ACT35 再び資料室へ
「柴田くん、元気出して」
あれから何だか冴えない蓮は、雑談をしながら烏丸泰一に励まされていた。
「俺は柴田くんの仕事の話とか聞いて、すごいなって思うし。憧れるよ」
「いや、そんなん言ってくれるのおまえくらいだし。俺はいつも隣にいる相方がすごすぎて、自信を付ける暇もない。今はあいつといると、劣等感ばかり膨らんでな」
「水沼さんでしょ? 俺たち中学生の方でもあの人伝説級だもんね。比べても仕方ないと思うけど」
「分かってるけど、どうしてもな」
「それにあの人、なんだかすごく怖いし。俺は柴田くんの方が先輩として尊敬できるよ」
周囲を警戒しながら声を潜めて訴えると、蓮は苦笑した。
「サンキュな。あと海の愛想が悪いのは、別におまえに対してだけじゃないから。できればこれからも関わってやってほしい。特調での評価だけじゃなくて、周囲との繋がりもあいつにとっては必要なものだと思うから」
「俺じゃ何の役にも立たないと思うけど」
「そんなことないさ、海が名前を憶えているだけでも大したもんだ」
「俺が柴田くんに近寄るから気に入らないだけじゃ……」
「おい」
「ひっ……」
急に背後から声をかけられて思わず蓮に縋りついた泰一の背後を見やると、そこには悪戯っぽい表情の橙子が立っていた。
「何だ、橙子サン。後輩驚かさないでよ」
「ちょっと揶揄うくらいならいいじゃないか。水沼だったら、きみと並んで座ってるだけでつまんでポイ捨てしてるぞ」
「あの、俺もう行くんで。またね柴田くん」
逃げるようにいなくなってしまった泰一を、橙子は視界から消えるまで眺めていた。
「あれが例の中学生か。きみには随分と懐いてるみたいだ」
「かかってた病院も一緒だから、共通認識も多いんだよ。それよりちょうど良かった、橙子サンと話したいことあったんだ」
「この前の任務のことか? 色々と大変だったな柴田」
「本当にね、完全にキャパオーバーだよ」
「無理もないさ、誰しも水沼のようなステンレス製のメンタルは持ち合わせていない」
「それでもあいつはやっぱり凄いよ。視点も危機察知能力も、俺とは比べものにならない」
「それは経験値もあるから、仕方ないだろう」
「慰めてくれるのは嬉しいけど、純粋な能力差が根本にはあると思う。ただ悲観してばかりもいられないから、必要な知識だけでも入れておきたいと思っていて」
「前向きで素晴らしいな。私に訊きたいことがあると?」
「うん。実は前に海が言ってたんだ。特調保安室が、以前は『LLユニット』って呼ばれてたって。政府が研究していたのは、元々ロスト・リミットの方だったって」
「水沼が、柴田にその話をしたのか?」
僅かに声を潜め、周囲を警戒する橙子に蓮も声のトーンを落とした。
「結構まずい話?」
「まずいと言うか、大っぴらに語らない方がいい話かな。そもそもこのことは知ったところで……」
「何ができるわけでもないね」
急に反対方向からかけられた声に、橙子ともども向き直った。
「海!」
「水沼」
「嫌だな、二人して内緒話なんて。せっかくだから俺も混ぜてよ」
「まあ、そもそもはおまえが柴田に話したことが始まりだからな。責任は取るべきだろう」
「責任と言われても、知ってしまったことは自身で抱えるしかないし、重荷になるだけかも。それでも俺はいいと思うよ。蓮が自分の意思で、自身の所属する組織の背景を知ろうとすること。流されてただここに居るより、きっとずっと意味がある。蓮の心の成長に役立つなら、深く知るために手を貸してもいいよね?」
「おまえに唆されているような格好は気に入らないが」
蓮の希望ならばと橙子は結局、首肯した。
「できれば鉢合わせは避けたい。佐伯さんの予定を確認してくるから、エレベーター前で待っててくれ。都合が悪ければ別途時間を連絡する」
「了解」
「佐伯さん?」
一人きょとんとしている蓮の肩をぽんぽんと叩きながら、橙子は歩き出した。
「ロスリミのことを知りたいなら、人づてより日鶴に話を訊きに行くのが一番だ。普段、資料室への出入りをしているのは殆どが佐伯さんだから、他の不確定要素はともかくあの人の予定だけは掴んでおくべきだろう」
