第21話 Totus tuus(聡史)①

 赤いボールペンで採点、というのは、この時期以外にほとんどしないから新鮮に思える。

 試験期間は悪夢だ、と高校で教えている学部時代の友達は会うたび零しているが、まあ、年に何度も考査があれば、確かに大変だろう。彼曰く、採点と成績処理は、授業より体力を削られるらしい。

 その点、大学は基本的に前期と後期に考査は1回ずつしかないし、テストを実施せずにレポート提出で評価する授業も多い。おかげで、採点が悪夢になるほどの目に遭わずに済んでいる。授業の準備はそれなりに大変ではあるけれど、慣れてはきたし、自分の研究にプラスに働いてる面も少なくない。そう思えるのは、4月からの多忙な日々をどうにか乗り切ったご褒美のようでもあり、悪い気分ではないのだった。

 ともあれ、前期も最終週だ。今日の午前最初の授業は、期末考査だった。約40人分の採点というのは高校の1クラス分とほぼ同じだろう。僕としては、ほぼ頭を使わない単純作業なので飽きはするものの、早く終わらせてしまえば夜のんびりできるわけで、さほど苦でもない。

 昨日、ようやく学会発表が終わって、これでひとみちゃんに寂しい思いをさせずに済む。夜の時間はちゃんと空けるつもりだった。幸い、明日の専門科目の授業はレポートで評価する旨を伝達済みで、しかも、5月にフィールドワークで数回土日を使ったため、今週は休講にしている。つまり、今日きっちり仕事を片付けてしまえば、明日は休みにできるわけだ。

 研究室に戻ってくるなり間髪入れずに採点をし始めた僕に、助手もしてくれている院生はちょっと呆れ気味のようだった。

「1講目、西洋思想史でしたっけ? レポートじゃなくて、結局はテストにしたんですか?」

「うん。午後の概論もね。あ、そうだ。悪いんだけど、印刷がまだだからお願いしてもいいかな? 30人分」

 クリアファイルごと、テストの原版を渡した。

「両面印刷1枚で。サイズはこのままでいいよ」

「わかりました。っていうか、テスト作る方が面倒じゃないですか?」

「他の一般教養の授業うち、3つはレポートにしたから、さすがにね」

 いくら読むのが苦ではないとはいえ、さすがに全クラスレポートだと、評価にムラが出そうな気がした。それで、残りの2クラスはテストにしたのだった。西洋思想史と、キリスト教史概論だ。

「思想史も、一般教養だから、広く浅くだったんだ。1回生が大半でね。高校の倫理とさほど変わらないから、問題作成といってもまったく面倒じゃない。概論は記述問題が多めで、こっちも楽ちんだったな、作るのは。ただ、採点が少しやっかいかな。まあ、でも30人しかいないから」

「どうせ夏休みに入るし、のんびりやりましょうよ」

 のんびりしたいのは、本人の方らしい。あと1週間で夏休み、ということで気もそぞろなのが透けて見える口ぶりと顔だった。

 立場上、一応は面倒を見る義務も多少はあるから、釘を刺しておくか。

「あまりのんびりしていると、あっという間に秋だ。面白そうな学会に顔を出す余裕は、残しておきたいものだよね、お互い。まあ、僕は、夏休み中は今書いてる自分の論文をしっかり進めるつもりなんだ。のんびりだなんて、言っていられないかな」

 痛いところをしっかり突かれた格好の彼が、嫌そうな顔になる。僕はわざと微笑んで見せておく。

「2クラス分の採点なんて、集中すれば半日足らずで終わる。レポートを読むより、楽ちんだ」

「半日で終わるの、芹沢先生くらいですって……」

 呆れたようにため息をついて隣の印刷室へ向かう姿を見計らったように、さっきからずっと黙ったままだったもう一人の院生が顔を上げた。読み耽っていたはずの資料をあっさりパタンと閉じると、なぜか楽しそうに話しかけてきた。

「せーりざわ先生、夏休みのご予定は?」

「まあ、いろいろ」

「あの奥様と?」

「あの、ってなんだよ。また余計なこと言いふらすだろうから、君にはもう何も言わないと決めたんだ」

 そんな冷たい事言わないでくださいよー、とぶつぶつ言うのを無視して、黙々と採点を進める。2講目が空いているから、半分くらいは終わらせてしまうつもりだ。正直、この口の軽い院生――藤澤けいにかまっている暇はない。

 ひとみちゃんがこちらに引っ越してきたのが7月7日で、この日に婚姻届を出した。なんの気なしにそんな話をした僕も、いま考えると愚かだったのだけれど、この藤澤という男はとにかくお調子者で、面白そうだと思うとなんにでも首を突っ込みたがる。まあ、根は真面目で研究熱心ではあるのだけれど、旺盛すぎる好奇心はややもすれば野次馬根性と言えなくもない。

