第17話 Thais(聡史)③
神父のご厚意に甘えて、二階のゲストルームに一晩泊めてもらうことになった。
シャワーを浴びてパジャマに着替えたものの、いっこうに眠気は襲ってこなかった。大きな仕事を終えてほっとしたものの、神経がまだ高ぶっているようでもあった。
もう一つ仕事を——大学の方の仕事を少し片付けておこう、と鞄から例のレポートのファイルを取り出した。幸い机と椅子もある。すでに半分近くは評価し終わっている。明日は帰りの新幹線でも読めるから、この分だと比較的早く片付きそうだ。
読み始めると、やはり夢中になってしまった。活字中毒上等、である。さくさく読み進めて簡単にコメントを記入し、評価をつけていく。すんなり数人分片付いて、時計を見るともう少しで日付が変わる時間だった。
ふと、遠慮がちに扉がノックされた。反射的にドキッとする。
「はい」
返事をすると、さっきのノックと同様に遠慮がちにゆっくり扉が内側に開く。まさか、とは思ったが、やはり部屋に入ってきたのはひとみちゃんだった。
寝間着らしい薄い生地の七分袖の白いワンピース姿で、裸足にスリッパという出で立ちだ。当然お風呂に入ったあとらしく、くせ毛はいつも以上にふわふわして、しかもなんだかとてもいい匂いまでする。
とたんに心臓が跳ね上がった。情けないことに、はっきり動揺していた。あわてて視線をあさっての方向へ移す。
こんな夜中に、しかもそんな恰好で、どうしてひとりでここに来るんだ?
いつもの可愛らしい顔が、今はことさら恨めしく思えてしまう。
「聡史くん、もう寝るの?」
「いや、もう少しだけ仕事してからね」
机から離れずに、なるべくひとみちゃんを見ないようにして、極力なんでもなさそうに答えておく。
「ひとみちゃんは寝ないの? 眠れない?」
「うーん。さっきね、聡史くんとラクロア先生が話してるとき、少しうとうとしちゃったみたいで、まだ眠くないの」
「なるほど」
平静を装いながらうなずく。ちらりと見てみると、おずおずと遠慮がちに首を傾けながらひとみちゃんは僕を見ていた。
「ここにいたら、邪魔かな? お仕事できない?」
「い、いや……そういうわけじゃないけど」
邪魔では決してない。でも、仕事はとてもじゃないけどできそうにない。この状況で、集中なんてできるわけがない。
「いてもいい?」
「……もちろん」
重ねて可愛い声で尋ねられては、断れるわけがない。まったく、罪な天使もいたものだ。
ともあれ、本人がここにいたいと言うのだから、まあ、いいか、と勝手に結論付けてしまうことにした。
そこ、座ったらいいよ、とベッドを指さすと、ありがとう、と素直にひとみちゃんは座った。
他に座る場所がないのだから、まあ、仕方がないんだ、と誰にする必要もないのに心の中で言い訳をする。さすがに隣に座るわけにはいかないから、僕は机の前に腰かけたままだ。
明日の午前中はどこかに出かけようか、とかそんな他愛のない話を少しして、ふと会話が途切れたその時だった。
「聡史くん。ひとつ、訊いてもいいかな?」
「なに?」
「あの……聡史くんは、本当にわたしと結婚していいの?」
ぽつりとひとみちゃんが尋ねてきた。
僕は一瞬何を言われたのかわからず、ベッドの上のひとみちゃんをぼんやり見ていた。膝をそろえてちょこんと座っている白いワンピース姿のひとみちゃんを。たぶん、相当な間抜け面だったと思う。
しばしのちにようやく意味がわかると、半ばパニックになりかけた。
「い、いいに決まってるよ。というか、僕がひとみちゃんに結婚してほしいって言ったんだよ? どうして、突然そんな……」
「あのね。わたしが聡史くんをひっぱっちゃったような気がしたの」
「引っ張る?どういうこと?」
「こっち側に」
