第23話 Totus tuus(聡史)③
その後は、毎週末に横浜までひとみちゃんに会いに行った。
いろいろな手続きで忙しそうにしていたものの、会いに行くととても喜んでくれた。ラクロア神父のご厚意で、毎回教会のゲストルームに泊めていただいて、引っ越しや結婚式の準備を二人で進めた。
冗談めかして――いや、あれは半ば本気だった――美也子に釘を刺されたのもあるが、正式に結婚するまでは絶対に一線は超えまいと心に決めていた。けじめでもあるし、なにより、ひとみちゃんはれっきとした未成年だ。真剣な付き合いとはいえ、12も年上の自分が簡単に手を出すわけにはいかない。言い方はどうかと思うが、まったくもって美也子の言う通りだ。
そういう僕の決心などおかまいなしに、ひとみちゃんは夜になると必ず僕が泊っている部屋までやってきた。ラクロア神父に挨拶しに来たあの晩のように、遠慮がちにノックをして、遠慮がちに扉を開けて「ちょっとだけ、いてもいい?」とすさまじく可愛い顔で尋ねてくる。
お腹を空かせたオオカミのところに、可愛い子羊はやってくる。やっぱりせっけんのいい匂いをさせて、薄い生地の寝間着姿で。
他愛のないおしゃべりをして、「そろそろ寝るね」と部屋に戻る前に、ひとみちゃんは必ず僕にくっついてきた。あの晩にちゃんと警告したのに、忘れてしまったのか、それともわざとなのか。毎回、なけなしの理性とやたらと元気のいい本能の板挟みになって苦しい事この上なかった。甘美な拷問、という言葉ではぬるすぎる。完全な生殺しである。
それで、結局は毎回抱き寄せてキスをしてしまうのだけれど、これはこれで、やっぱり拷問だった。あまり長い間ベッドの上でそんなことをしていれば、さすがにいつまでも紳士ではいられなくなりそうだし、かといって、あっさり軽い「おやすみのキス」で済ますのも回を重ねるごとに難しくなっていった。
そして、ある晩のことだった。確か、結婚式の前の週の土曜で、いつものように僕は教会のゲストルームに泊まっていた。
ウェディングドレスのリメイクもちゃんと仕上がってきていたし、刻印をお願いしていた結婚指輪もできあがっていたし、準備は万端だった。いよいよだね、楽しみだね、と微笑み合って、いつものように「そろそろ寝るね」とひとみちゃんは僕にくっついてきた。
華奢な肩と腕はいつもどおり。でも、その晩はいつもよりもしっかり密着してきたせいか、腕にはっきりと柔らかい感触があたっていた。
考えるまでもなく、胸のふくらみだ。
その柔らかさといつもどおりのいい匂いとで、やっぱり頭がくらくらする。僕はそのままひとみちゃんを抱き寄せて、ふわふわの髪をなでていた。
極力、何も考えないでおこう。
柔らかさの源とか、髪から見え隠れするふっくらした耳とか、白い首筋とか、寝間着の襟ぐりから見える小さなほくろとか、そういうのは考えないでおこう、と具体的に言い聞かせている時点で、すでにしっかりあれこれ考えてしまっていたのだけれど。
この時点でおさまれば、事なきを得たはずなのだ。けれど――
しばらくのち、腕の中でもぞもぞ動いていつものように僕を見上げてきたひとみちゃんの目は、どこか、とろんとしていた。眠たげなのとははっきり違う。熱に浮かされたような、そんな悩まし気な二つの瞳が僕を見ていた。
とっさに、『素でフェロモンばんばん出てる』という美也子の台詞を思い出す。
ちょっと、なんだよ、その目。もしかして誘ってるの? と危うく誤解しそうになって、いやいや、身勝手な妄想だろう、と理性で抑えつける。心臓がばくばくいってるのを気取られやしないかひやひやしながら、ひとまず、いつものようにそっとキスをした。余裕がないと思われないように、なるべくゆっくりと。
おかしな雰囲気になる前にすぐやめろ、と理性が警鐘を鳴らしていた。
いつものように、「さ。もう、おやすみ」と言って、部屋に帰すんだ。
わかるだろう? こんなことしてたら、絶対にまずいから。
わかっているのに、キスをやめられなかった。しかも、気づくとひとみちゃんの唇がわずかに開いていた。これ、ぜったいにまずいやつだ。今まで、我慢して軽いキスでどうにか止めてきたから、舌を入れたことなんて一度もなかったのに。