 なぜかとても感心したように、あの時、藤澤はうんうん、とうなずいていたのだった。

『うわー。七夕が結婚記念日なんて、超ロマンチックっすねー。いいなぁ』

『まあ、記念日だから、ね』

 やたらと興味津々にされて多少引いたものの、確かに、ひとみちゃんもとても喜んでいた。控えめに同意しておく。

『女の子はイベント好きだから、嬉しいみたいだね』

『女の子、かぁ……芹沢先生の口から、女の子、なんて語彙が出るとは』

 耳聡い、というかこれはうっかり口を滑らした僕が悪かった。

『可愛い系っすか? 奥さんって』

 不躾な質問だから、お茶を飲んでさり気なく無視をした。

 可愛い系、じゃなくてすさまじく可愛いよ、とこっそり思いながら、そ知らぬふりで僕はその時お弁当を食べていた。もちろん、ひとみちゃんが作ってくれたものだ。いつも手が込んでいて、とても美味しい。

『それ、奥さんのお手製ですか、もしや』

『うん』

『旨そうですねー、いいなぁ』

『昼、行ってきていいよ。留守番してるから』

 面倒くさいから追い払うつもりでそう言うと、たまたま研究室の電話が鳴った。

『あ、俺出るからいいっすよー』

 腰の軽いのが唯一の取り柄だ。藤澤がすぐに立ち上がったから、僕はそのまま食べ終わったお弁当箱とお箸を流しで洗い始めていた。はい、日下部研究室です、というよそ行きの声を聞きながら、蛇口をひねる。

 忙しいのだから、そのまま持って帰ってきてね、とひとみちゃんは言うけれど、とてもそんなことはできない。毎朝早起きして用意してくれるのはとても嬉しいし、ありがたい。そもそも、僕がそうしたいからしているわけだから、と思いながら洗ったお箸とお弁当箱を布巾で拭いていたその時だった。

『はい。ええ、居りますが……あ、もしかして、芹沢先生の奥様ですか!?』

 え、と思って視線を向けた先で、藤澤は受話器を耳に当てたまま、にやにやしながら僕を見ていた。

『あ、ちょっと待ってくださいね。いまちょうど弁当箱洗い終わったみたいだから、代わりますねー』

 余計なことを言うな、と睨みつつ手を拭いて受話器を奪い取った。

『もしもし?』

『聡史くん? ごめんね、忙しい時に』

 受話器の向こう側から、おずおずとちょっと困ったような声がした。

『あ、ううん、大丈夫だよ、昼休みだし』

『あのね、ソファーの上にあった大きい封筒、お仕事で使うものじゃないのかな?』

『あ』

 やってしまった。午後の授業で使う資料を、家に置き忘れてしまったらしい。

『3講目で使うものなんだ、それ。ああ、困ったな……』

『ごめんね。午前中ずっとダイニングで勉強してたから、さっき気が付いて』

『いや、いいんだ。ひとみちゃんのせいじゃないよ』

 はっ、と息を呑むような大げさな気配がして見やると、藤澤が目をまん丸にしてこちらを見ていた。

 ああ、馬鹿だ。うっかりした。忘れ物に気を取られて、ハイエナに餌をばらまくような真似をしてしまった。

 藤澤は満面の笑みで「ひとみちゃん、かぁ」とつぶやいていた。

 早く昼食行ってこいよ、と思いながら睨んでやったら、受話器の向こうでひとみちゃんがこう言うのだった。

『あの、それでね、今、大学の正門のところまで来てて』

『え、ほ、ほんとに?』

『勝手にごめんね。困ってたら、大変だと思って……』

 なるほど、周りがうるさいのは、公衆電話からだからか、と納得した。

 それにしても、助かった。あれがないと、3講目は授業にならないところだった。

『いや、どうもありがとう、とても助かったよ。今すぐ取りに行くね』

 すぐに受話器を置いて、僕はさっと研究室を出た。急いで正門へ向かう。予想通り、藤澤はさりげなくついてきていたらしい。

 そういうわけで、淡い水色の可愛らしいワンピース姿のひとみちゃんから、例の封筒を受け取るところを、ばっちり見られてしまったのだった。

 そのあとのことは、正直、思い出したくもない。

 研究室に戻るなり、藤澤はひとりで大騒ぎしていた。他に誰もいなかったのだけが幸いだった。

『なんすか、あの美少女は!? ひとみちゃん、一体何歳っすか、芹沢先生!』

『……うるさいな。早く昼行ってくれば? 終わるよ、昼休み』

『死ぬほど可愛い上に、めちゃくちゃ若いじゃないですか! 髪、ふわっふわで、あれ、まんまフラ・アンジェリコっすよ。マジ天使!』

 一番見られてはいけない人間に見られてしまった、と後悔したけれど、もう遅かった。

 そこそこ優秀ではあるが、とにかく口の軽い藤澤は、あっという間に知り合い連中に触れ回り、瞬く間に大学中に知れ渡ってしまったのだった。

 ひとみちゃんがすさまじく可愛らしくて、ものすごく若くて、まるで天使みたいな女の子だということが。

 おかげで、同僚には冷やかされるわ、学生からも「結婚おめでとうございます」とか「奥様すごく可愛くてお若いんですってね」とか「今度ぜひお目にかかりたいです」とか、授業とまったく関係のないことで声をかけられるようになってしまった。

