 結婚前に、お金のことを心配している様子だったから、ひとみちゃんにもちゃんとそう話してあった。

 彼女の両親が残したお金がかなりあることを聞かされたけれど、特に驚きはしなかった。飛行機事故の賠償金が支払われているだろうことは予想ができていたし、ただ、それは教会に寄付したのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。

 ひとみちゃんを引き取ったときにすぐ、ラクロア神父は将来のためにお金の管理を弁護士に一任していたという。賠償金と三倉さん一家が住んでいた家のあった土地を売却したお金のみならず、両親の口座に残されていた普通預金と定期預金も、ひとみちゃん名義の口座に移してそっくりそのまま弁護士が管理していて、一切手つかずだったようだ。

 どちらも、ひとみちゃんが自由にするお金だよ、と伝えた。これからの生活に関しては、何も心配いらないから、僕に任せて、と。

 僕は結婚前からお金のかからない生活だったし、ひとみちゃんも自分のことにほとんどお金を使わない。必要なものは遠慮しないで買ってね、といくら言ってもどうしても遠慮するから、洋服や靴なんかは一緒に出掛けたときに勧めて選んでもらうようにしている。

 そもそも、修道院暮らしで培ったらしい質素な生活がすっかり身についているのか、お金のやりくりは舌を巻くほど上手い。食材の買い物ひとつとっても実に無駄がないし、料理もすごく上手だ。

 毎日お弁当を作ってくれるおかげで、昼食代もかからなくなった。しかも、美味しい上にきちんと栄養のバランスも考えてくれているから、体調もすこぶるいいし、家に早く帰りたいから、寄り道もまったくしなくなった。美也子と暮らしていた時と比べても、お金が格段に上手に節約できて、どんどん貯まりそうな気配なのだった。

 通信制の高校の学費だけは、どうしても自分で出したいと言ってきかなかった。必要な本などは遠慮しないで買ってね、と言ってあるけれど、図書館や僕の部屋の蔵書をうまく利用してだいたい事足りているらしい。

 僕を送り出したあとは、掃除や買い物、食事の支度などの家事以外の時間は、ずっと通信の勉強をして過ごしているらしい。わからないところを夜に僕に質問してくることもわりとあって、熱心に勉強しているのがよくわかる。

 たまには遠慮なく息抜きに出かけてね、と言っても「お出かけは、聡史くんと一緒にしたいから」と、だいたいは家にいるようだ。仕事終わりに、たまに美也子が顔を出しに来てくれるらしく、それが密かな楽しみらしい。

 ひとみちゃんは、文句のつけようがないくらい完璧だった。あのとおりすさまじく可愛い上に、あらゆる面で素晴らしく有能なのだった。気性も穏やかでふんわりした雰囲気だけれど、芯は強い。僕は本当に幸せ者なのだろう。

 絶対に愛想をつかされることのないよう、僕も襟を正して生活するようになった。

 美也子にしょっちゅう文句を言われていた服装に関しても、ひとみちゃんと並んで恥ずかしくないよう気を配るようになったし、寝ぐせは絶対に直してから出かけるようになった。フロスを使って丁寧に歯磨きするようにもなった。

 家のこともなるべく率先してやるようになったけれど、これは全て僕がそうしたくてしてるだけだ。ひとみちゃんが好きだから、そうしているだけだ。何の苦でもないし、ひとみちゃんと一緒にいられるのが、むしろ幸せすぎて怖いくらいなのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る