第18話 Felice(ひとみ)①

 ページをめくると、最後の問題だった。短い英文和訳の問題だ。

 One of the side effects of this medicine turned out to be the intense feeling of nausea.

 turn out to be は、確か「~ということがわかる」という意味だ。to beは省略できる。

 nauseaだけ意味がわからないから、辞書を引いた。『嘔吐』という意味らしい。『吐く』は、throw upだというのは知っていた。一語だとvomitという単語らしい。こっちは知らなかった。ノートにメモをとっておく。

 もう一度英文に目を通して、日本語にしてみる。『この薬の副作用のひとつは、激しい吐き気だということがわかった』でいいはずだ。

 解答を見ると、あっていた。3度ほど声に出して発音して、そのあと日本語だけ見て言えるかどうかを最後に確認した。うん、大丈夫そうだった。ひとまず、英語は今日の分はこれで終わりだ。

 英語は嫌いではない。中学の時からそうだったし、ラクロア先生の教会には外国人の信徒も多く、英語で話す機会もわりとあったから、簡単な会話なら特に問題はなかった。読み書きも、それほど困ったことはない。中学校で半ば強制的に受けさせられて、英検も準2級まではとってある。卒業後はそれ以上受けるつもりはなかったけれど、せっかくこうやって通信で高校の勉強をはじめたのだから、機会があれば2級以上も受けてもいいかもしれない。

 英語のテキストを閉じて、次の数学に取り掛かる。数学は苦手だ。英語と真逆で、中学の時から好きではなかった。とはいえ、きちんとやらないと、夏のスクーリング後に実施されるテストでひどい点数をとってしまいかねない。しかたなく、黙々と取り掛かり、1ページ終わるごとに解答を見て答え合わせをしながら赤ペンで丸を付け、間違えたところは直していく。計算問題は簡単だけれど、ああ、次の文章題が——公式だけ覚えていても、こればかりは太刀打ちできない。どれをどうやってどの順番で使うのか、問題によって違うから、とにかくたくさん解いて慣れていくしかない。

 しばらくどうにか我慢して取り組んだものの、最後のページの2題だけはどうしてもわからなかった。解答を見ても納得できないところが多い。しかたない、お仕事の邪魔はなるべくしたくないけれど、夜に聡史くんに教えてもらおう、と思ってテキストを閉じた。

 頭を使ったからか、お腹がとても空いていた。時計を見ると、もう12時半だ。

 テキストやノート、辞書類を片付けて消しゴムのカスをゴミ箱に捨て、ダイニングテーブルの上を布巾で拭いた。テーブルの隅に置いてあるお弁当とおにぎり、お箸を持ってきて、お茶を淹れる。手を合わせて簡単にお祈りをしてから、お弁当箱の蓋を開けた。

 卵焼きと、鶏団子の黒酢あんかけがメインのおかずで、あとはポテトサラダと小松菜の胡麻和えを詰めて、空いたスペースにミニトマトが入っている。今朝二人分作って、大きい方のお弁当箱に詰めたものはおにぎり二つと一緒に聡史くんに持って行ってもらった。

 聡史くん、ちゃんと食べてるかな、と少し心配しながら自分のお昼ご飯を口に運ぶ。同じものを食べていると思うと、なんだか嬉しい。

 今日は金曜日で授業は午後にひとつしかないけれど、学会発表の準備で図書館で調べものがあるらしく、聡史くんは朝早くに家を出た。4講目が終わればすぐ研究室を出られる、と言っていた。4時半過ぎに大学構内の中庭のベンチで待ち合わせて出かける約束をしていた。

『学会の準備でしばらくひとりにしてしまったから、今日は埋め合わせをさせて』と今朝誘ってくれて、嬉しかった。買い物をして、それから夜は外で食事することになっていた。

 ゆるくエアコンの入ったダイニングに、コチコチコチ、と時計の音だけが響く。ブラインド越しの日差しは確かに夏のそれだけれど、横浜よりはずいぶん柔らかだ。函館も意外とここよりは暑い日が多かった、とふと思い出す。

