第22話 Totus tuus(聡史)②

 ラクロア神父に挨拶をしに横浜へ行った日の翌日は、日曜だった。夕方の新幹線で長野に戻る予定だったから、それまではひとみちゃんと二人で横浜散策に出掛けた。

『これって、デートだね』と嬉しそうにしている姿はやっぱりとても可愛らしかったし、僕としても横浜はしばらくぶりだったから、新鮮な気分であちこち見て回ってすっかり堪能した。

 おやつにしよう、と立ち寄ったカフェで僕は切り出した。

『ひとみちゃん、函館にはいつ行こうか?』

『え?』

 フルーツをたくさん添えてあるプリンを美味しそうに食べていたひとみちゃんは、びっくりしたように僕を見た。

『函館って、修道院のこと?』

『そう。挨拶に行くでしょう? 僕も行くよ』

 ひとみちゃんはいったんスプーンを置いてから、少し困ったような顔になった。

『えっとね。函館には、わたしひとりで行きたいの』

『え? どうして?』

 てっきり喜んでくれるとばかり思っていたから、予想外の反応に少なからず動揺していた。ちょっとした旅行気分で多少浮かれてもいたから、冷や水を掛けられた気分でもあった。

 困惑が顔に出てしまっていたみたいで、気づくと、ひとみちゃんはすまなそうに僕を見ていた。

『ごめんね。でも、これはわたしの問題だから』

『ひとみちゃん……』

『ラクロア先生だけじゃなくて、あちらの人たちにも迷惑をかけてしまったから。わたしの勝手な行動で』

 目を伏せて唇をちょっと噛む仕草をしてから、ひとみちゃんは再び僕を見た。

『だから、これはわたしひとりで向き合わないとダメだって思うの』

 可愛い顔はいつも通りだけれど、その眼差しは初めて見るものだった。意外と頑固なところのある子です、というラクロア神父の言葉を思い出させる、強い光を湛えていた。

『ちゃんと、終わらせるの。わたしひとりで』

 はっきりとそう言ってから、ひとみちゃんはふわりと笑顔になった。

『大丈夫だよ。終わらせて、ちゃんと帰ってくるから』

『わかった』

『わたしの帰る場所は、もうあそこじゃないから』

 ひとみちゃんは再びスプーンを手に取って、プリンを食べ始めた。やっぱり美味しい、と嬉しそうに言う。

『こういう美味しい物とか、綺麗なものとか、素敵なものがたくさんある、この世界だもの』

『うん』

『聡史くんがいるのも、ここだもんね』

『そうだね』

 かつて、やすらかで真っ白になりたかった、と言っていたひとみちゃんはもういない。

 このプリンに添えてあるフルーツのように、美しく彩られたこの世界で幸せそうに微笑むひとみちゃんを見ながら、僕はそう思った。


 数日後にすぐ函館へ向かったひとみちゃんに、帰りはそのまま長野まで来てくれるように頼んでおいた。僕の両親に会ってもらうためだった。

 両親を飛行機事故で亡くしたこともあり、ひとみちゃんの移動手段はもっぱら新幹線や電車だ。長時間の移動で疲れているだろうから、1日うちで休んでもらってから、翌日、僕の両親が暮らす群馬の診療所へ一緒に出掛けた。

 両親には、すでにひとみちゃんと結婚することを伝えていた。小さなころからうちによく遊びに来ていたし、ふたりともひとみちゃんをとてもかわいがっていたから、かなり驚いてはいたものの喜んでくれた。特に母親は「研究ばかりで一生独身なんじゃないかと心底心配していたから、本当によかった」と半泣きになっていたくらいだ。

 美也子が見立てたピンク色のシンプルなワンピース姿のひとみちゃんは、やや緊張した様子で僕の両親と対面した。ひとみちゃんのご両親が亡くなった経緯をよく知っているから、父も母も『こんなに若くて可愛い娘ができて嬉しい。本当の親だと思って、なんでも遠慮なく言ってほしい』と優しく彼女を出迎えてくれた。

 そして予想通り、二人とも口をそろえて言ったのだった。本当に綺麗なお嬢さんで、聡史にはもったいない、と。

 ひとみちゃんが函館の修道院にいたことや、僕たちが再会した経緯などをかいつまんで話すと、『神様っているのねぇ』と母親は涙を流していた。

 その神様ではなく自分を選んでもらった僕としては、少し複雑な気分だった。クリスチャンではないけれど、神様には一生頭が上がらないかもしれない。

 父親は、ひとみちゃんがこんなに早く結婚してしまうことを少し心配しているようだった。意図を察したらしいひとみちゃんは、通信で高校の勉強をする予定でいる、と話した。学校に通うより僕の傍にいたいけれど、きちんと勉強はしたいので、と。その言葉に、父親は安心した様子だった。

