ACT32 硝子のエンブレム1

 キーンコーンカーンコーン。


 授業終了のチャイムと同時に、海がいそいそと机の前に現れた。

「蓮、お昼どうする?」

「俺じゃなくて、対象に訊け」

「えー? 昼休みくらいお互い自由にしようよ。別に命を狙われてるって訳でもないんだし。学校で毒を盛られるなんてこともあり得ないでしょ」

「でも何があるか分からない。あ、席立った。行くぞ」

「むー……」

 不服そうにしながらも、海は蓮に続いて教室を出た。既に生徒で賑わい始めている廊下を進むと、目当ての後ろ姿が人込みにまぎれかけていたので足早に追った。すると階段の踊り場で、当の相手が立ち止まってこちらを見上げていた。

「本当にどこまでもついて来るんだな、ご苦労なことだ」

 皮肉な口調に、蓮はちらりと海の様子を窺ったが無反応だったので、努めて冷静に言葉を返した。

「仕事だから。それより、今日はどこで弁当食べるの?」

「まだ決めてないけど、どこか一人になれるところに行きたい」

 皮肉に言うとさっさと歩き出してしまったので、蓮は海に向き直った。

「じゃあ俺、購買で何か買ってくる。海はついて行って、場所が確定したらメールくれ」

「やだ、二人きりとか無理。買い物は俺が行くから、蓮はこのまま護衛よろしく」

 笑顔で肩を叩くと海は軽快な足取りで行ってしまった。身勝手な二人の間で振り回されて、蓮は少々疲れたようにため息を吐いた。


***


 二日前から、蓮と海は私立のT高校でペアの任務に就いていた。内容は今回潜入ではなくて、高校の生徒であり対象である長谷部渉はせべわたるの護衛という保安室の中でも珍しいカテゴリーだった。学生組では過去に数件しか例がなく、キャリアの長い海でも初めてだと言う。

「長谷部……長谷部ね。どこかで聞いた事あるな」

 手元の資料に目を落としながら呟いた海に、如月は当然だと頷いた。

「現文部科学大臣の孫だからな。それだけでなく、彼自身も今年ニュースで何度も取り上げられた」

「ニュース?」

「ああ、高校野球」

 ポンと手を打った蓮を、海は意外そうに見つめた。

「蓮、野球なんて詳しかった?」

「いや、詳しくないけどテレビ観てたら普通に目に入るレベルで映像流れてた。おまえ基本テレビ観ないから知らないかもだけど」

「新聞は読むけど、スポーツ欄は飛ばすしね。で、そんなすごいの?」

「甲子園の準決勝で敗れたとは言え、全国四位のエースだからな。特に投手としての素質は抜群で、ストレートの球速が一度は百七十キロにも届いたとか。さすがに計り間違いとの声が多いがな」

「ふーん。ノンリミならともかく、一般人でそれはすごいね」

 言葉と裏腹に無感動に言うと、海は任務の詳細を訊ねた。

「で、何で護衛?」

「ああ、一週間ほど前に脅迫状が届いたらしい。自宅ではなく、学校宛にな。これがそのコピーだ」

如月の広げたB5サイズ相当の紙には、雑誌を切り貼りしたような歪な文字群でこう書かれていた。


『はせべわたるにやきゅうをさせるな さもなくばたいせつなものをうしなうだろう』


「長谷部渉に野球をさせるな、さもなくば大切な物を失うだろう……か。何だか子供っぽい文面だね。分析は?」

「そもそも投函された脅迫状自体がコピーでな。消印も指紋もなく、手掛かりは実に少なかったそうだ。学校からの連絡に対し、本人はイタズラだと気にも留めなかったらしいが両親と祖父である長谷部大臣は大事として捉え内密に警察に相談した。結果、忖度が行われ現職の刑事が護衛に付くという異例の段取りが組まれたが、通常の学校生活に支障をきたすという理由で学校内に限っては本人がNGを出した。しかしそここそが最も危険な可能性があると、大臣も譲らず交渉を続けた結果、巡り巡ってここに話が行き着いたという訳だ」

「つまり護衛と言っても、俺たちはあくまで校内のみってことか。それ以外は本職にバトンタッチってわけだね」

「そういうことだ。おまえたちは転入生ということで同じクラスに配置される。当然、護衛ということは当人以外知らない」

「逆に言うと当人には知れてるってことですよね。俺たちのことは何て説明してるんですか?」

「公務員、とだけ。年も詳細の身分も伝えていないが、一応社会人ということになっているから対象と話す時は相応に振る舞いなさい」

 如月の無茶な注文に、海と蓮は思わず顔を見合わせた。

「無理じゃない? 蓮はそもそも高校生としても怪しいくらい童顔で可愛いし」

「人のこと言えんのか。おまえこそ男にしては目がでかすぎなんだよ」

「それ関係なくない? でも要するに俺も可愛いってことかな」

「可愛いと言えばもちろんそう……」

「あー、こらこら」

 論点がずれ始めた二人の会話を上司というより保護者のように止めると、横で笑いをこらえている佐伯を一瞥して如月は咳払いした。

「とにかく、異例ではあるが心がけることは通常任務と変わらない。任務遂行にのみ注力し、余計な情報や感情に踊らされないことだ。対象の身の安全を第一に確保し、自身は目立たぬように徹しろ。特に室に関するデータは決して周囲に与えるな。そのためにも会話は最小限に留め、必要以上に対象にも他人にも深入りしないことだ。分かったな?」

