ACT34 硝子のエンブレム3

 別行動を言い出した海は、結局授業が終わっても教室には戻らなかった。送迎の車に渉を乗せ、護衛を刑事に引き継いだ蓮が車を見送って踵を返すと、二人分の鞄を持った海が目の前に立っていた。

「おまえ、今までどこに……」

「午後ぜんぶ任せちゃってごめんね。取り敢えず帰ろうか」

 事情を話す素振りは見受けられなかったので、蓮は黙って鞄を受け取ると大人しく海の隣を歩いた。マンションの前に着くと、海は蓮の手を掴んでその場に引き留めた。

「なに?」

「もう中には戻らない。職員が部屋を片付けて下りて来るし、もうすぐ迎えの車も来る。だからここで待とう」

「……どういうことだ?」

「どうもこうも、護衛任務は終わりってこと」

「終わりって、どうして?」

 突然の展開にまるでついて行けない蓮に、海は柔和な表情で伝えた。

「必要がなくなったからね。原因になった脅迫状の、差出人が分かった」

「え? だ、誰だったんだ?」

 驚いて思わず海の右袖を掴んだが、そこにちょうど室の車が到着したので話が途切れた。保護者役だった女性職員が助手席に乗り、海と蓮も続いて後部座席に乗り込むと車はすぐに発進した。

「そんなに見つめられると、照れるな」

 なかなか口を開こうとしない海に焦れながら、じっと黙して説明を待つ蓮に、海は根負けしたように向き直った。

「脅迫状云々の前に、長谷部の怪我について話をしようか。百七十キロのストレート。計測については真偽が問われているらしいけど、これが本当ならプロの世界でも新記録だ。ただ彼は、その記録の反動で右肩をやられている。つまり結果が体の限界を超えてしまったわけだ……この症状、蓮にとっては馴染み深いものじゃないかな」

「え、まさか……」

 目を丸くした蓮に、海は頷いた。


「そう。ロスト・リミット症候群――長谷部渉は間違いなく、ロスリミ罹患者だ」


「……!!」


 海の口から出た残酷な宣告に、蓮は大きな衝撃を受けた。すぐに受け入れることはできずに、何とか否定したくて言葉を返した。

「いや、そんな筈ないだろ。怪我をしたとは言っても、過去には甲子園まで行ってるんだ。ロスリミ患者で、そこまで体を使って五体満足な訳ない」

「うん。だから彼は先天的ではなく、後天的なロスリミ患者なんだよ。蓮も良く知っている、烏丸泰一が遅く認識されたノンリミだったように。ロスリミの方はスポーツ関係者の発症が多いと聞いた事がある。練習中に、何かのきっかけで本来働くべきリミッターが外れてしまったんだ。一度外れてしまったら、もう二度と戻ることはない。今は痛みで大人しくしているかもしれないけど、そのうち故障箇所は広がっていく。普通の生活なんて、すぐにできなくなるだろう……況して野球なんて自殺行為だ」

「でもそれって、おまえの想像じゃ……」

 蓮の縋るような目線を、海は冷静に見返しながら首を振った。

「そんな不確かな情報で、任務の切り上げ指示が出るまで室長を動かせるわけない。蓮だって本当は分かってる筈だ。ただ何もしてやれなかったことが後ろめたい、そうだろ?」


「……だったら」


 ぐっと海のカーディガンを両手で掴むと、蓮は訴えるように見上げた。


「せめて本人に、自分の身体のこと伝えてやったら。何も知らないで、このままなんて……明日、もう一度会って」


「会ってどうするの?」


 氷柱のような声音に、心臓を冷やされたような気がした。身じろぐ蓮の肩を掴んで顔を近づけながら、海は容赦なく言った。


「自分が通院している時も、碌なアドバイスなんかなかったことを知ってるくせに。況して蓮はロスリミじゃなかった。ノンリミの経験談なんて、話すだけ無駄だよ。自分は違ったけど、君は無理すれば死んじゃうかも知れないから気を付けなさいね、とでも言うつもり? それって何の意味があるの」

 唇を噛んで押し黙る蓮に、海は更に畳みかけた。

「ノンリミに関しては極秘事項。それに通ずるロスリミについても、一般人が知っている確率はほんの数パーセントだ。その話をすること自体、リスクが高すぎる。と言うか、特調の人間としてあまりにも非常識だ。対象に深入りするな――そう言われたこと、忘れてないよね」

