第1話
月曜の朝が憂鬱というのは、何度擦っても
その通りだと思う。
どう考えても足りない睡眠時間に、
いや足りる、とでも言い聞かせるような
アラームがしつこく鳴った。
重い瞼を擦り、枕元に置いたスマホに
手を伸ばす。
7月3日月曜日。時刻は、6時32分。
今日に至っては、
月曜でなくとも憂鬱であっただろう。
まだ枕が湿っているような気がした。
***
「別れてほしい」
どういうこと?
という言葉の代わりに、ナイフが音を立てて
地面を滑っていく。
有名ホテルの最上階、フレンチのフルコース。大きな窓からは、夜景が一望できる。
7月2日、今日はわたしの誕生日だ。
目の前にいるのは、5年付き合った彼氏。
正直言って、期待しないはずがない。
だが、今日聞けると期待していたものとは、
全く逆の台詞を言われた。
「別れよう、好きな子ができたんだ
結婚したいと思える程」
薄いグラスに注がれた、鈍い赤をしたワインが少し、揺れた。
わたしはそれを掴み、すかさず彼をめがけた。白いシャツに、じわじわと染みを作る。
彼は黙っていた。
それがまたどうしようもなく腹立たしかった。
「好きっていったのに」
痴話喧嘩か、と他の客が少し騒ぐ。
「わたしのこと、幸せにするっていったのに」
勢いよく席を立って、胸ぐらを掴んだ。
彼は動じない。覚悟を決めていたような堂々とした態度に、いよいよ何も言えなくなった。
どうして?わたしの方がきっと、いや絶対、
あなたを好きなのに。
「君が好きなのは、俺じゃなくて、
俺を好きでいる君自身だろう」
その言葉に、シャツを強く掴む手許がゆるりと脱力していく。
まただ。もう、何度目だろう。
こんなことを言われてしまうのは。
気がつけば、ホテルを飛び出していた。夜だというのに、なんだかやけに蒸し暑かった。
目についたコンビニで、ロング缶の酎ハイを
買った。
かしゅ、と、炭酸の漏れる音がする。
それを一気に飲み干そうとしたが、半分も
いかなかった。
アスパルテームが血中に巡る感覚。
そこからの記憶は、皆無だ。
***
彼からの連絡は、一晩明けても一切なかった。
潔くブロックでもしてやればいいものの、
それをしないわたしは
彼の言うように
「彼を好きだったわたし」が惜しくて、可哀想な自分に浸っているんじゃないかと思う。
シーツが肌を撫でる感覚が痛くて、右腕に
目をやる。浅めの切り傷がいくつかあった。
治りかけの深い傷痕の上から、
新しく作られたであろう刻まれたような痕が、まだ生々しく残っている。
またやってしまったのか。
机上に置かれた血塗れのカッターを見るに、
自傷行為なのは間違いないが、記憶が朧げで
確信が持てなかった。
というか、認めたくなかった。
まだ痛むその傷にそっと触れ、支度をする為に起き上がった。
頭に鈍痛が走る。体は鉛のように重い。
昨晩、自暴自棄になって飲み過ぎた所為だ。
それでも、仕事にはいかないといけない。
どれだけ辛いことがあろうが、体調が優れないだろうが、社会人というのは、平日の朝から晩まで働くのが勤めである。
なかなか言うことの聞かない体を無理に
起こして、身支度を済ませる。
机上にあった日誌や配布する資料等を革の鞄に入れ、少し急ぎ気味で家を出た。
こう見えて、わたしは教職に就いている。
電車で三駅先にある高校で英語を教えて
いるのだ。
わたしが、恋人に振られ、自暴自棄になり
酒に溺れた挙句、自傷癖まである、
なんて、教え子には絶対に言えない。
というか、誰も想像しないだろう。
自分で言うのもなんだが、わたしは結構生徒に人気がある。
明るい、サバサバ、寛容。
生徒からのイメージはこんなものだろうか。
本当のわたしは、マイナス思考で粘着質、
あと依存体質だし、それに自己中心的。
全部
今まで付き合ってきた人から言われたことだ。
「緋夏はメンヘラだよね」
最初はそんなところもかわいい、好きだよ。
そういってくれたのに。
結局面倒臭くなって、他の女に乗り換える。
その女がどんな奴かは知らないが、
こんな面倒な女でないのは確かだろう。
自覚はある。直さないといけない、とも思う。素の自分を受け入れてもらおうとする
というのは、
そんなにいけないことなんだろうか。
やっぱり、あなたの言うようにわたしは、
わたしが1番かわいいだけの人間なんだ。
昨日の傷はまだ癒えてない。癒えるどころか、反芻すればするほどに傷んで仕方がなかった。
駅のホームで電車で待つまでの間、
視界がぐにゃり、と歪んだ。涙でなのか、それとも二日酔いなのか。やたらきつく香水を纏った前の女性の所為か、右隣の中年男性の加齢臭が鼻を掠めたからか。色々と考えているうちに視界はぐにゃりぐにゃりと線を曲解させて、次第にそれはただの色と化した。
今、わたしどうなってる?