あ、と思う間もなく、勝手に口が、舌が動いていた。気づくと、ひとみちゃんを閉じ込めている両腕にも力が入っていた。背中を撫でて、肩や腕を滑って、身体のラインを確かめるように手を滑らせる。華奢で、でもとても柔らかなひとみちゃんの身体の感触がたまらなくて、手が勝手に動くのを止められない。
やめないと、これ、本当にまずい。
わかっているのに、ふっくらした唇を割って差し込んだ舌が、勝手に奥まで潜り込む。一瞬、びっくりしたように硬直した華奢な身体は、すぐにくたっと弛緩した。無防備に僕に身体をあずけたまま、おっかなびっくり応えるようにひとみちゃんの舌が僕のそれに絡んでくる。その拙い動きがもどかしくも、なおさら僕を煽る。意志とは関係なしに、身体の奥が熱くなっていた。
やめろって、言うこときけよ、という理性の声がする。
うん、もう少ししたら、絶対やめるから、あともう少しだけ。言い訳しながら、僕は夢中でひとみちゃんに口づけていた。歯磨きしたからか、ほんのり甘い薄荷のような味の柔らかい舌の感触がたまらなかった。頭のてっぺんからぞくっとするような心地よさが全身を覆っていく。やめたくない、このままずっとキスしていたい、とぼんやり思いながら、相変わらず、手は勝手にひとみちゃんの身体を撫で続けていた。
胸に触れそうになったところで、んっ、と苦しそうな声が鼻から抜けて、ひとみちゃんが身じろいだ。その隙に、キスをしたままひとみちゃんの身体をベッドに倒した。抵抗するそぶりはまったくなかった。少しだけ目を開けてみると、伏せた長いまつげが視界に入ってくる。目を閉じ、僕に唇を奪われるままの無防備なひとみちゃんを前に、か細い理性の声がする。
だめだって。なぜ押し倒す? 一体、この後どうするつもりだ?
こんなことをしたら、十中八九やめ時を逃して、このまま服を脱がせてしまうだろう。
現に、手が勝手に寝間着のボタンを探り始めていた。一つ目をはずし、そのまま二つ目を指でたどる。
しない、って決めてたはずだろう?
おい、相手は未成年だぞ?
なけなしの理性は、意外と強かった。未成年、というフレーズで、さすがの本能もようやく鎮まった。
やっとの思いで、僕はひとみちゃんから唇を離した。正直、名残惜しくて、たまらない。
すっかり濡れてしまった自分の唇を拭いながら見おろすと、目を閉じたままくたっと横たわったひとみちゃんは、ちょっと苦しそうに肩で息をしていた。オレンジ色の間接照明で、同じく濡れた唇がてらてら光っている。これは視覚的にかなり堪える。思わず吐息が漏れる。
『ごめん……』
親指の腹でひとみちゃんの唇をそっと拭うと、ゆるゆると瞼が開く。さっきと同じく、とろんとした目が僕を見ていた。
ああ、だからその目、やめてほしい。
そうやって誘うの、やめてほしい。
12も年上の男を誘惑するの、反則でしょう、ひとみちゃん。
無自覚な色気、という美也子の言葉を恨めしく思い出していた。
『そ、そんな可愛い顔されると……って、いや、ごめん。我慢できなくて』
『……我慢、しなくて、いいよ?』
とんでもない事を口にして、ひとみちゃんは僕の手をひっぱった。ふっくらしたほおに導かれる。やわらかいそれは、少し熱を持っていた。
『聡史くん、オオカミになっちゃっただけだよね? だって、そのうち、って言ってたよね?』
そのうち、って確かに言ったけど、それは、きちんと結婚してから、という意味だったのだ。
『い、いや……だめだよ。ちゃんとけじめはつけるって、決めてたから』
『でも。聡史くん、辛いんじゃないかな、って思って』
心配そうにそう言うひとみちゃんは、恐ろしいくらい綺麗だった。
こういう行為とはまったく無縁な可愛らしい顔をしているくせに、そのほおはほんのり赤く、やっぱりとろんとした目だ。半開きの唇は、さっきのキスの余韻でまだ濡れている。
天性のファムファタル。またしても、美也子の言に同意せざるを得なかった。
確かに辛い。辛すぎる。
このまま全部脱がせて、好きなようにしてしまいたい、というのが本音だ。
