第2話 - 5




数年が過ぎ、クロは少し背が伸びて、以前よりもずっと大きくなった。まだ若干不安定な身体の一部もあるが、かつてのような無力感は薄れてきていた。


村の仕事に少しずつ手を貸すようになり、これまでは見ているだけだった作業にも積極的に参加するようになった。最初は恐る恐る手を出していたが、今では慣れた手つきで村人たちと一緒に仕事をこなしていく。


「クロム、手伝ってくれるかい?」


村の人たちが気軽に声をかけてくれる。最初はうまく返事もできなかったが、今ではすっかり普通に返せるようになった。村人たちにとって、クロの存在はすでに当たり前のものになっていた。


「はい、すぐ行きます」


穏やかな口調で答えると、村の人はにっこりと笑って頷く。


畑仕事を手伝っていると、クロはその一つ一つの動作に心地よさを感じるようになっていた。土の匂いや、手に伝わる温もり、みんなが作り上げていくものの大切さがじんわりと心に染み込んでいった。


「お兄ちゃん、遊ぼう!」


作業がひと段落つくと、すぐに村の子供たちが駆け寄ってきた。まだ無邪気な顔で、クロに声をかけてくる。


「え?」


クロは一瞬、ためらいの気持ちが湧いた。

ようやく村に馴染んできたとはいえ、出来ることなら深く関わることはしたくなかったからだ。

自分が関わることでなにか良くないことが起きるようなこと気がして仕方なかったからだ。


「こっちはいいから遊んでおいで。手伝い、ありがとうね」


沈黙を気遣いと捉えてくれた村の人がそう言った。

それを聞いた子供たちは同意と捉えたのかクロをそっちのけに嬉しそうにしている。

子供たちの目が期待に満ちているのを見ると、断ることができなくなってしまった。


「わかりました。少しだけですよ?」


そう言って、クロは立ち上がる。子供たちは嬉しそうに手を引き、クロをどこかへと引っ張っていった。

疲れた体も、笑顔に包まれると不思議と元気を取り戻すようだった。

いつの間にか、子供たちの中では「クロお兄ちゃん」という存在が当たり前のように定着している。


「クロお兄ちゃん、こっちに来て!」と、小さな男の子が走り寄ってくる。


クロは無言で頷き、何気なく駆け出す。子供たちの声を聞きながら、自分も自然に笑顔を浮かべていた。


そのとき、別の子供が慌てたように叫んだ。


「助けて!おじいちゃんが!」


その一言に、クロの体が反応する。考えるより先に、体が動いていた。焦ることなく、駆け出して子供の後を追い、指を差す先に目を向けると、倒れている老人が見えた。


近くに駆け寄るとクロは無駄に慌てず、冷静に声を掛け、すぐに倒れた老人を抱き起こす。


「大丈夫ですか? おじいさん!」


クロの声は優しく、しかし力強く響いた。

老人はうまく起き上がれず、クロはその背を支えながら必死に立たせようとする。年老いた体は力が入らず、クロは何度も確認するように声をかけながら支え続けた。


その様子に、周囲の子供たちも静かに見守っている。クロが無意識とった行動になんの違和感を持つことなく、誰もが「お兄ちゃんなら大丈夫」と安心しているようだった。


「誰か水を!あと、大人を呼んできてください」


クロがそう言えば、1人がすぐに駆け出し、他の子供たちも慌てながら大人を呼びに行く。

クロは倒れた老人の傍らで、穏やかに声をかけ続けた。


「おじいさん、聞こえますか?」


返事はないが、うっすらとまぶたが動いた。呼吸は浅いが、命に別状はなさそうだ。


「脱水か、立ちくらみか……」


老人の状態を冷静に見極めながら、クロは無理に動かさず、日陰に少しずつ体をずらす。


「クロお兄ちゃん、お水持ってきたよ!」


子供の1人が駆け戻ってくる。クロは感謝を伝えながら、その水をそっと老人の唇へと運んだ。少しずつ喉が動き、わずかに意識が戻る。


「もう、大丈夫かと思います」


そう振り向いた瞬間、駆けつけた大人たちと視線が合った。


「大丈夫か!? どうしたんだ!?」


「おじいさんが倒れてて……クロお兄ちゃんが助けてくれたの!」


子供たちが口々に説明する。クロは静かに頷いた。


「水を飲ませたので、少しずつ回復すると思います。しばらく休めば……」


「よくやったな、クロム!」


沈黙のあと、大人たちの間から感嘆の声が漏れた。


「おかげで助かったよ、ありがとう!」


「いえ……」


クロは戸惑いながらも頭を下げる。


「クロお兄ちゃん、すごーい!」


興奮気味に囲む子供たちの目が、まっすぐな賞賛に満ちていた。


「すごかった!すぐに動いて、おじいちゃん助けてた!」


「治癒士さんみたいだったよ!」


褒められているのはわかる。

けれど、内心では妙な違和感がくすぶっていた。助けることは当然のことだと思っていたのに、それがこうして賞賛されるのが、どこかくすぐったいような、落ち着かないような気持ちにさせる。