こっち側とは、どっち側のことだろう。 首を捻ってみたものの、やはりよくわからなかった。見れば、ひとみちゃんもうまく言葉にできなくて困っているようだ。
しばしのち、ひとみちゃんはやはり眉を下げながら、ぽつぽつこう言うのだった。
「美也子ちゃんがね、言ってたから。お兄ちゃん、別人みたいになっちゃった、って」
またしても余計なことを、と軽く腹が立ってくる。
もちろん、悪気はないのだろう。別人、というのはいわゆる冷やかしまがいの軽口だ。つまり、僕がひとみちゃんに「めろめろ」だと言いたいわけだ。
ああ、確かに、めろめろだよ。
夜中にせっけんのいい匂いをさせて寝間着姿で突撃されて、このとおり心臓ばくばくで、いい歳して情けないほど動揺しまくってるよ、仕方ないだろう、だってすさまじく可愛いんだからな、何か文句でもあるのか、と開き直りたい気分だった。
半ばやけくそになっている僕にまったく気付いた様子もなく、ひとみちゃんは何やら懸命に考えこんでいる風だった。
しばしのち、ゆっくり言葉を選びながらこう言った。
「わたしは、ずっと、やすらかで真っ白になりたかった。でも、なれなかった。もちろん、それはそれでよかったんだと思う。けれど、たぶん、聡史くんはわたしが現れなかったら、ずっとちゃんと真っ白だったんじゃないか、って思ったの」
まるで頭を殴られたような気分だった。真っ白って、僕が? 一体どういうことだ?
冗談でこんなことを言う子ではない。真面目に考えた上でのはずだ。
一体どういうことだろう、と頭をひねる。しばしあれこれ思いを巡らせて、僕はようやくある結論に達した。
寝食すら忘れて、ただひたすら博論執筆に没頭していた頃の自分は、ひとみちゃんの言うところの「真っ白」だったのではないか、と。
あの頃、美也子は完全に呆れ返っていた。学問馬鹿っていうか、学問のせいで身体を壊したら、ただの馬鹿でしょ、と。
周囲からも若干引かれていたかもしれない。というか、美也子がよく言うように、ドン引かれていたのかもしれない。
「ひとみちゃん」
「なあに?」
どこか不安げな視線を向けるひとみちゃんに、僕は言った。
「あのね。もしも、ひとみちゃんと再会する前の僕……つまり、脇目も振らずに研究だけに打ち込んでいた僕を真っ白だって言うのなら、それは確かにそうかもしれないけれど、あれは真っ白っていうより、どちらかというと、無色かな」
「色がないってこと?」
「そう。まあ、無味乾燥というか、そういう感じだね。でも、あれはあれで、僕は特に苦痛とは思っていなかったけれどね」
振り返りつつ、苦笑してしまう。好きなことだから、苦痛では決してなかった。けれど、なんと色気のない世界だったことか。
「もちろん、研究は一生続けるし、熱量はこれからも変わらない。今後もしかすると、学会前や論文の追い込み時期だったりすると、部屋に籠って出てこない、なんてこともあるかもしれない。でも、ひとみちゃんが部屋の外で待っててくれると思うと、たぶん僕の世界はずっと色鮮やかになって素敵だと思うんだ。だから、無色がよかった、だなんて思わないし、ましてや、真っ白でいたかった、とも僕は思わない」
ひとみちゃんは黙って僕の話を聞いていた。そして、まだどこか不安気に尋ねてきた。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、こっち側にひっぱっちゃった、って思わなくてもいいのかな?」
「もちろん」
困ったような顔から、ふわっと可愛らしい笑顔に変わってゆく。
さながら花が開く瞬間をスローモーションで見ている気分だった。心の奥が震えるような素敵な微笑みが綺麗に咲いていた。
僕がひとみちゃんをこちらの世界に引き戻した、と思っていたように、ひとみちゃんは、真っ白だった僕を色付きの世界へ引っ張ってしまったのでは、と気に病んでいたわけか。そう思うと可笑しくなってきた。一体どちらがタイスで、どちらが修道士なのだろう、と。