でも、さすがに面と向かって12も年下の相手にこんなふうに言われると、恥ずかしいのを通り越して、若干情けなくもある。
『いや、別に、こういうことをしたいからってだけで、ひとみちゃんと一緒にいるわけじゃないし』
『でも。わたし、ちゃんと聡史くんのものになりたいの。早く』
これでもかというほどの殺し文句を、すさまじく可愛い顔で言ってのける。なんという罪な天使だろう。
情けないことに、どう答えていいのかわからず、ぼんやりしてしまう。そんな僕に、ひとみちゃんはこう続けた。
『ほら、指輪に刻印してもらったじゃない? あの……』
あ、と僕は思った。短いラテン語の愛の言葉。
『Totus tuus』
僕がその言葉を口にすると、ひとみちゃんはうっとりしたように息を吐いた。
『聡史くん、発音、綺麗だね……かっこいい』
『そうかな?』
『うん。とっても素敵』
そう言ってから、ひとみちゃんはほおに触れている僕の手に自分の手を重ねた。
『身も心もすべて、あなたに捧ぐ。だから、全部まるごと聡史くんのものになりたいの』
『ひとみちゃん』
僕はひとみちゃんを抱き起して、そのまま腕に閉じ込めた。さっきとは違って、そっと、優しく。
『婚約指輪を贈ったときに僕が言ったこと、覚えてる?』
うん、と腕の中でひとみちゃんがうなずく。
『もう、ひとみちゃんは僕のものだよ』
『うん』
『引っ越したら、ずっと一緒にいられる。 毎晩でも、こうやって……』
あ、何言ってるんだろう、自分、と首を振って、言い直した。
『だから、ね。ちゃんと結婚式がすんでから……って、さっきあんなことしておいて僕が言うのも、おかしいか』
ふふふ、とひとみちゃんが笑う。
『なんだか、聡史くん、違うひとみたいだったね』
『ご、ごめん……怖かった?』
『ううん。でも、すごくどきどきした。それに、素敵で、ぼうっとしちゃった』
ひとみちゃんの腕がそろりと伸びてきて、僕の身体に回った。
『あんなふうなキス、初めてでびっくりしたけど……』
『ほんと、ごめん……ひとみちゃん、すごく可愛いから、我慢できなくて』
『……我慢、しなくて、いいよ?』
再び同じ台詞を繰り返すと、ひとみちゃんは身じろいで僕を見上げてくる。すぐに、まつ毛が伏せられた。
キスをねだる様に目を閉じるその姿は、理性も白旗をあげるほどの可愛さだった。
あれはさ、ただめちゃくちゃ可愛いだけじゃなくて、男を惑わすね、間違いなく――美也子の言葉に心底納得しながら、僕はそのままひとみちゃんに口づけた。小さな、おやすみのキスだ。
『今日は、もうおやすみ。結婚式が終わったら……我慢しないけど』
気づくと、セットしておいたタイマーが鳴り、試験終了の時間を告げていた。
講義室内には、1/3ほどしか学生は残っていなかった。途中退出OKにしておいたから、早々に解き終わった学生は、答案を机上に残して帰っていた。
うまく働かない頭のまま、僕は椅子から立ち上がった。
「時間です。学籍番号と名前が書いてあることを確認して、答案を提出してください。お疲れさまでした。良い夏休みを」
ガタッと席を立つ音で、ようやくゆるゆる意識が戻ってくる。
答案を受け取りながら、やれやれ、と苦笑していた。午前の残りの採点10枚と点数の転記が終わってからほぼ1時間もの間、あれこれ思い出していたとは。しかも、最後のは――とてもじゃないけど、何を考えていたか、なんて人に言える代物じゃない。
もう、身も心もひとみちゃんは僕のものだ。
そして僕も、身も心もひとみちゃんのものだ。
それでもやっぱり、日中ずっと離れて過ごして家に帰ると、愛しくてたまらないと思ってしまう。ひとり占めして、全部欲しいと思ってしまう。この先、たぶんずっとそうなんだろう。
やっぱり、僕はひとみちゃんにめろめろなんだ、と近頃はもう諦めている。いいよ、別に。最愛の妻にめろめろだっていうのは、誰に文句を言われる筋合いでもないだろう。
途中退出した学生の分の答案を回収しながら、僕は自然と微笑んでしまうのだった。
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