「忘れてはいない、けど」

 海の言葉は全て正論だと分かっていても、どうしても理屈に感情が伴わない。まだ納得していない様子の蓮にため息を吐きながら、海は少し口調を和らげて話を続けた。

「それに、彼の病状についてはそもそも蓮が伝える必要なんてないんだ。かかった病院で正確な診断がなされたから、両親はそのことを知ってる。ただ息子があまりに不憫で、本当のことを告げられずにいるだけ。最近の医療は本人告知が常識だけど、ロスリミに関しては未知すぎて対策も微妙だからね」

「知っ……てた?」

「そう。だからこそ俺も断言できたわけ。そして両親は当然彼に野球なんてして欲しくなかった。でも当人にはどうしても伝えられず、母親はチームで息子が最も信頼しているキャッチャーの渋谷に相談した……蓮にも段々話の筋が見えてきたでしょ?」


「長谷部渉に野球をさせるな、さもなくば大切な物を失うだろう……」


 脅迫状の内容を思い出して口にした蓮に、海は頷いた。

「そう、それはつまり事実だったわけだ。このまま野球を続ければ、長谷部は命さえ失う。あれは脅迫なんかじゃない。彼を思いやる人間による精一杯の切実なまでの願いだったんだ」

 両親と渋谷の想いに、胸がつまった。怪我さえ治ればまた野球ができると信じている渉を、一体どんな気持ちで見守っていたのだろう。

「学校からの知らせを受けて、両親はすぐにそれが誰の手によるものか気が付いたが、余計な気を利かせた校長がわざわざ祖父の大臣にまで報告したせいで事が大きくなった。護衛がついて、犯人探し――ということにまでなって尚更、両親は渋谷を守るために沈黙するしかなくなった。だけど俺が今日話を聞きに行ったら、彼はあっさり事情を認めてくれた。自分のやったことが罪になるなら、いくらでも償う。その代わり長谷部を助けてくれって……彼は最後までそのことばかり気にしていた。いい友達を持ったもんだよね」


「……」


「泣かないの、蓮」


 優しく囁くと、海は蓮を自分の胸に納めるようにそっと抱きしめた。涙が溢れる理由が、渉に対する同情なのか、それとも何もしてやれない己の無力さを嘆いてのことなのか、或いは渉の両親と友人の想いに強く共感したためなのかは分からなかったけれど。一粒こぼれてしまった涙は堰を切ったように止まらず、海の胸にしがみ付きながら蓮は声を殺して泣いた。


 己の力量を、蓮はこの日痛切に理解したと思っていたけれど。

 蓮がそれを本当に思い知るのは、この日から更に数日が必要となった。


***


 海と蓮が保安室に帰任してから三日後のことだった。

 テレビのニュースで長谷部渉が校舎の屋上から飛び降りて自殺したという報道を見て、蓮は海の部屋に駆け込んでいた。

「海、これ……」

 スマホでネットニュースの画面を見せると、海はやるせなげにため息を吐いた。

「やっぱりこうなったか。友人や家族では、絶望を埋めることはできなかったんだね」

「分かってたなら、せめて何か言えよ!」

 悔しさに食ってかかる蓮を、海は帰任の日同様冷静に諭した。

「あの日蓮はただでさえ、いっぱいいっぱいだったでしょ? あれ以上負担になるような情報、入れたくなかったんだよ」

「撤収早かったのは、これを警戒してかよ」

「その通りだよ。学校なんて死角も多いし、自分の身を護ることには長けていても、こういったことに関して俺たちは素人同然だ。巻き込まれるだけ損だと思った」

 海の言いたいことは理屈では分かる。もし長谷部が自分たちの護衛中に死んだりしたら、たとえ自殺だったとしても何らかの責任を問われるか、特調自体の評価を下げかねない。そうした海の進言を、すぐに室長が入れたことも簡単に想像はつく。徹底的に護れるかと問われれば、蓮の答えも当然ノーだ。

 それでも――


「感情が少しもついてこない」

「蓮はそれでいいよ」

 厳しいことを言われるかと思ったが、思いのほか肯定されて戸惑った。

「ダメ出しされるかと思ったのに」

「理屈が理解できているなら、俺の方で何も言うことはないよ。やりきれないと感じるのは、蓮の心がより人間的だからだ。そうした感情は飼い慣らす必要はあっても、捨てることないでしょ」

「……できるのかな、俺に」

「大人になるって、きっとそういうことだよ、色んなことを乗り越えて、徐々に鍛えられるんだ」

 保証も何もない抽象的な言葉だったが、何となくそうかもと思わせてくれるのが不思議だった。

「早くそうなりたい」

 海の肩に寄り掛かって目を閉じると、海が手を伸ばして髪を撫でてくれたのでしばらくそのままの姿勢でいた。やがて目を開けた蓮は、ひとまず手っ取り早く乗り越える課題があったことを思い出した。

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