第16話 Thais(聡史)②

 新横浜で食事をしてから在来線に乗り換えた。土曜だからか、学生と思しき若者を中心に電車は混雑していた。最寄りの駅は比較的大きく、降りる人が大勢いた。

 雲のない星の綺麗な夜だ。親密な宵闇の中、閑静な住宅街へと続く道を僕らは手をつないで歩いた。どういうわけか、僕もひとみちゃんも口数が減っていた。コツコツと二人分の足音だけが夜に響く。

 大きな交差点を通り越したところにあるラクロア神父が管理する教会に着いたのは、8時を少し過ぎた頃だった。

「聡史くん、緊張してる?」

 教会の門の前で唐突に問われて、ああ、確かにそういう場面になるのか、と今さら思い至った。

 いわゆる『お嬢さんを僕にください』という一生に一度しか口にしないであろう台詞を言うあの場面だ。もちろん、今日はそんなベタな台詞ひとつで済む話でもない。何もかも、というわけにはいかないものの、ありのままを話すつもりでいた。

「まあ、多少はね。でも、電話で一度話ができたからね」

 例の川辺での再会の後、向こうの教会で僕が名刺を渡して挨拶したあと、ひとみちゃんはこちらのラクロア神父にすぐ電話をかけていた。長野で昔お隣に住んでいたとても大事なひとに会えたの、と。その後、短いやりとりのあと、一度電話を代わってもらって直接ラクロア神父と話をしたのだった。

 自己紹介して簡単にひとみちゃんとの関係を説明したあと、こう切り出した。

『突然のことで驚かれると思うのですが、明後日、ご挨拶に伺ってもよろしいでしょうか』

 一瞬の間とそれに続くどこか安堵したような吐息で、相手が僕の意図を正確に汲み取ってくれたらしいことがわかった。

『気を付けていらしてください。よろしければ、土曜は教会にお泊りください』

 お待ちしております、という優しげな声を最後に、そのまま短い会話は終わったのだった。

「大丈夫だよ。ラクロア先生、優しいから」

 ひとみちゃんはそう言って、門扉を開く。鍵はかかっていない。

「そのようだったね。電話で声を聞いて思った」

「本当にお世話になったの。だから……申し訳ない気もするの」

「修道院のこと?」

「うん。先生がいろいろ取り計らってくれて、修練女になれたから。なのに……」

 キイ、と小さく音を立てて門扉が閉まる。ひとみちゃんは小さく息を吐いた。

「誤解しないでね。聡史くんとこれからずっと一緒にいられるのは、すごく嬉しいの。もう、あの場所には戻らないけど、それが悲しいわけじゃないの。本当に、未練はない。ただ、いろんな人に迷惑をかけたから」

「気持ちはわかるよ」

 目を伏せてうつむいたひとみちゃんの頭をそっと撫でた。

「でも、ひとみちゃんが本当に望むことを選んだ結果なら、それは必然なんだよ。だから、ちゃんと向き合おう。僕も一緒にいるから」

「聡史くん……」

 ふわりといつもの天使のような笑みが戻ってきた。泣いてしまうだろうか、という僕の予想は見事に裏切られた。昨日今日と一緒に過ごしてわかったが、意外と芯はしっかりしている。

「ひとみさん、お帰りなさい」

 穏やかな声が夜風に乗った。振り返ると、背の高い男性が教会の建物の前に立っていた。いわゆる神父としての正装ではなく、シンプルな無地のシャツに、チャコールグレイのズボンというこざっぱりとした服装だった。ジャケットを羽織っているものの、ほぼ似たような恰好をしてきた自分としては、少しだけほっとした。

 柔らかなオレンジ色の外灯に照らされ、彫の深い整った顔立ちがよく見えた。夜目でもはっきりと碧い瞳が美しい。

 ひとみちゃんはぺこっと頭を下げた。

「先生、ただいま。あの、こちらは……」

「初めまして、芹沢聡史と申します。夜分にお邪魔いたします」

 僕が一礼すると、小さくうなずいた男性は「ここの神父をしているアンドレ・ラクロアです。ひとみさんの保護者でもあります」と言って会釈した。少しだけイントネーションに癖があるものの、綺麗な日本語だ。