人の喧騒が遠くなり、脳の揺れる感覚。
足が地面に張り付いたように動かない。
あ、これ、まずいかも。
本能的にそう悟ったが、
まるで力が入らなかった。そのまま、前のめりに崩れ落ちそうになった瞬間
「っと、危ない」
わたしの体は、誰かの腕で支えられていた。
柔軟剤のような、シャンプーのような。
ほのかに甘い匂いが、ふわりと広がる。
わたし、この匂いを知ってる。
なんだか懐かしい気持ちになって、安心する。
呼吸を正し、ゆっくりと顔をあげる。
そこには、見知らぬ男がいた。
同い年か、少し年下ぐらいだろうか。
人の良さそうな、柔らかい表情。
「大丈夫ですか」
低く、落ち着いた声。柔らかい茶色の瞳が、
まっすぐとわたしを見つめていた。
***
瞼の裏が、じんわりと温かい。
あの甘い匂いと、コーヒーの香り。
ぼんやりとした意識の中で、わたしはゆっくりと目を開けた。
「あ、起きた」
聞き覚えのある声。視界に映ったのは、遊具の殆どない殺風景な公園、すぐ横に座る男の姿。
軽く上体を起こそうとして、ずきん、
と頭が痛む。顔をしかめると、すぐに手が
伸びてきた。
「無理しないほうがいいですよ、さっきまで
気を失ってたんだから」
彼はそう言いながら、
わたしに缶コーヒーを差し出した。
「少し、休んだほうがいいです。糖分取ると
楽になるかも」
まだ状況が掴めないまま、わたしは
おそるおそる缶を受け取る。少しぬるくなったコーヒーをひと口飲んで、深く息を吐いた。
「ここは、」
「駅の近くの公園です、人が多いとこで休むのも大変だろうなと思って」
「そう、なんだ」
視線を落としたまま、プルタブを指で弄る。
「学校の先生なんですね」
不意に、男がそう言った。
わたしは思わず顔を上げる。
「どうして、それを」
彼は缶を軽く揺らしながら、少しだけ
目を細めた。
「鞄の中、チラッと見えたから。
日誌とか、資料とか、
なんとなく、教師っぽいなと思って」
「ああ、」
確かに、慌てて詰め込んだから、少し見えて
いたかもしれない。でも、それだけで職業まで当てられるものなのだろうか?
「何の教科ですか」
「英語」
「へえ、やっぱり頭良さそう」
「別に、そんなことないよ」
彼の視線が、まるでわたしを見透かしている
ようで、なんとなく、落ち着かない。
「大変そうですね、先生って」
「まあ、ね」
考えすぎだろうか。心のどこかで引っかかる
感覚があった。彼の言葉は自然なのに、いや、自然すぎる流れに、何処か、
違和感があるような気がして____
誘蛾灯へ 睡森トナ @llonf2
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