 新居をどうするか、実は少し迷っていた。両親は、長野の実家でそのまま暮らせばいい、と当然のごとく言ってくれたし、僕としても通勤を考えるとそれが一番だった。ただ、今一緒に暮らしている美也子には気を遣わせてしまうことになるから、いっそ大学の官舎に空きがあればそちらに引っ越した方がいいのかもしれない、とも考えていた。少し狭いのが難点だが、大学のすぐ隣ではある。

 予想通り、ひとみちゃんは「これまでどおり美也子ちゃんも一緒に暮らせばいい」と言った。ひとみちゃんがいいなら、もちろん僕としてもそれでもかまわないけれど、やはり、美也子は気が引けたようだった。

 横浜へ帰るひとみちゃんを見送ってから長野へ戻った晩、夕食後に居間のソファーで本を読んでいると、美也子が切り出してきた。

『お兄ちゃん。あたしね、ここ出ることにしたから』

『え?』

 驚いて、テーブルに本を置いた僕の横に、ちょっとかしこまった様子で美也子は座った。

『大学の時の友達が、この近くに住んでるのね。結構広いし、一部屋まるまる空いてるから、ルームシェアすることにしたの』

 半ば予想通りではあった。ああ、やっぱりそうか、と。

 でも、僕が出て行くからこのままここに住んでいいよ、と言ったところで、それはそれで美也子も困惑するだろう。こんな広いところにあたしひとりで住むの、変でしょ、とか言いそうだ。

『なんか、気を遣わせたね。ごめん』

『そりゃ遣うわ。新婚ほやほや夫婦と同居とか、あたし、確実にお邪魔虫じゃん』

 いつもの調子で美也子は顔をしかめた。

『二人だって、嫌でしょーが。人目を気にせず、思う存分いちゃいちゃべたべたしたいだろうに、あたしなんかがうろうろしてたら、ストレスでしょ。あたしだってストレスだわ、目のやり場に困るだろうし』

『言い方、どうにかならないのか、それ』

 ため息を吐いた僕に、美也子はふふんと鼻を鳴らして見せる。

『言い方、が問題なわけね。つまり、二人きりでラブラブしたいってのは、なんら間違ってない、と』

『否定はしないよ。せっかく結婚するんだから、ちゃんと仲良くしたい』

『はいはい。結婚したら、毎晩うーんと仲良くしてください。いろんな意味で』

 いろんな意味で、仲良く、って。品のない当てこすりは、相変わらずだ。気恥ずかしいのもあって、言い返す気すら削がれた。

 美也子はいつものようににやにや笑っている。

『というか、お兄ちゃん。まさか、ひとみちゃんに、手、出してないよね?』

『どうしてお前にそんなこと言われなきゃいけないんだよ?』

 思わず目をそらしてしまってから、良心に恥じることなどないだろう、と思い直す。

 軽いキスくらいは、手を出したことにはならないだろう。今時、高校生だってそのくらいはしているはずだ。狼狽するには及ばない。ちゃんと、婚約者なんだし。

 見れば、美也子はどこか意味ありげに片方の眉を上げていた。

『ひとみちゃんってさ、ああ見えて、素でフェロモンばんばん出てるから、気をつけなよ、お兄ちゃん』

『は?』

 フェロモン?

 ひとみちゃんとは最も結びつきそうにない単語が出てきて、わけがわからなくなった。

『わっかんないかなー? あの無自覚な色気。あれは、天性のファムファタルだって』

 美也子はテーブルの上の僕の本を手に取った。

『こんな小難しい本ばっか読んでるから、疎いんだよねー、お兄ちゃんは。あれはさ、ただめちゃくちゃ可愛いだけじゃなくて、男を惑わすね、間違いなく』

 確かに、とどこかで納得していた。

 実際、惑わされて大変な目に遭った。ラクロア神父のところにあいさつしに行った晩のことを思い出す。

 ほんのり赤くなって恥ずかしそうな表情を浮かべていた、あの時のひとみちゃんはすさまじく可愛くて、完全に僕は翻弄されていた。

『ってか、すでに惑ってるね、その顔だと』

『な、なんだよ、それ』

『12も年上なんだから、しっかりしなよ、お兄ちゃん。とにかく、結婚式が終わるまでは、セックス禁止』

『……少しはオブラートに包めよ』

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