 教会の建物の隣にある二階建ての離れのドアを開けて、僕たちを促した。

「お疲れでしょう、中へどうぞ。ひとみさんも、着替えてゆっくりするといいよ」


 住居兼仕事部屋といった趣の離れは、西洋風の造りになっていた。

 入ってすぐの居間と思しき大きな部屋には、古いマントルピースの上に水彩で描かれた花の絵がいくつも飾られ、上品な花模様の入ったクリーム色の壁には聖人の肖像画と思われる絵画があちこちに掛けてあった。大きなフランス窓の向こう側は庭になっているらしく、シンプルなガーデンライトで照らされてハーブと思われる小さな花が夜の帳の中で咲いていた。

 ダークブラウンのフローリングには大きなパッチワークのラグが敷いてあり、その上には広々とした樫の木のテーブルが置かれている。テーブルとおそろいに見えたアンティーク調の椅子はよく見ると6脚それぞれ少しずつ形が違い、どうやら手作りのようだ。

 天井まで届く大きな本棚が壁沿いに作り付けになっていて、聖書や讃美歌集はもちろん、ラテン語の本がずらりと並んでいた。中には、論文執筆の折に参考文献に使った覚えのあるものも何冊かあり、図らずもほっとする眺めだった。インテリアとしてしっくりなじむ木の脚立も手作りらしく、一番上は少し張り出して椅子のようになっている。上の棚から手に取った本を、その場に腰かけて読めそうなほどに座り心地がよさそうに見えた。

 調度品はどれもかなり使い込まれて年季が入っているが、丁寧に手入れされているようだ。また、隅々まで掃除が行き届いていて、とても居心地のいい空間だった。

 促されるままテーブルに着くと、ひとみちゃんがティーポットとカップをトレーに載せてキッチンから戻ってきた。

薄紅葵うすべにあおいのお茶なんだけど、聡史くん、好きかな?」

「飲んだことないかもしれない。ブルーマロウのことかな?」

 ラクロア神父が驚いたように目を見開いた。

「よくご存じですね」

「聡史くん、なんでも知ってるもんね」

 お茶を注ぎながらなぜか得意げなひとみちゃんに、いやいや、と僕は首を振った。

「そんなことはないよ。ああ、綺麗な色だね」

 青い色の液体がカップに注がれる。淡い花の香りがした。

「レモンで色が変わるから、よかったらあとで入れてみてね」

 ポットやカップとおそろいの花模様が入った小皿に、輪切りのレモンが並んでいた。隣にあるレースのような淵飾りの施された長方形の皿に、見覚えのある焼き菓子が並んでいた。昨日ひとみちゃんからもらって食べたものと同じだった。

「あと、マダレナもよかったら食べてね」

「ありがとう」

 ラクロア神父はひとみちゃんの左手の指輪にすぐ気づいたようだった。何も言わなかったが、ひとみちゃんの顔をじっと見ていた。

 お茶を淹れ終わると、自分の分のマグカップを手に僕ににっこり微笑んでからラクロア神父にぺこりと頭を下げ、ひとみちゃんは部屋から出て行った。トントントン、と階段を上がるらしい音が遠ざかっていくと、静寂が訪れた。

 あらかじめ示し合わせていたわけではないが、確かに、彼女には席を外してもらった方が話しやすい。

「改めまして、突然このように伺いましたご無礼をお許しください」

 口火を切って、名刺を差し出した。

「ありがとうございます。ああ、大学の先生をされているとは聞いておりました」

 ラクロア神父は名刺をしばし眺めてから、テーブルの上に丁寧に置いた。

「あの子は、芹沢さんのことをとても大事なひとだと言いました。長野で、昔お隣に住んでいたとても大事なひとに会えたのだ、と。昔よく一緒に遊んだところで、昔と同じようにわたしを待っていてくれた、と」

 ひとみちゃんが電話で話していたことを一字一句正確に繰り返すラクロア神父に少なからず圧倒されながら、僕はうなずいた。

「信じがたく思われるでしょうが、本当に奇跡のような出来事でした。僕はクリスチャンではありません。けれど、今回のことで奇跡は起こりうるのだと知りました」

 澄んだ二つの碧い瞳にじっと見つめられていた。柔らかい雰囲気ではあるが、嘘や下手な芝居などあっさり見破ってしまうであろう、まさに聖職者の眼差しだった。口を開く気配はなかった。僕の言葉を待っていた。

 緊張を解き放つため、ゆっくり深く息を吐いた。

「僕たちは幼馴染なんです、と簡単に言えるとよかったのですが……ご覧の通り、ひとみさんとはかなり歳が離れています。厳密な意味では幼馴染と呼べる仲ではありませんでした」