 全部、この藤澤のせいで。

 あのときのことを恨めしく思い返しながら、僕は採点を続ける。

「夏休み、ご旅行っすか? ひとみちゃんと」

 藤澤はしつこく話題を戻してきた。

 聞こえないふりをして、ひたすら赤ペンを走らせる。

 おおむね、皆そこそこ点数を取っているな、とほっとしながら、黙々と採点をする。というか、ひとみちゃん、とか馴れ馴れしく呼ぶな、と若干腹も立つ。

「馴れ初め知りたいっすよー、一体どうやって口説いたんすかー?」

 テレビと同じで、無視すればなんてのことない雑音だ。引き続き、採点、採点。

 ちょうどつけ終わった答案を、計算する。81点か。まあまあだけど、完全に後半の近世以降は捨ててきたな、この学生。

 最後の大問がほぼ不正解な答案を見ながら、ため息が出てしまう。学籍番号から察するに史学専攻らしいけれど、近世以降の哲学の知識が必要になる場面も多々だろうに。

「無視かぁ……いいっすよー、勝手に想像しますから」

 藤澤の拗ねたような声がした。

「俺の予想だと、そうだなぁ……そのイケボで、いつものように難しい話でもさらーっとしちゃったりなんかして」

 イケボ? なんだそれ?

「ひとみちゃん、可愛い顔でにこにこ聴いてくれそうっすねー。わあ、すごーい、とか。くうう、めちゃくちゃ可愛いだろうなぁ」

 完全に的外れ、というわけでもないのが結構腹立たしいところだ。

「あとは、やっぱ、そのおしゃれ眼鏡という強力アイテムを最大限に活用しつつ、あふれんばかりのインテリジェンスと大人の男の包容力で、あの天使のようなひとみちゃんを夢中にさせたんじゃないか、と。俺なんかは、そう愚考するわけっすよー。芹沢先生って、素でめっちゃ紳士オーラ出てるから、楽勝だったんじゃないっすか? っつーか、メガネ男子の知的な雰囲気って、ずるいよなぁ……俺も眼鏡かけようかな」

 おしゃれ眼鏡? これが?

 前かけていた眼鏡を美也子にさんざん「ダサい」と罵倒されて、博論が完成するなり無理やりデパートに引っ張って行かれたのを思い出した。結構いい値段がしたけれど、品物は悪くないし、何よりとても軽くてかけ心地はいい。

 まあ、気に入ってはいるけれど。そういえば、ひとみちゃんも「その眼鏡、聡史くんによく似合ってる」と言ってくれるから、結果的には美也子に感謝するべきか。

 大人の男の包容力? というか、あのひとみちゃんを前にして、余裕でいられるほど自分は大人でもないな、とこっそり焦りもする。一応、12も年上だから余裕のあるふりはするものの、予想外の行動をとられて動揺することも多々だ。無自覚に大胆なことをしてくることもあるし、紳士でいるのも容易ではない。そもそも、そんなオーラ、素で出してるつもりはこれっぽっちもないし。

 それにしても、メガネ男子って。よくもまあ、そんな恥ずかしい語彙を使えるものだ。

 君も大学院生なんだから、少しはインテリジェンスを漂わせるべきだろう、眼鏡がどうとか言う前に。まあ、いいよ、勝手に言ってろ、と僕は完全に無視を決め込む。

「または、得意のラテン語で口説いたとか?」

 別に得意じゃないよ、とこっそりため息を吐く。文献を読んだり、論文執筆に必要だから勉強しただけだ。

「さらりと古詩でも暗唱したんじゃないっすかー? そうだなぁ、たとえば……Vivamus mea Lesbia, atque amemus, とか」

「そこでやめたら、おかしい」

 僕は赤ペンを置いた。

「Vivamus mea Lesbia, atque amemus, rumoresque senum severiorum omnes unius aestimemus assis! まで、ひとフレーズだよ」