いや、さしずめ、かの修道士を誘惑した舞姫タイスの悔恨、といったところか。
えらく可愛いタイスもいたものだ、と苦笑しながら僕は椅子から立ち上がって、ベッドの上のひとみちゃんの横に腰かけた。
すぐに、ひとみちゃんは僕にくっついてきた。
髪はふわふわだし、すごくいい匂いだし、肩も腕も華奢で、でもすごく柔らかいし、相変わらず心臓はばくばくいってるし、もう、どうしろっていうんだ、これは――とさっきのやけくそ気分が蘇ってきた。
どうせ、僕はこの子にめろめろですよ。なんか文句でもあるのか、と誰に言うでもなく心の中で開き直って、そっとひとみちゃんを抱き寄せた。極力何も考えないようして、ただ髪をなでていた。鼻をくすぐるいい匂いだけはどうしようもなくて、頭がくらくらする。
嫌がる様子も逃げる素振りもなく、ひとみちゃんは猫のように懐におとなしくおさまっている。すっかり安心しきっているようにも思えるその様子が、恨めしい。
あまりにも無防備で、心配になる。無自覚にこうやって誘ってくるなんて、まさにこの子はタイスなのではなかろうか、などと考えそうになって、ようやくなけなしの理性が働いた。
「ひとみちゃん」
「なあに?」
「僕がオオカミにならないうちに、部屋に戻った方がいいよ?」
「え?」
一瞬遅れて、華奢な身体がびくりと腕の中で硬直した。ああ、やっと状況を理解してくれたか、と安堵しつつも、こうなると少しいじわるしてやろうか、という気にもなってきた。
少し腕に力を込めてみると、はっきり肩をすくめるしぐさをしたひとみちゃんが小さな声で尋ねてきた。
「わたし……食べられちゃうの?」
「ううん。まだ食べない」
「いつ食べられちゃうの?」
「……そのうち」
腕の力を緩めると、おずおずと僕を見上げてきたひとみちゃんの顔ははっきり赤くなっていた。初めて見る顔だった。
まずい。この状況でその顔は——と思うより早く、勝手に口が動いていた。
「でも、そんな可愛い顔してたら、一口くらいつまみ食いしたくなるかもしれないよ」
何か言おうとして開きかけたひとみちゃんの唇に、僕はそっと短く口づけた。ほんの、一瞬だけ。柔らかい感触を名残惜しく思う間もなく終わってしまった瞬きのような儚いキスだった。
ひとみちゃんは赤い顔でぼんやりしていた。さっきと同じく、すさまじくかわいい恥じらいの表情を浮かべたままで。
僕はふわふわのくせ毛をなでて、微笑んで見せた。
「さ。もう、おやすみ」
こっくりうなずいてベッドから立ち上がったひとみちゃんは、そのままふらふらと入口の方へ歩いて行く。扉を開く前にくるりと振り返って、僕を見た。
「おやすみ、聡史くん……大好き」
まだほんのり赤い顔のままそう言ってにっこり笑うと、ひとみちゃんはそのまま部屋から出て行った。
閉じた扉をしばらくぼんやり眺めてから、のろのろと机の上を片付けた。レポートの束が入ったファイルを鞄にしまって、筆記用具もケースに戻す。仕事をする気など、きれいさっぱり消滅してしまった。
つまみ食い、とか我ながらずいぶん恥ずかしい台詞を言ったものだ。まったく、どうかしている。
それに——そのうち、って。まったく、どうかしている。
さきほどの場面を反芻しそうになって、あわてて首を振って追いやった。もう、寝てしまおう。それしかない。
さっさと電気を消してベッドに横になる。目を閉じると、さっきのひとみちゃんの言葉が脳裏にこだました。
おやすみ、聡史くん……大好き、と。
このまま幸せな夢を見られるなら、めろめろでもなんでもかまわないか、と再び開き直って、僕はそのまま眠りに落ちていったのだった。
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