 ごちそうさまでした、と手を合わせて再び簡単にお祈りしてから、空のお弁当箱とお箸を洗う。薄紅葵うすべにあおいのお茶をもう一杯淹れて、再びダイニングの椅子に座った。

 テーブルの真ん中の一輪挿しには、小さな向日葵が挿してある。庭で綺麗に咲いているのを、一輪だけ切って活けたのだった。隣には、薄い水色の美しい写真立てがある。白いドレス姿で微笑むわたしと、どこか緊張気味な聡史くんが並んだ写真。写真館の人に撮ってもらったものはアルバムに収めてあるけれど、これは美也子ちゃんが撮ってくれた。写真立ても、結婚祝いにくれたウェッジウッドの高価なものだ。

 お茶のカップを手に取って口をつけながら、何気なく左手に視線を落とした。ダイヤのついた婚約指輪と、細めのシンプルなプラチナリングを重ねて着けている。細いプラチナリングは結婚指輪で、聡史くんも左手に同じデザインのものを着けている。

 好きだよ、ひとみちゃん。僕を選んでほしい。神様じゃなくて、僕を。

 あの晩から1カ月半。あっという間のようで、いろいろなことがあった。


* * *


 聡史くんが横浜のラクロア先生に挨拶に来てくれた日から数日後、わたしはひとり函館へ向かった。

 一緒に来てくれるという聡史くんの申し出はありがたかったけれど、きちんと理由を話して断った。これは、わたしの問題だ、と。わたしがひとりで向き合って終わらせなければならないことなのだ、と。それに、極力飛行機には乗りたくないわたしのわがままに、忙しい聡史くんを付き合わせるわけにはいかなかった。早朝に横浜を出て新幹線と電車を乗り継ぎ、午後にようやくわたしはあの場所に着いた。

 淡いピンク色のブラウスにクリーム色のフレアスカートという格好で戻ってきたわたしを、かつての姉妹たちは驚いて出迎えた。みなが向けてくる困惑げな視線に怯みそうになる自分を叱りながら、部屋でトゥニカに着替えることもベールを被ることもなく、そのままシスター・セシリアの待つ院長室へと向かった。聡史くんがプレゼントしてくれた服を身にまとい、聡史くんから贈られた指輪を左手に着けて、院長室へ入った。

 大事なお話があるのでお時間をいただけないでしょうか、とあらかじめ横浜から電話で伝えておいた。聡明なセシリア院長には、それだけでわたしの意図するところが十分伝わったようだった。

 有期誓願に入らず修道院から去ることをお許しください、と告げると、院長は驚いた様子もなくただわたしを見つめてこう言った。

『ルドヴィカ。ラクロア神父があなたを連れて横浜へ戻ったとき、こうなることを私は心のどこかで願っていました』

 わたしはこうべを垂れ、院長の前にひざまずいた。

『セシリア院長。わたしは……』

『顔を上げなさい、ルドヴィカ』

 静かな、でも抗いがたい院長の声が降ってくる。

 跪いたまま、言われたとおり顔を上げた。

『あなたには、召命がなかった。それでもなお、ここへ留まろうとしたあなたの心のうちを思うと、私はずっと……』

 わたしを見つめるセシリア院長の瞳が、わずかに揺らめいてた。見慣れたいつもの厳しくも澄んだ眼差しではなく、どこか哀れみをも感じさせる視線だった。

 どうしていいかわからず、わたしは目を伏せた。

 茜色の西日が、セシリア院長の後ろにある窓から差し込んでいる。しばしの間、沈黙と柔らかなだいだい色の光が部屋を満たした。遠くで、姉妹たちのうたう聖歌が聞こえた。

 院長は椅子から立ち上がり、おもむろに話題を変えた。

『ここを去るあなたに、ひとつ昔話をしましょう。もうずいぶん前のことです。私は、ある男性を愛して結婚しました』

 驚いて顔を上げたわたしに、セシリア院長は静かに微笑んだ。

『穏やかで、とても優しい人でした。本当に幸せでした。けれど、結婚して半年で、夫とは死別しました。あまりに突然のことでした。亡くなる前に、夫は私に言いました。ぼくが死んだら、君には自由にしてほしい、と。誰か好きな人ができたら、遠慮しないでいいんだよ、と。もう誰かを好きになることなど絶対にない、と私は思ったけれど、時間というのは残酷なものです。数年後、私を好きだと言ってくれる男性が現れました。夫を亡くした私を優しく労わってくれて、亡き夫のことを忘れる必要はないから、結婚してほしい、と』