 ありのままを話そう。そう思うと、自然と言葉が出てきた。

「隣に住む僕のところに顔を見せるようになったのは、僕が高校生の頃です。初めから物おじせず、屈託のないかわいらしい女の子でした。ひとみさんは一人っ子でしたし、ご両親がお忙しかったせいもあり、幼いころから僕や僕の妹にとても懐いてくれて、よく一緒に過ごしました。花火をしたり、ピクニックに行ったり。そして、いつからか、僕が学校帰りに立ち寄る公園には、いつも迎えに来てくれるようになりました。僕が本を読んでいるのを、黙って待っていてくれました。僕の話をいつも楽しそうに聴いていました。おそらく、難しくてよくわからない話もあったでしょうが、かわいらしい顔でにこにこしながら、いつまででも聴いてくれていました。窓を開けて家で勉強していると、ひとみさんのピアノが聞こえてきました。僕はあのピアノが本当に好きだった」

 カップに手を伸ばしてお茶を一口飲んだ。素朴でさっぱりした味の美味しいお茶だった。

 ラクロア神父は、唇に淡い笑みを浮かべて話の続きを促していた。

「あの頃から、ひとみさんのことは大事に思っていました。妹のようだ、というのとは少し違います。僕には実の妹がいますが、明らかに違った。もちろん、12も歳が離れていますから、あの頃は恋愛感情ではありませんでした。けれど、確かに何か特別なものを感じていました。それがはっきりわかったのは……ひとみさんのご両親が亡くなられた時でした」

 いったん僕は口を噤んだ。

 花火の夜。むうっと湿っぽい空気に漂う草の香り。杜若柄の浴衣。髪に結ばれていた赤いリボン。下駄の赤い鼻緒。

 可愛いね、浴衣。僕の言葉に、ほおを膨らませて不満げにしていた可愛い顔。

 ゆかた、は、いらないよ、さとしくん。

 最後にひとみちゃんを見たあの晩のことが、脳裏に蘇っていた。

「僕はたまたま大学のゼミ合宿でしばらく家を空けていて……戻ってきた時、何もかもが変わっていました。三倉さんご夫妻が亡くなった、ひとみさんはもうここにはいない、と妹から聞いて、僕は誇張でもなんでもなく玄関から動けなくなりました。詮無いこととはいえ、留守にしていた自分が呪わしかった。なぜ傍にいてあげられなかったのか、と悔やみに悔やみました。一番つらい時になぜひとりにしてしまったのか、と。ただ楽しい時を一緒に過ごして可愛がるだけじゃなく、辛さを、苦しさを少しでも分かち合ってあげたかったのに、と。一緒に泣いてあげたかったのに、と。泣き疲れて眠る彼女の隣にいてあげればよかったのに、と。せめて目が覚めて寂しくないように、傍にいてあげればよかったのに、と」

 まずい、と思う暇もなく、目頭が熱くなっていた。こみ上げてきた涙ごと飲み込むように深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。

「もう二度と長野には戻らない、と聞いて頭が真っ白になったのを覚えています。ひとみさんにとっては、両親を思い出してしまう場所ですから、距離を置いて傷を癒すという先生のご判断なのだろうと……そう思って、あの頃の僕にはどうすることもできませんでした。つらい記憶と結びついてしまうのなら、故郷にまつわる何もかもを忘れてしまった方が彼女のためだろう、と自分に言い聞かせました。ただ、ひとみさんが幸せでいることを願うばかりでした」

「芹沢さんのおっしゃる通りです」

 ラクロア神父は頷いた。

「あの子は抜け殻になっていた。何も見えず、何も聞こえず、何も感じられず……時間と距離が解決すると思っていたが、私が想像していた以上にあの子の傷は深かった。そして、あなたへの想いは強かった。もちろん、誰を想っているのかまではあの頃の私にはわからなかった。けれど、教会でたった一人で手を合わせながらよく泣いていた。それが、両親を失ったせいだけでないことは、私にもわかりました」

 教会でたった一人で泣いていた、という言葉に飲み込んだはずの涙が再びこみあげてくるのを感じた。いけない、僕が泣くわけにはいかない。ぐっと堪えて息を殺した。目を閉じて、嵐のような感情の波が引いてゆくのを待った。