「大したことじゃないですよ」


そう言って軽く流すと、大人たちは「そんなことはない」と笑ったが、深くは追及せず、その場は和やかに収まった。



――しかし、夜。



夕食を終えたあと、両親と過ごす時間。母親がふと、柔らかい声で尋ねた。


「クロム、今日おじいさんを助けたって聞いたわよ」


「うん、村の人たちが言ってたぞ。すごく落ち着いてたって」


父親も興味深そうに言葉を続ける。


「処置も的確だったと褒めていたぞ。よくそんなこと知っていたな?」


その問いに、クロはスプーンを持つ手を一瞬止めた。


「えっと……本で……」


うまく言葉が出てこない。

両親相手に下手な言い訳は通用しないからだ。

もちろんこの家にはそんな本はなかった。それを思い出し、クロは焦って口を言葉を続けた。


「前に薬師さんがきた時に見せてくれたんだ!」


「そうなの?」


母親はただそう言うと、さらに追及することはなかった。父親も「なるほどな」と呟くだけで、静かな空気が流れる。


クロは少しホッとした気持ちでスプーンを口に運んだ。しかし、そのままぼんやりと湯気の立つカップを見つめる。


今までの経験があまりにも自然に体に染み込んでおり、つい動いてしまう自分が妙に大人びて見えるのが気になった。今はまだ周りからは「大人っぽい」と言われるだけだが、いずれ、何か大きな矛盾が生まれてしまうのではないかと、不安が胸の中で膨らんでいた。


けれど、同時に困っている人を見過ごすことなんてできなかった。出来ることがあれば、動きたかった。そう思う気持ちも、確かにあったからだ。


「どうかしたか?」


不安そうにカップを見つめるクロに、父親が声をかける。


「ううん、なんでもないよ。今日はもう寝るね」


そう言って席を立つと、両親は何も疑うことなく「おやすみ」と返してくれた。クロはその言葉に笑顔を浮かべ、部屋へと向かう。


部屋に戻ると、静けさが広がっていた。窓から月明かりが差し込んでいるだけ。クロはベッドに転がる。


この数年、同じことを考え続けている。


ーー自分はここにいるべきじゃない。


その思いが繰り返し浮かんでは消えた。

どこか別の場所で、別の人生を歩むべきだと。そう感じるのに、なぜかその先に進むことができない。状況を変えたくても、その一歩が踏み出せない。動くべきなのに、どうしてか動けない自分がいる。


心の中で答えを求めても、それはいつも霧のように消えてしまう。考え続けても、何も見つからない。だけど、動かなければ状況は変わらない。それがわかっていても、どうしても踏み出せない。心のどこかでそのままズルズルと過ごしてしまいたい自分がいるのも事実だ。


「本当にここにいていいのだろうか……」


言葉にしてみると、余計に虚しく感じる。今、目の前にある現実と、自分の中にある何かが乖離していることに、少しずつ気づき始めている。


クロは目を閉じ、深く息をつく。あたりの静けさが、逆に胸を締めつけるように感じられた。何もできず、何も変えられない自分に、じわじわと焦りが募っていっていた。


クロは起き上がり窓に反射した自分を見つめる。

他の村人と変わらない、普通の子供だ。何度確認しても血のように赤い色は姿を隠したままだった。


右目にそっと手を添える。

もちろんそんなことをしたところで何の意味も持たない。ただこの顔を見るたびに嘘だらけの自分に嫌気がさしていた。

ずっと望んでいた“普通”のはずなのに、酷く寂しく思えた。

そう思った瞬間だった。



手の隙間から、溢れた赤い色だった。

思わず手で顔を覆う。しかし時はすでに遅く、窓に映っていたのは“普通”を無くした自分の顔。


(なんで………?)


突然のことにクロはパニックになる。

今すぐにでもこの場から消えてしまいたい。

それなのに、足は縫い止められたかのように動かず、喉はひりつくほど乾いていた。


気づけば近くにあった枕を手に取り、窓に向かって投げつける。


ガシャンッ!


鋭い音とともに、窓ガラスが砕け散った。

ひどく耳に響く音だった。

それなのに、部屋の中はすぐに静寂へと飲み込まれていく。


クロはそのままうずくまる。

飛び散ったガラスの破片が腕に刺さる。けれど、痛みなんて感じなかった。震える指先でシーツを強く握る。

視界の端で、割れた窓の向こうの夜空が揺れていた。外の空気が流れ込み、ひやりとした風が肌を撫でる。


ーーどうしよう。


ーーどうすればいい。


わかっているのに、何もできない。

ベッドの上で膝を抱え、肩を丸める。

まるで自分という存在を小さく縮めてしまえば、この現実も消えてなくなるような気がして。


「クロム!」


突然、扉が勢いよく開いた。

驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは父親だった。眉をひそめ、部屋の様子を見回し、次にクロを見つめる。その視線に射抜かれ、クロの背筋が凍った。

右目に無意識に手を当てる。だけど、もう遅い。


ーーああ、終わりだ。


そう悟った瞬間、心臓が静かに沈んでいくような感覚に襲われた。

父親は数秒、じっとクロを見つめていた。やがて、静かに近づいてくる。


ーー怒鳴られる。

ーー追い出される。

ーーそれとも……。


「大丈夫だ」


力強くそっと抱きしめらる。

思ってもいなかった言葉だった。


クロは顔を上げる。父親の表情は穏やかだった。


ーーどうして?

ーーなぜ、怒らない?

ーーなぜ、恐れない?

ーーなぜ……?


色々な思いが浮かんでは泡のように消えていく。

何かを言おうとしたそのときだった。


ーーズズンッ……


遠くで、地響きのような音がした。


それは風の音ではなかった。続くように、何かが砕ける音、叫び声が入り混じる。


空気が変わった。


父親の表情が一瞬で険しくなる。


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ヴァルドールの終わり ここは、パン @koi-tya

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