道標
第18話
本間は仕事帰りに打ち合わせも兼ねて美波の元に足を運んだ。
ステージを終え、ずいぶん遅い夕食をバンドのメンバーと食べながら彼女は何でもないことのように言った。
「あれ? 聞いてません? 帰りましたよ。別に追っても来なかったし。目の前に現われたときは、ちょっとビックリしたけど拍子抜けって感じ」
貴昭は本間の賄いをカウンターに用意する。
それに気付いて本間は浅く会釈し、ゆっくりと席についた。
「そ、そう…」
落胆した様子の本間に美波は良心が微かに疼いたが、自分が間違ったことを言った覚えはなかったことに自信はあった。
それに何も反論してこなかったということは彼自身にも思い当たることがあったということだ。
「今井一史って真純ちゃんと不倫している俳優だよね? ボク見てみたかったなぁ」
ベースを抱えたままの凌が面白半分で話に入ってくる。
それを兄貴分の未来が「やめとけ」と注意している。
美波は相変わらずの凌の様子に椅子を半回転させ、離れた場所でベースを膝に置いたままゲームしている彼に話しかけた。
「凌、その相手のこと知ってるの?」
珍しくゲームから意識をこっちに向けてきたガキは自分の美貌を十分知っている笑みを浮かべて頷く。
「うん。胸がFカップでかなり大胆な子だよ。女優としてはいまいちだけどAV女優なら向いてるんじゃない?」
期待通りの返事に美波は呆れて、何度か首を振って椅子を元の場所に戻し、本間を見る。
「なに凌。もう食っちゃってたの?」
ドラムの冬也が微妙にショックな口調で凌の話に食いついている。
「っていうか、あの子は仕事のためとかじゃなくても平気な子だよ。軽いもん」
その場にいた誰もが「お前が言うな」っていう感情を抱いたことは敢えて言うまでもない。
芸能界という特別な世界から一線を引いた彼ら【Vivid Sound】ではあるが音楽という世界に身を置いている以上、中々無縁とはいかないらしい。
三十になるバンドのリーダー京一は現在も【Vivid Sound】のマネージメント的なことをこなし、当時所属していたレコード会社でギターリストして裏方の仕事を頼まれていて、現在もハードな生活を送っている。
年長者のギターの未来は実家の設計士の仕事をしながら他のバンドのヘルプをやっている。
結構、いいバイトになるといって楽しんでいるようだ。
未来より半年遅く生まれたドラムの冬也はいいところ出のお坊ちゃま気質が抜けず、音楽を出来る場所はミナミの後ろだけ。
日中は芸能界で得た人脈を有意義に使いこなしながら派遣会社の社長らしきことをやっている。
一番年下の問題児の凌はそのルックスのおかげで気が向いたときだけテレビの仕事やモデルの仕事をし、アイドルや女優を誘惑しては週刊誌に追い掛け回されている。
それぞれVivid Soundから足を洗いながらも、完全に抜け出せていないのが現状だ。
時々、そのことで彼らが自分達の道を後悔しているじゃないかと思うときが、美波にはある。
約四年前、今の情況が必ずやってくるという事実を知らされたとき、誰もが今のこの選択、つまりメジャー引退を否定しなかった。
ある一人の男の存在がこのバンドには不可欠だったことをメンバーと同じくらい美波も分かっていた。
だから「やめないで」とは言えなかった。
バンドとしての要の声を失うのに、それは身勝手な意見でしかない。
それに彼を失った穴を埋めることの出来る人材が見つかるとも思えなかった。
世間のことなんて何も分からず、いい加減な人生を送っている凌ですら、そのことだけは理解していた。
凌にとって彼は、いい意味でも悪い意味でも道標だったのかもしれないと美波は思っている。
けれど凌が本当の意味で彼の伝えたかったことを理解するには、まだ時間が必要だとも実感している。
「どこで知り合ったんだよ?」
一人興味がある冬也が凌に近づいて話を続けている。
その問いに面倒くさそうに凌は答える。
「どっかのブランドのパーティーだったと思うけど。とにかく積極的でさ。あれだと大抵の男はコロッと騙されるよね?」
凌は馴れ馴れしく、背を向けて貴昭が用意してくれた賄を食べている本間に同意を求める。
「お前、誰と喋ってんの?」
自分を無視された冬也が不機嫌な口調で本間のほうに視線を向ける。
それに気付いた美波は隣で食べることに夢中な本間に目だけ流して見せた。
数人の視線を察したのか、本間は口に運ぼうとしていたパスタを一旦止める。
「もしかして俺への質問?」
ゲーム機から目を上げた凌は営業スマイルつきでコクリと首をおろす。
「残念ながら俺はお目にかかったことはないので。まぁ噂はたくさん聞くけど」
それだけ答えて本間は食事を再開する。
あまりのあっけない答えに凌は口元を気持ち尖らせてゲームに気持ちを戻した。
大人しくなった凌の様子を確認すると美波は手を合わせ「ごちそうさま」といい、グラスを手に取った。
その瞬間を見逃さない速さで本間はパスタを押し込むと、モグモグ口を動かしながら自分の鞄から台本を取り出す。
「ここに出向いて来たのは…一史のことじゃなくて」
「本間さん。私は別に逃げませんから。ちゃんと食べてから聞きますよ」
美波は慌てて仕事の話を持ち出してきた本間に思わず苦笑いを返した。
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