「それって、犯人については一切探りを入れるなってことですか?」

 蓮の問いに対し、如月は驚いたように眉を顰めた。

「当然だ。君の任務は護衛であって、犯人の確保ではない。そちらは全て警察に任せて、目の前の職務に専念しなさい」

「でも、学生なら何か知ってるかもしれないし。もしかしたら俺たちにしか聞けないことも……」

「蓮」

 如月の代わりに、海がやんわりと口を出した。

「蓮の性格的に、できれば解決してやりたいって気持ちは分かるけど、俺たちは個人じゃない。大きな組織が二つも三つも重なって思惑が錯綜する中で、全体の絵図から切り取られたほんの一部の役割を担っている。指示通りに動かなければ、ちょっとしたことで歯車がずれたりもする。特調を背負って任務にあたるなら、そうした時のリスクも個人としてじゃなく組織全体として捉えなくちゃいけない。だからイレギュラーな行動は慎むべきで、何かあった時の責任は室と室長に直撃することを常に肝に銘じなきゃいけない。分かる?」

 静かな口調で諭されて、蓮は素直に頷くと如月にも謝罪した。

「はい。余計な事言って、すみませんでした」

「いや、理解できたならそれでいい。しかし水沼も少しは成長したものだな」

「少しはってどういうことだよ。俺は仕事に対する理念については、最初から徹底してたつもりだけどね」

「そこではなく、柴田をきちんと納得させた対応を褒めたつもりだったが。欲を言えば他のエージェントに対しても、そのくらい丁寧に接してくれるとありがたい」

「それは無理。俺の優しさや親切心は蓮限定の容量しかないから」

 如月の言葉を瞬時に切り捨てると、海は蓮と自分の前に置かれた資料を揃えてそちら側に戻した。

「さて、仕事の内容は分かったけど、警護について正直俺たちは素人だ。何か知識として入れておくことは?」

「ああ、そのことなら既に手配している。この後成人組からその方面の経験者を一人回してもらえることになった。付け焼刃にはなるが、彼から警備について基礎的なレクチャーを受けてくれ」

「へえ、マニュアルにはないってのによく協力してくれたね」

「任務自体が特例だからな――佐伯くん」

「はい」

「二人の案内を頼む。では質問がなければ行きなさい」

「了解。行こうか、蓮」

「ん」

 差し伸べられた手をつい自然に握り返した蓮は、佐伯の微笑まし気な視線に気がついて慌てて手を離した。


***


 それから半日かけて基礎的な知識を叩きこまれた海と蓮は、こうして長谷部渉を校内で追い回すような形になっているわけだが、事情を知っていても渉は一向にこちらに協力する素振りを見せなかった。それどころか事あるごとに撒こうとする姿勢が見受けられ、周囲よりむしろ本人が最も油断がならなかった。

蓮がぴったり後ろをついて来ていることをちらりと確認しながら、渉は多目的室の一つに入って行った。中を覗いた蓮は、そこに先客がいないことを確認して携帯を取り出したが、架電するより先に海から着信が入った。

「はい」

『蓮? 色々買ったけど今どこ?』

「N側の三階――分かるか? うん、じゃあ中で待ってるから」

 通話を終えて教室に入ると、渉は既に奥の席で弁当を食べ始めていた。幾分ほっとして入口付近の椅子に座ると、窓の外を眺めていた渉が不意に話しかけてきた。

「なあ。あんたたちって、本当に公務員なのか?」

 疑わし気な声音に、それだけは間違いなく事実なだけに蓮は自信を持って答えた。

「本当だよ」

「……ふーん」

 それでも納得しがたかったのか、渉は更に探りを入れ続けた。

「でもどう見ても、俺より年上には見えないんだけど。柴田、だっけ。あんた何歳?」

「個人情報は伏せるように言われてるから、秘密」

「何だよ、それ。じゃあ高校は出てるとして、大学は?」

「それも秘密」

「そんな秘密だらけの人間に、守ってもらうとか不安でしかないんだけど。ぶっちゃけ、信用できない」

「学歴と警護は関係ないだろ」

「そういうことじゃなくて……」

「蓮、お待たせ―」

 ガラリと扉を開けて入って来た海に会話を遮断され、蓮はどこか救われたような気持ちで海を迎えた。しかしその後、対象の存在を完全に無視していつも通りの距離感で振る舞う海にひやひやさせられていると、案の定、渉が冷たい視線を向けながらずけずけと訊ねた。

「なあ、あんたらって同性愛者なの?」

「ち、違っ……」

「違うよ」

 吃る蓮とは真逆に、海がそちらを向きもせずに冷静に答えた。すぐに狼狽する自分と引き比べて感心していると、

「だって男なら誰でもいいわけじゃなくて、俺には蓮だけだから」

「なっ……」

 続けてさらりととんでもないことを口にした海に蓮は動転したが、渉には海の答えが予想外だったようで、不意に笑い出した。

「なるほどな、他人の決めた定義や名前なんかどうでも良いってことか……納得した。おかしなこと訊いて悪かったな」

 妙に清々しい様子でそう言うと、渉は反対側を向きながら机に顔を伏せて寝てしまった。蓮が思わず海の顔を見ると、海にも対象の真意は分からなかったらしく肩をすくめて見せた。

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