 夕日を纏って、セシリア院長は淡々と語り続けた。先ほどわたしを見つめて潤んでいた目は、もうすっかり乾いていつもの澄み切った輝きを取り戻していた。

『そんな彼に、確かに私は惹かれていました。後ろめたさを覚えながらも、確かに恋をしていました。でも、私は考えてしまった。はたして、私はこのひとを亡き夫と比べてしまいはしないだろうか、と。結婚後、わずか半年で亡くなった夫は、私の中に美しい記憶しか残さなかった。欠点など何一つない完璧な男性として、私の中に棲んでいる。そんな亡き夫とこのひとを比べて、いつか私は身勝手に幻滅するのではないか、と。そう考えると、申し訳なくてとても再び結婚することなどできなかった』

 初めて聞く話にすっかり驚いて、わたしは瞬きも忘れてセシリア院長を見つめていた。

 気づくと、院長の視線がふっとわたしから逸れた。ここではないどこか遠くを見ているようだった。

『誰か好きな人ができたら、遠慮しないでいいんだよ、と亡き夫は言ったけれど、彼に勝てるひとなど、いるわけがない。美しい記憶だけを残し、しかも時間の経過とともに、その記憶はさらに美しくなるばかり。わかるでしょう、ルドヴィカ。失われたものは、永遠に美しいままなのです。だから私は、この場所を選んだ。亡き夫に勝てるのは、神様だけだったから』

 失われたものは、永遠に美しいまま、という言葉が胸に突き刺さった。

 本当に失われたままだったのなら、わたしもこの場所に留まっただろう。けれど、奇跡のように再びあのひとに会えた。ほぼ7年の時を経て、セピア色だった美しくも悲しい思い出が、色鮮やかに蘇って現実のものとなった。

 幾度も幾度も思い返した記憶の中のあのひとの声が、すぐ傍でわたしを呼んでくれた。

 なんと幸運なことだったのだろう、と改めて運命の悪戯ともいうべき至福に感謝した。

 セシリア院長の視線が不意に戻ってきて、すっとわたしの左手に落ちた。ダイヤモンドが光る婚約指輪をはめた左手に。

『あなたは、私とは違う。失ったと思い込んで諦めていたものは、本当は失われてなどいなかった。罪深く思う必要など、決してないのですよ』

『セシリア院長……』

『あなたはあまりにも若すぎる。あなたには、まだ……この場所を選ばねばならないほどの理由はない。あなたはそれほど美しいのだから。外の世界を諦める必要など、どこにもない。ずっと私はそう思っていた。そして、私は間違っていなかった』

 見透かされている、と初めて会った時から感じていた。実際、院長はわたしの心の裡を見通していた。そして、その弱さも、幼さも、浅はかさも、全てをゆるしてくれようとしている。

 わたしは再び、頭を垂れた。

『本当に、ご迷惑をおかけいたしました。寛大なお言葉に、感謝いたします、セシリア院長』

『感謝ならば、私ではなく、神様に』

 静かな、けれどきっぱりとした声が降ってきた。

『あなたが花嫁になるべき相手は他にいる。そう導いてくださったのは、神様ですよ』

 そう、あれは奇跡のような出来事だった。目が覚めて、あのひとが傍にいたあの晩の出来事は。

 わたしたちは不思議な力であの川辺へと導かれたのだ。

『去る前に、聖堂で祈りを捧げなさい、ルドヴィカ』

 院長室を辞したあと、シスター・セシリアの言葉に従って、誰もいない聖堂の中央に跪き、わたしは祈りを捧げた。

 今こそ主よ、わたしを去らせたまわん。

 ここで暮らしていた1年と3カ月、終課で毎晩口ずさんだ『ヌンク・ディミティス』をうたった。

 主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおり 

 わたしを安らかに去らせてくださる

 わたしはこの目で 主の救いを見た

 修練女ルドヴィカとしてこの場所で捧げる最後の祈りだった。

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