「ひづる……ミストのことだっけ?」
「そうだ。彼女の本名、
「経緯は知らないけど、橙子サンだけは最初から本名でしか呼ばなかったね」
彼女が純粋な日本人であることは、蓮も初めに会った時から気づいていた。それでも改めて和名を聞くと、あの姿とはすぐに結びつかない。それにミストとは海のことでひと騒動あったことを今更のように思い出した。
***
十分後、海と蓮はエレベーター前で予定通り橙子と再会していた。
「佐伯さんは内調に出向いていて、ノーリターンだった。都合がいいから行こう」
「因みに佐伯さんに見つかるとどうなるの?」
「どうなるってほどのこともないが、室長には確実に伝わる。大っぴらに首を突っ込んでいい案件でない以上、極力知られない方が得策だろう」
「グレーだけに表だって注意もできないからね。ただ、遠回しに釘を刺されることは間違いないし、そうなるとお互い面倒じゃん。その辺は、探る側が気を遣わないとね」
「そういうことだ……来たぞ」
橙子に先導され、三人で開いたエレベーターに乗りB4のボタンを押した。降下していく箱の中で、蓮の問いかけるような眼差しに気付いて橙子が口を開いた。
「霧宮家は、元々旗本の流れを汲む明治時代から続く名家でな。日鶴はそこの三女として生まれた。しかしある時、ロスト・リミット症を発病して――軍人だった父親の判断で軍の研究施設に移された。それ以来、二度と家に帰ることはなかったそうだ」
「ミストが、ロスリミ……だった?」
「そうだ。彼女はこの国で最古の部類に入るロスリミ発症者であり、同時にただ一人の生存者でもある。ロスリミのことなら日鶴に訊ねるのが一番と言った理由が分かったか?」
初めて知る事実に、蓮はただただ驚くしかなかった。
地下4階に着き、金属の扉に橙子が慣れた様子で暗証番号を打ち込むと、相変わらず重々しい音を立てながら扉が開いた。久しぶりに目にした高い書架の並ぶ光景に、蓮は一瞬目的を忘れて見入ってしまった。
「そういや、あの日のこと……橙子サンに報告任せちゃったけど」
「水沼のことだろう、室長には報告しておいた。けれど日鶴の立場に特段影響はないようだ。外部の入館者については規制がかかったようだがな」
「外部?」
「基本的に公安のことだ。あの薬の出所がそうだったから」
「公安て……]
「せっかく来てくれたのに、声もかけずこそこそ内緒話?」
良く通る澄んだ声に発言を遮られ、気配もなく現れていたここの主を海が代表して挑戦的に見返した。
「別にこそこそなんてしてないさ。俺は誰かさんみたいに、歓迎する振りして笑顔で毒を盛ったりはしないから。後ろめたいことなんて何もない」
「あら、毒だなんて随分ね。あなたがいつも持ち歩いてる無認可の薬物と、大差はないと思うけど」
「俺のは腐っても正式な医師の処方。対してあんたのは公安の科学者の非公式精製品。一緒にしないでもらえるかな。あの時は高槻先生もひどいとばっちりを受けたんだ、少しは反省しても罰は当たらないと思うけどね」
「ふん、医者なんて患者より症例の研究の方が大事な碌でもない人間ばかりよ」
「高槻先生への不当な評価は置いといて、だ。今日は別件で来たんだけど」
蓮が間に入ると、ミストは愛らしく小首を傾げた。
「何かしら? 資料をお探し?」
「そうじゃなくて――俺の知らないロスト・リミットのこと、包み隠さず教えて欲しい」
蓮の真っすぐな視線を正面から受け止めて、ミストはぱちぱちと目を瞬いた。
「蓮からその単語を聞くことになるとは思わなかった。良ければ奥で話さない?」
「いや、そこのデスクで十分だよ」
閲覧用に用意された四人掛けの椅子と机を指して海がつれなく答えると、ミストは拗ねたように唇を尖らせた。
「信用ないわね、もうしないって如月にも約束したのに」
「話題が話題だしね。それにまだ定時前だろ?」
「構わないでしょ、どうせ文人がいなければ誰もここを訪れやしないんだから。でもいいわ、あなたがたが良ければここで」
藍色のサテンドレスの裾を揺らしながら、資料室の主は大人しく席に着いた。
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