 つい、割って入ってしまった。

 ラテン語は学部生の時にかなりしっかりやったから、半ば脊髄反射なのだった。

「カトゥッルスの『カルミナ』だろ、それ?どうして君がそんなの暗唱できるんだ?」

 修士2年目の藤澤の研究テーマは、イエズス会の宣教活動だ。

 しかも、ドイツやポーランドのようには上手くいかなかったことで有名な、日本での布教活動に関してだ。日本史とも密接に関係する分野で、所属先の研究室をどこにするかでかなり迷った、という話も聞いた。

 ラテン語が不要とまでは言わないが、古詩を暗唱するレベルを目指す熱量があるのなら、もっと他の事に使うべきだろう。まあ、本人が好きでやっているなら、とやかく言う筋合いではないが。

「しかも、付け焼刃じゃなさそうだ。ほんの少しだけ感心したな」

「これでも、日下部研究室の末席を汚さぬよう、日々精進してるんっすよー、俺も」

 したり顔でそう言ってから、やっぱりにやにやと変な笑いを僕に向けてくる。

「ああ、やっぱそのイケボで流暢なラテン語はやばいっす、芹沢先生。ひとみちゃんじゃなくても、コロッと落ちること間違いなし」

「イケボって、声がいいってこと?」

「まあ、そんな感じです」

 僕は思わずため息が出てしまった。声がいい、なんて言われたこと、これまであっただろうか。

 ひとみちゃんは、確かに言ってくれる。聡史くんの声、素敵だしすごく安心する、と。

「というか、女性を口説くためにラテン語を使うとか、バチカンの人間が聞いたら、たぶん卒倒する」

「でも、使えますって、それ、絶対」

「あのね。僕はそんなことのためにラテン語を勉強したんじゃない」

「もったいないなぁ……」

 藤澤は半ば本気のようにつぶやいて、またしてもしつこく話題を戻してくる。

「ねえ、ねえ、芹沢先生、マジな話、どうやってひとみちゃんを落としたんっすか?」

 僕は首を振った。

「そんなの、言うわけないだろ。というか、勝手にひとみちゃん、とか言わないでほしい」

 僕がひとみちゃんを落としたんじゃなくて、僕が落ちたんだよ、一目で恋に。

 絶対に誰にもとられたくなかったから、速攻でプロポーズして、翌日すぐに指輪まで贈ったんだよ。

 素直にうれし涙まで流してくれたひとみちゃんには申し訳ないけれど、結果的にはそうやって彼女を縛って自分のものにしてしまいたかったんだ、僕は。でないと、どうしたって安心できなかったから。

 そのくらい、僕はひとみちゃんにめろめろなんだよ、悪いか、なにか文句でもあるのか。

 もちろん、口には絶対に出さない。心の中でつぶやくだけだ。

「じゃあ、じゃあ、せめて。ひとみちゃん、今度いつキャンパスに来ます?」

「……君には絶対会わせない」

「えー」

「というか、ゼミの準備、いいの? 午後イチで発表だったんじゃないの?」

「あ……そうだった。やばい」

 さっき閉じた資料を慌てた様子で再び開く藤澤を尻目に、僕は安堵のため息を吐いた。やれやれ、ようやく静かになるか、と。

 ふと、左手の薬指の結婚指輪を眺める。

 ひとみちゃんとおそろいの細めのプラチナリングの内側に刻んである、短いラテン語のことを思い出す。

 横浜の貴金属店で結婚指輪を選んだ際に、リングの内側にイニシャルやメッセージが刻印できるということで、見本をいくつか見せてもらったのだった。

 Te Amo(愛しています)

 Ad multos annos(末永く)

 Esto perpetuo(永遠に続きますように)

 Si vales valeo(あなたの幸せが、私の幸せ)

 指輪発祥の地、ということで古代ローマで使われていたラテン語のメッセージが好まれるらしい。仕事柄なじみ深いので、これはいいな、と僕も思った。

 ふと見ると、ひとみちゃんはリストの中のある名言を見つめてた。

 Totus tuus(身も心もすべて、あなたに捧ぐ)

『ちょっと照れちゃうけど……素敵な言葉だね』

 ひとみちゃんのそのひと言で、これを刻印の言葉に決めたのだった。

『なんて読むの?』

 僕が発音して聞かせると、不思議な音の響きだね、と微笑んでいた。

『ラテン語って素敵。聡史くんの声で聞くと、なおさらかっこいいね』

 ああ、確かにそう言われたな、と今更ながらに思い出す。

 藤澤がさっきくだらないことを言っていたけれど、まあ、ひとみちゃんに言われると、悪い気はしない、というか純粋に嬉しい。

 よし、さっさと採点をしてしまおう。

 夜、ひとみちゃんとゆっくりできるように。

 昼食をはさんで3講目が始まるぎりぎりまで採点して、あと10枚というところまで漕ぎつけた。残りは午後の概論の試験中に監督しながらつけて、思いのほか早く終わった。転記まですませて、試験監督しながら少し休憩のつもりで僕は考え事をし始めた。

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