第8話

 愛が停止した後、篠原の部屋には完全な静寂が訪れた。


 かつて規則正しい音を響かせていた愛の動作音や、エナジードリンクを運ぶ足音はもう存在しない。ただ、微かな風の音と、機械が停止する際の最後の微振動だけが空間に残された。部屋の中は静かで、時間さえも止まったかのように感じられた。


 篠原のベッドの横には、愛が何年も欠かさず持ってきたエナジードリンクの缶が並べられていた。それらは手をつけられることなく、綺麗なまま積み重なっている。


 その光景はまるで、愛の献身そのものを象徴しているかのようだった。缶の並びは規則的で、まるで愛がまだここにいるかのように感じさせる。しかし、それはもう過去のものとなってしまっていた。


 部屋はいつも通り綺麗だった。愛が停止する直前まで掃除をしていたからだ。床には埃ひとつなく、家具や窓も磨かれており、彼女が最後まで「主人のために」と動いていたことを証明していた。


 しかし、その完璧さが、かえって不気味な静けさを際立たせていた。すべてがそのままでありながら、愛の存在が感じられない空間には、ひとりだけの時間がひっそりと流れていた。


 ベッドの上の篠原は相変わらず眠ったままだ。彼の表情には穏やかさが残っている。それは、生きている人間が持つはずの「わずかな緊張感」すら感じさせない、まるで彫像のような静止した顔だった。篠原の顔にはもはや疲れや焦燥が見られず、ただ静寂と安堵だけが広がっていた。愛がいなくなっても、篠原の世界にはその変化が感じられないのかもしれない。


 月日が流れるにつれて、愛の身体は部屋の中で徐々に風化していった。彼女の外装素材は劣化が進み、かつての輝きは失われていった。


 それでも、彼女が主人のそばに寄り添い続けた証が、そこには残されていた。愛の手が篠原に重ねられたまま動かない。その静かな証拠は、過去の時間と共に刻まれていた。


 外界との接触を断たれたこの部屋では、全てが時間の流れに取り残されていた。かつての生活音や会話、そして人間らしい温もりは、全て過去のものとなっていた。部屋は時間に埋もれ、何もかもがひとりだけの空間になっていた。それでも、愛が残した記憶は、篠原にとって何か深い意味を持ち続けているのかもしれない。


 ある時、老朽化した窓から一筋の光が差し込んだ。それは、愛の停止後に初めてこの部屋を照らした自然光だった。


 その光は、愛の停止した身体と篠原の静かな顔を柔らかく包み込んだ。まるで、長い孤独の中で彼らを労うかのように。部屋全体がその光に包まれ、少しだけ時間が動き出したかのような気配が漂った。しかし、それは一瞬のことだった。光はすぐに消え、再び静寂が支配した。

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