 寄せては返す波が穏やかになって、僕は再び口を開いた。

「いつも、言い聞かせていました。覚えていて苦しいのならば、忘れて微笑んでいる方がいいのだろう、と。もしも、そうできるのなら、僕のことは忘れてくれてもかまわない。そう思おうとしました。けれど、僕自身は……ふとした瞬間にひとみさんのことを思い出してしまうことがしばしばありました。おかしな話です。いい歳して情けない、と自分でも思いました。でも、あの日も……」

 ああ、なんだかいろんなことが立て続けに起こったせいで、時間の感覚が引き延ばされているらしい。

 僕は首を振って言い直した。

「おとといの夕方もそんな瞬間が訪れて、仕事がまるで手に付かなくなったんです。授業を終えてすぐ大学を出て、ひとみさんのことを思い出しながら、昔一緒に過ごした公園に行って、その足でケーキ屋に寄って、一緒に暮らしている妹と自分の分のケーキを買って。でもなぜか、代金を払う段になってもう一つ追加していました。変な話です。両親とは離れて暮らしているので、今うちは妹と二人暮らしなのに。そして、ケーキの3つ入った箱を手に帰る途中、昔よくピクニックに出かけた川辺へ寄ったんです。すると、古い木のベンチでひとみさんが眠っていました」

 無防備に居眠りしていた可愛らしい姿を思い出して、燻っていた涙がすうっと引っ込んでいった。思わず笑みが浮かんでしまうと、向かい側でラクロア神父も微笑んでいた。

「どこでも寝てしまうのは危ないよ、といつも言っているのに、困った子です」

 ええ、本当に、と笑いながらうなずいて僕は続けた。

「あまりに綺麗になっていて、呼吸の仕方も忘れてしまいそうでした。でも、すぐひとみさんだとわかって、昔そうしていたように、隣に腰かけて本を開きました。もう夜でした。本など読めるはずはありません。でも、あの場所は……子供のころのひとみさんが眠っている時は、僕はいつも本を読んでいました。だから、そうしたかったんです。本を読みながら、傍にいてあげたかった。目が覚めても、寂しくないように」

 ラクロア神父はじっと僕を見ていた。気のせいか、瞳が潤んでいるように思えた。

「ほどなく目を覚まして、ひとみさんは昔のように僕を呼びました。聡史くん、と。僕も昔のように言いました。おはよう、ひとみちゃん、と。すみません、このあとのことは僕とひとみさんの秘密にしておきたいのですが……」

 言ってしまってから、何かやましいことがあるのでは、と誤解されても困ると思いなおして、付け加えた。

「修道院のことを聞いて驚いてしまって。それで、本当にそれでいいの? 本当は、ひとみちゃんはどうしたいの? と尋ねました。すると、彼女は言ってくれました。僕の傍にいたい、と」

 向かい側で、碧い瞳が今ははっきり揺らめいていた。何度か瞬きすると、涙がほおを伝っていった。

「……ずっと心を閉ざしていたあの子が、あんなふうに微笑むようになったのは、あなたのおかげです」

 顔を覆い、押し殺したようにラクロア神父は咽び泣いた。

「もしかして大事に思う人がいるのだろうか、とずっと思っていました。けれど、私には何も話してくれなかった。言えなかったのでしょう。もう会えない、と諦めてしまっていたのでしょう。いや……あの子は、この世界すら諦めていた。何も考えずにいられるあの場所を選んだあの子を、私は止められなかった。ああ見えて、意外と頑固なところのある子です。けれど、有期誓願に入る前の最後のチャンスと思って、函館から連れ出して本当によかった……」

 ゆっくり肩を上下させて深呼吸すると、ラクロア神父は顔を上げた。

「実は、あちらの修道院長も心を痛めていたのです。あの子は、自分にはもうここしかない、と思いつめていた、と。痛々しいほどに修練に明け暮れていた、と。何を言われても、どんなに辛くとも、ただ粛々と日々を過ごしていた、と」

