ACT33 硝子のエンブレム2
長谷部渉の警護を続ける中で、彼がきちんと学校に通いながらも野球部に一度も顔を出していないことに気が付いた。室で用意した滞在先のマンションに戻った際に蓮がそのことを海に話すと、海は初日にその疑問を解消していたようでクラスメートから仕入れた事実を教えてくれた。
「例の脅迫状の前から、練習中に肩を痛めて今は部活も自主練も休んでるらしいよ。春の選抜までには時間もあるし、無理をすることは得策じゃないって渋る本人を周囲が説得したらしい。最初っから妙に苛々してるのはそのせいだろうね」
「そうだったんだ……」
身体の不調に加えて、出所不明の脅迫状とそれに伴う行動の制限。高校生である渉にとって、それらは大変なストレスだったに違いない。こういう時、大人は大抵焦るなと言うが、その時しかできないことに気持ちが逸ることは同世代として共感してしまう。
「授業中も気もそぞろって感じで身が入ってないみたいだし、他に熱中できるものってないのかな」
「一つのことに心血を注いできた人間にとって、いざそれがなくなると何をして良いか分からないのかもね」
「せめて一人の時間くらい作ってやりたいけど、校内は俺たちが付いて回って、学校帰りも車で護衛付きじゃな」
「蓮、何か余計な事考えてる?」
「え?」
「同情するのは構わないけど、それを仕事に持ち込むのはダメだよ。室長にも言われたでしょ、対象に深入りするなって」
「それは分かってるけど」
「校内で一人にでもして、万一何かあったらそれは間違いなく俺たちの失態だ。仕事で評価を下げれば、この先の室での処遇や待遇にも影響しかねない。俺は嫌だよ、蓮と一緒にいられない未来なんて」
そっとすくい上げるように左手を握られて、蓮は思わず握り返しながら軽い口調で返した。
「大げさだって」
「そのくらい、理不尽とも思えることが簡単に起こり得る世界で俺たちは生きてる。そのことをどうか忘れないで蓮」
真剣な表情で説かれると、蓮は笑みを消して真摯に頷いた。
***
「サボり?」
体育の柔道の時間、自分の隣で見学している海に渉が近づいて話しかけた。
「いや、体弱いんで。薬も毎日欠かせないんだ」
しれっとセオリー通りのことを口にする海に、渉は呆れた。
「嘘つけ。護衛を任される公務員が病弱なわけないだろ」
すると海は伊達メガネを外してハンカチで拭きながら、薄っすら笑って答えた。
「まあ、今のは対外的なテンプレの理由ってことで。ところで君は? 体育も見学をしろとまではこちらから要請していないはずだけど」
切り返されて、渉は一瞬口ごもった。
「……肩が、ちょっとな」
誤魔化されるかと思ったが、相手が正直に答えたので海も会話を続けた。
「病院は?」
「行った。肉離れと――後は、神経が傷んでるって」
「それって結構重傷じゃないの?」
「かもな。だから、今は休むしかないんだよ」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、渉は動き回っているクラスメートを眺めながら爪を噛んだ。その様子を横目で捉えたすぐ後に、海はもう蓮の姿を全力で追っていた。二人ずつ組になって交互に技の掛け合いをしている様子を、海少し心配そうに眺めていたが畳に転がされた蓮はとても上手に受け身を取っていた。
「蓮、さすがー」
「投げられたのに、褒めんのかよ」
「分かってないな。俺たちが普通の高校生の中に混じって違和感なく過ごすことが、どれだけ凄いことなのか」
「あーそういや警察って、柔道とか剣道とか強いんだっけ」
海の言葉の意味を誤解したものの、渉は納得したようだった。最初は年上だということを疑っていた筈なのに、護衛の刑事からも二人が確実に公務員であると確証を得てからはすっかり信じ込んでいる様子を、海は少しばかり憐れにさえ思った。
右肩を左手で守るようにしている渉に、海はふと気になったことを訊ねてみた。
「怪我したのって練習中だっけ」
「ああ、投球のな」
「噂で、百七十キロ出したって聞いたけど。もしかしてその時?」
すると渉は、驚いたように目を見開いた。
「そうだけど……良く分かったな」
「そこまでの記録は、その時が初めて?」
「ああ。でも、世間で言われてるように間違いなんかじゃない。渋谷――キャッチャーだけど、あいつが受けきれなかったのなんて、あれが初めてだった。完治したら、今度こそきっちり試合で結果出してやるよ」
「そうだね」
熱っぽく語る渉に、海はひどく冷めた声音で相槌を打った。
***
護衛任務から四日目、昼食後に海から突然別行動を持ち掛けられた蓮は戸惑いながら海の顔を見つめた。
「いいけど……何で?」
「理由は後でちゃんと話すけど、今は時間がないからごめんね。何もないと思うけど、対象のことよろしく」
特に情報収集を必要としない任務で、海が型通りの動きをしないことに疑問を呈しながらも蓮は一人で渉の側に残った。昨日のやり取りのせいで妙に気まずいのと、あまり深入りするなと言われているので話しかけるのも躊躇われて沈黙を持て余していると、突然渉の方から声を掛けてきた。
「なあ、彼氏どこ行ったんだ?」
「かっ……!?」
真っ赤な顔で咳込んだ蓮を、渉は面白そうに眺めた。
「動揺しすぎだろ、本当に警察官かよ」
「け、警察……」
じゃないと言いかけて、だったら何だと訊かれても困るので蓮はそのまま口を噤んだ。コーヒー牛乳の紙パックに口をつけると、中身を一口飲んでほっと息を吐く。それから渉を軽く睨むと、彼は少し気の毒そうな表情で笑った。
「そんな顔に出てたら仕事にならないだろ。あんたみたいなの、試合にも向いてないよ」
「野球とポーカーフェイスは関係なさそうだけど」
「あるって。ただ投げて打つだけじゃなくて、駆け引きも重要なんだよ」
「ああ、サインとか?」
浅い知識で答えた蓮に、渉は譲歩するように頷いた。
「まあ、それもな。どっちかって言うとバッテリーの呼吸の方だけど。あんたと水沼って、普段から相棒なの?」
「相棒か。うん、まあ仕事で組むことは多いよ」
「どのくらい一緒にいる?」
「丸五年以上かな。何で?」
「いや、俺にも二年近く一緒にやってる相棒がいるんだけど、信頼度とか距離感がまるで違って見えたからさ。あんたに何かあったとしても、水沼はあんたを見捨てることはないだろ?」
「……?」
質問の意図が読めずに首を傾げると、渉は苦笑して首を振った。
「悪い、変な事言った。何でもないから忘れてくれ」
そう言うと机に伏せて寝てしまった渉を蓮は黙ってその場で見ていたが、自然と右肩を庇うようにしている姿を、純粋に気の毒に思った。
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