賭け
第16話
そんな昔のことに思いふけていた美波は、一段高い所に自分が立っていたことをすっかり忘れ、バランスを崩してこけそうになる。
投げ出された彼女の体を支えたのは、すぐ近くにいた一史だった。
「大丈夫ですか?」
美波はありがとう、とだけ言って体をサッと離した。
相手は深く被っていた帽子を被りなおしていいえ、と答える。
本間とドラマ化にするに当たっての打ち合わせで美波は一つだけ条件を出した。
『今井一史は外してください』
本間が吸っていた煙草を落とすほど動揺していたことが今でも印象的だ。
さすがの彼もそれは…と即答出来なかった。
『私が書く作品は私の作品です。今井一史の作品じゃありません』
全否定に近い口調で美波は告げた。
『それは分かっているつもりだよ』
本間は彼女の意志に当然だ、という口振りで力強く主張した。
『そうですか? 私にはそうは思えません。私は彼を起用することで本間さんが楽に結果を出そうとしているようにしか思えないんですけど』
その発言に傍にいた貴昭が慌てて割り込んできたことを美波は憶えている。
『本間さん言いましたよね? 私への想い、形にしてくれるって。正直、今の今井一史の演技力で私に伝わってくるとは思えません。本間さんのような方が気付いていらっしゃらないとは思えないんですけど』
しばらくの沈黙が続いて彼は何度か頷き、そして答えた。
『分かりました。今井一史は外しましょう。但し、あいた穴はどうしますか?』
その問いかけに今度は美波が黙り込む。
芸能界に知り合いやコネもあるはずない。
バンドのメンバーに頼むことも、もちろん出来るはずもなかった。
彼の納得するプランを指示できない美波に本間は同じように条件を出した。
『いいでしょう、彼の代役には無名の新人をスカウトしてきます。この作品を一番に読んだ俺の直感信じてもらえるかな?』
煙草を口から外し、その背を灰皿でトントンとリズムよく叩いて彼は言った。
『分かりました。お任せします』
そのことを了承した後で彼はさらに条件を口にしたのだ。
『但し、もし今井一史があなたの前に現われたら、彼もその候補として考えて頂いても構いませんか?』
驚いた表情の美波に本間は笑った。
『いや、これは俺の賭けなんだ。外されたことを聞いて彼がどうするのか。もしかしたらあっさり受け入れるかもしれない。どこも喉から手が出るほど彼を必要としているからね。ただ信じてみたいんだ。今の一史の中に演じることがどんな意味づけであるのか』
そんなやり取りをしていただけに一史の登場で美波は本間との賭けに負けたことを瞬時に理解した。
あの賭けをした時点で負けていたことを美波は一史を前にして気付いた自分に腹が立っていたのだ。
しかし条件を呑んだからには目の前の結果に反発するわけにはいかない。
どうすればいいだろう?
そればかりが頭の中を支配している。
一史も黙り込んだ美波にどう接すればいいのか困っているのがひしひしと伝わってきた。
「一つ聞いてもいいですか?」
仕方なく質問することでその重たい空気を変えようと美波は試みることにした。
「あ、はい」
最近見たワイドショーでの態度とは違って好青年といった受け答えを彼はする。
美波はそんな冷静な判断を頭の中で思い浮かべながら彼を直視した。
「どうしてここへ?」
今までにないほど素直な疑問だった。
今井一史というほどの有名な俳優が、なぜ降板させられたドラマに出たいと思うのだろうか。
他に仕事がないわけでもないはずだ。
本間が言ったように彼の中に演じるという意味づけが存在するというのなら、それを確かめてみたいと思った。
美波の問いに一史は少し慌てながらも自分の鞄からボロボロの台本を取り出した。
「この恩返しがしたくて、ただそれだけ」
差し出された台本のタイトルは美波が偶々見た彼のデビュー作のドラマだ。
そのくたびれようで彼がそれを肌身離さず持っていることは想像がついた。
一史に対するイメージが美波の中でほんの数ミリだったが、変化を生じたことは確かだ。
だが、それくらいのエピソードで彼女の決意が揺らぐことはない。
「つまり本間さんに対してのってこと?」
彼は小さくだが何度も頷く。
公園はすでに夕日を呼び込み始めている。
オレンジ色とまではいかない雲の隙間から覗く太陽は二人の未来を暗示するかのように、はっきりと自分の姿も空の姿も見せようとはしない。
美波は腕時計で時間を確認すると、目の前に差し出されたままの台本を軽く右手で払い、歩き出した。
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