居場所

第17話

 差し出していた台本を払いのけられ、一史は顔をあげる。


「あなたの恩返しは次のドラマでやって下さい。私の作品では御免です」


 彼女は一史の横をそれだけ行って通り過ぎた。


 一史はあまりに突然のことで何を言われたか判断するのに数秒かかった。


 慌てて振り返った彼の目には背を向けて堂々と歩いている女性の姿だけが映る。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


 さすがに待って下さい、という丁寧な言葉は出てこなかった。


 無意識ほどコントロールすることは不可能というものだ。


 後を追って駆け寄った一史は彼女の前に立ち塞がる。


 その行為に美波は露骨なほど嫌な表情を見せつけてきた。


 ここ数年、一史は自分を前にして、これほど不愉快な顔を見せられた覚えはない。


 自分が向ける視線に誰もが目をキラキラさせていた。


 中には皮肉れた態度を見せる女性もいたが、それは逆に自分の気を引くための術でしかなく、そういう場合は少しだけ特別な合図を送るだけで相手の気持ちは簡単に崩れた。


 だから一史は美波を前に同じことをした。


 そうすることで相手の感情が僅かでも揺さぶることが出来ると、妙な確信を持っていたのだ。


 けれど美波はさらに顔を引きつらせた。


「あの~、私はあなたの気を引くつもりでやっていませんから」


 手厳しいコメントに今度は一史の顔が引きつる。


 その反応に美波はやっぱりね、的な様子で右の口元を軽く上げ、その後に面倒くさそうに小さくため息をつく。


 いくら原作者で本間に彼女を説得して来いと言われたものの、あからさまな上から目線に一史の我慢も限界だった。


 こっちが腰を低くしていることを逆手にとっている対応に「それが年上の者に対する態度かよ」と珍しく常識人のような言葉が一史の頭を流れていく。


 黙ったままジッと自分を見下ろしている一史を前に、美波はもう一度時計に目を落とす。


「悪いんですけど、時間がないので」


「時間? それはこっちだって」


「だったら早く戻ったら? ここに来るだけ無駄です。本間さんにもそう伝えて下さい。あなたにはあなたに似合った仕事をするほうが賢いと思います。私、この作品に最後の希望を託しているの。あなたの安っぽい恩返しで汚されたくないんで」


 真剣な眼差しと少し早口になりながら発せられた台詞に一史はさらに顔が強ばる。


「あのさ、さっきから言いたい放題だけど少しは年上の人間に対しての接し方とか考えるべきじゃない? あんたがどれほど有名な作家さんか知らないけど、そんなやり方じゃ誰ともうまくいかないぜ。もちろん本間さんとだって」


 見下していたはずの相手に痛いところをつかれたのか美波は伏せた目を力強くあげると、一史をキッと睨んだ。


「そっちこそ、人にものを頼みにくるってことの意味をもう一回ちゃんと考えたら。それに恩返しって本間さんに力を貸すみたい思っているみたいだけど、この作品がその方法なの? もっとやるべきことをやっておくこともあったんじゃないの?」


 美波そういいすててパッと背を向けた。


「今からライブなの。失礼」


 今度は呼び止めずに一史はその背中を目で追った。


 いや、正確には相手に言われた言葉が心に強く引っかかったのだ。


『いつも自分をギリギリの場所に置け。ぬるま湯には浸かるな』


 美波に振り払われたボロボロの台本をギュッと右手で強く掴んだ。


 今頃、しかもまだガキの女に嫌味のこもった口調で言われて気づかされた、そのことが一史にはショックだった。


 自分の恩返しは本間を助けること、本間の力になること、本間のために出来ること、そればかりしか見えていなかった。


 彼が本当に自分に求めていたものは、もっと違ったものだったんじゃないか。


 だから今回の件も、あっさり彼は原作者の意見を取り入れたんじゃないか。


「つまりオレは本間さんがいなかった時間をただ無駄に使って、そこで得た立場にのんびり浸かっていたってことかよ」


 情けなさすぎて、逆に笑いが込み上げてきた。


 何が視聴率だって話だ。何が抱かれたい男だ。何が旬の人だ。


 どこまで自分が馬鹿か知った。


 自分が認められたいと思う相手に認められてないなら、そんなものは何の役にもたたないじゃないか。


 本間のいなかった四年間の自分を一史は思い出してみる。


 今日、彼から思い知らされたこと以上に酷い時間を費やしていた。


 台本を開きもせず自分の気分で監督に「こっちのほうがよくない? 今井一史ぽいよね?」なんて言って思いつきで台詞を足したり、引いたり、時には勝手に削除もした。


 いつも自分が見ていたのはカメラだけだ。


 演じながらも気にしていたのは共演者でも監督でも画面の向こうの視聴者でもなく、カメラが自分をどう映しているかだけ。


 それが意味を持つことだと信じて疑うこともしなかった。


 与えられた役を演じることが自分の役目じゃない。


 自分が演じる役が用意されている立場を築くことが自分の役目だと思っていた。


 ずっと見失っていたことを見つけた瞬間、一史は凄く疲れた自分に出会った。


 疲労度は徹夜で撮影を何日もこなした時より酷く堪えた。


 離れていった相手の背中を追う余裕はない。


 もう、いいや。そんな気持ちが隙間もないほど埋め尽くしていく。


 今さら、もう遅い。


 何もかも手遅れであることに一史は気付いてしまった。


「社長の取ってきた仕事やるか」


 いつもの自分に戻ればいい。


 その場所ならいつでも自分を迎えてくれるだろう。


 そしてそこにしか今の【今井一史】の居場所はない。


 ボロボロの台本を一史は鞄に押し込み、事務所に戻るためにタクシーを拾った。

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