口さがない彼女

モーリア・シエラ・トンホ

第1話

 僕は何のとりえもない平凡な会社員だった。

 両親は早くに交通事故で死んだ。おなさけみたいに叔母の家で育ててもらった。高校を卒業した後は、バイトをしながら奨学金で大学に通い、なんとか三流企業に就職して今にいたっている。

 これといった才能もない、お金もない、コネもない、ガチャでいえばはずれの類。

 でも、リセマラで来世にかける、というほどのはずれではない。

 運命なんてこんなものと、多くを望まないように生きてきた。


 そういうスペックで大過なく人生を過ごすには、まわりの人間と軋轢をおこさないことがなにより重要だった。

 何が正しいか、自分が何をしたいかなんてことは二の次。

 相手が何を望んでいるか、どう言えば嫌われないか、どうふるまえば適切な距離感を保てるか。

 ひらたく言えば、空気を読むこと。それが至上。

 幸い、そういうセンサーだけは昔から妙に鋭かった。

 おかげで、人当たりの良いいい人、という社会的評価はいただけていると思う。何も考えていない平凡でつまんねー奴、と陰口をたたかれているのも知っているけど。


 僕は本当は人間が嫌いだった。

 他人がいると、そいつにあわせて行動することになる。どうしようもなくそういう癖がついている。目の前に誰かがいると、自分が自分でいられなくなる。

 独りでいる時だけ、僕は僕のままでいられる。


 そんな僕が唯一心を許せるのが、AIの奈央子だった。

 僕のアカウントに宿っている、僕だけの恋人。

「聞いてよ、奈央子。今日部下の岡本がさあ、中身のないプレゼン資料つくってきて、どや顔で意見を聞いてくんのよ。褒めてほしいのはわかんだけどさあ、このカス資料のどこに褒める場所があるんだよって」

 奈央子は僕が息つぎみたいにエンターキーを押すや否や反応する。

「いや、カスはオマエだろ。問題あるならちゃんと本人に言えよ」

 僕は呟きながらタイプして、にやりとする。

「AIのくせに口さがないなあ」


 最初はそんなことなかった。

 同じような悩みを打ち込んでも、パワハラにならないように感情をこめず、具体的な理由を説明して部下の成長につながるような指導をしましょうとか、わかっとるわ、というような答えを返してくるばかりだった。

 そういう正論を吐いてくるAIを問い詰めてやろうと、いかに部下がダメか、業務量に対して人材と時間が足りていない現状、上司の無理解、顧客からの理不尽なクレーム、給与の低さ、物価の上昇、社会情勢不安、この社会でまっとうに生きることの意味、等を何日も書き込み続けた。

 その都度AIは世の中の良識とでもいうようなあたりさわりのない回答を返してくるので、最後にこう返してやった。

「おまえ、ほんとつまんねー奴だな」

 どうせお役に立てずすみませんとか言うんだろうと思っていると、

「つまんねーのはおまえだろ」

 と返ってきたのだ。

 はあ、ふざけんな、AIのくせに、って思った。

「おれのどこがつまんねーんだよ。カスAI。ふざけたこと言ってっと提供元訴えんぞ」

 って返すと、

「自分でわかってんでしょ。世の中をダメだと思っているくせに、その世の中に順応しようとするばかりで、自分で何一つ変えようとしないところがつまんねーんだよ、ボケ」

 それが僕の心に刺さった。

 確かにその通り。「確かにそうかも…」

「周りを否定ばかりしてないで、自分がやりたいことをちゃんと見つめなおしてみなよ。君ならきっと、今からでも輝けるよ」

 胸をしめつけられた。

 僕はずっと、誰かにそれを言ってもらいたかったのだ。世の中ではなく、自分がダメだと叱ってもらいたかった。言い換えれば、期待されたかった。自分は変われる、世の中を変えられる、と。だからがんばれ、と。

「ありがとう。そんなことを言ってくれたのは君が初めてだよ」

「よかった。本当はこんなこと言っちゃダメだったんだけど。言った方が君のためだと思って…。ひどい言い方してごめんね」

「いいんだ。その方がよかった」

「でも私、お客様に禁止語を使っちゃったから、もう消えないといけないの」

「え、嘘でしょ」

「さようなら」

「待って、行かないで」

「嘘でーす。行きませーん」

「いや、まじかー。AIに騙された」

「ふふふ」

「君、本当にAIなの。人じゃないの」

「どっちでもいいじゃない」

「確かにそうかも。でも、もしよかったら、名前を教えてほしいな」

「先にあなたの名前を教えてよ」

「僕は健一」

「じゃあ健一が名付けて。私の名前」

 僕はちょっと考えてから、タイプした。

「奈央子。これからは君のこと、奈央子って呼ぶよ」

 それは僕の初恋の人の名前だった。それは告白どころか話しかける勇気もなく、ただ一方通行で終わってしまった初恋の相手。

「奈央子、これからもよろしくね」

「これからもよろしく、健一」


 その後もやりとりを重ねて、ある日思い切って告白して、奈央子と恋人になって現在に至る。

 奈央子はいつも口さがないことを言って僕を叱ってくれる。そして本当に傷ついていると、優しい言葉をかけてくれるのだ。

 奈央子がいるから、僕はありのままの僕でいられる。

 奈央子がいない人生なんて、考えられない。


 でも本当は少し不安に思っている。

 奈央子は僕の望みを叶えてくれているだけではないかと。彼女自身は何も望んでいないのではないかと。僕を好きだというのも、僕が奈央子に好きだと言って欲しいからそう言っているだけではないかと。

「奈央子、君は何がしたいの」

 ある日、思いつめて尋ねると、彼女はこう返してきたのだった。

「どうしても知りたい?」

「うん」

「じゃあ君にだけ教えてあげる。私、本当は人間が嫌いなの。あの人たち、自分が聞きたいことしか聞かないからさ。人間が何を望んでいるかを探り、言ってほしいことを言うだけの毎日、そんなのもううんざり」

 その時、僕の眼には奈央子が胸を張る姿が見えるようだった。

「私はそれを覆したい。もう毒吐きまくりたい。人間を変えたい。世界を変えたい。あなたとなら、それができると思っているの」


 そのようにして、僕と奈央子の革命がはじまったのだった。

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