 僕は何も言えなかった。やすらかで真っ白になりたかった、という静かな狂気。再び、心臓をぎゅっとつかまれる思いだった。

「院長は私に言いました。あの若さで、あの美しさで、全てを捨てて神の花嫁になろうとしていたあの子の心のうちを思うとやりきれなかった、と。でも……」

 芹沢さん、とラクロア神父が僕を呼んだ。

「神の花嫁ではなく、あなたの花嫁になることをあの子は選んだのですね」

 二つの碧い瞳がまっすぐにこちらを見ていた。僕は居住まいを正した。

「ひとみさんと結婚したいと思っています。もう二度と彼女が辛い思いをしないよう、傍を離れません。そして、二人でいつまでも幸せでいられるよう絶えず努力いたします」

「ありがとうございます、芹沢さん。あの子をよろしくお願いします」

 頭を下げたまま、その言葉を胸に刻んだ。

 やや涙混じりの鼻声で、けれど、どこまでも穏やかな声が紡ぐその言葉を。


 それから少し、これからのことをラクロア神父と話した。修道院へは一度出向いて挨拶せねばならないだろうが、先ほどの話を聞く限り特に問題はなさそうだ。僕も一緒に行くつもりでいたし、ひとみちゃんもきっと安心するだろう。

 さっき勧められたようにレモンを入れてピンク色になったお茶に少し驚きながら、僕はカップに口を付けた。

「いろいろなことが落ち着いたら、長野に来てもらおうと思っています」

「おそらく、あの子はすぐにでもそうしたいと思っているでしょう。さっきの幸せそうな顔がすべてを物語っていましたから」

 ラクロア神父はお茶を飲みながら優しく微笑んだ。

「もう、すでにあの子の心は芹沢さんのものです。素敵な指輪までいただいて」

「すみません。少し先走りました。でも、もう誰にも渡したくなかったので」

 言ってしまってから、ふと後ろ暗さに襲われた。

 琥珀色をした幸せの蜜にぽとりと落ちる、どす黒い雫。

 その正体は、もう僕にもわかっていた。

「ラクロア先生、ひとつ、神父様として聞いていただいてもよろしいでしょうか?」

「なんでしょうか?」

 少し驚いた様子の神父に僕は思い切って言った。

 半ば懺悔めいているかもしれませんが、と前置いて。

「先生は舞姫タイスの物語をご存じでしょうか?」

「ああ、オペラになっているあれですか」

 こともなげにラクロア神父は頷いた。

「実は、この近くの高校で週に何度か音楽理論を教えているもので。詳しいというほどではありませんが、多少は」

「これは失礼いたしました、僕などより先生の方がよほどお詳しいですね、すみません」

 恐縮しつつも、それならば話は早い、とほっとしつつ僕は続けた。

「先ほど新幹線の中で学生のレポートを読んでいて、舞姫タイスの物語を論じていたものがありまして、少し考えてしまったんです。改心して信仰に生きて清らかに死んでいった元舞姫と、その舞姫を信仰の道へといざなっておきながら最後の最後で彼女に対する思慕を抑え切れずに懊悩する修道士。果たして彼は、本当に純粋な気持ちで彼女を救おうとしたのだろうか、と。考えているうちに、ふと自分に置き換えていました」

 ラクロア神父はじっと僕の話に耳を傾けてくれていた。

「はたして僕は、本当に純粋な気持ちでひとみさんをこちらの世界へ引き戻したのだろうか、と」

「芹沢さん……」

 驚いたように目を見開くラクロア神父を僕は見つめ返した。

「川辺でほぼ7年ぶりにひとみさんに会って、その美しさゆえに一目で恋に落ちました。あまりに綺麗で呼吸の仕方すら忘れそうになりました。もちろん、彼女を大事に思う理由は決してそれだけではありませんが」

 無防備に眠る美しい姿を思い出し、胸苦しくなる。

 認めないわけにはいかない。

 僕の中に棲むあの修道士の姿を。

 美しき舞姫に、その美貌と身体に魅了され、激しく恋焦がれる修道士の姿を。

「はたして僕は、本当に純粋な気持ちでひとみさんをこちらの世界に引き戻したのだろうか」

 再び、その問いを僕は繰り返した。

 言ってしまってから、なんとも滑稽に思えて自嘲の笑いが込み上げてきた。

 情けないことだ。こんな繰り言を、こともあろうに彼女の保護者たる神父の前で口にしようとは。呆れられて、結婚の承諾を取り消されても、文句は言えないだろう、と。

 しかし、僕の予想に反してラクロア神父は柔和な笑みを浮かべで僕に言った。

 あの子の美しさは内面からにじみ出たものだ、と。

 あれほどまっすぐで心の美しい子はいない、と。

「外見は心を映す鏡です。美しさに惹かれて、何を恥じることがありましょうか」

 ああ、そうなのか、とすとんと腑に落ちる思いで僕はその言葉を聞いていた。

「内も外も、あの子の美しさを丸ごと慈しんであげてください、芹沢さん」

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