事実
第19話
本間はちょっと恥ずかしそうにしながら頭をかいた。
「ゴメン。気が焦ってて。正直、一史のことも一理ある‥だけど約束は約束だから。今回は奴のことは諦めるよ」
謝罪を発した彼から、今井一史の名前が出てきたことに美波は驚く。
どうやら二人は相思相愛らしい。美波は瞬間的だが身震いがした。
その感覚が数時間前にボロボロの台本を見せられたときとよく似ていて、余計に鳥肌が立ったのだ。
そこまでお互いに相手のことを気にかけているとしたなら最初に本間が口にした「主役には今井一史を予定しています」という言葉は、美波が受け取ったニュアンスと違ってくるのではないか? と少し思えてきていた。
本間はただ正直に【今井一史】という人物を推薦しただけに過ぎなかったのではないか、と。
だが今さらそんなことは言えない。
目の前の彼は美波の言葉を真摯に受け止め、自分の賭けに負けたことをすんなりと認めたのだ。
「今井一史にずいぶんと思い入れがおありなんですね。凌があんな風に言う女性に夢中になって我を忘れているような人を」
二人の真正面で後片付けをしている貴昭が美波のきつい言葉に手をやめ、顔を二人に向ける。
「単純にただ夢中になっているなら俺も安心しているよ。だけど奴の場合は相手が一史に向けているものよりももっと酷い。きっと彼」
本間は目の前の貴昭に食事の礼を告げ、振り返って指差した。
「凌?」
「ああ、そう凌クン。きっと彼のほうがまだ菊本真純と向き合っての関係だと思うよ。一史の場合は単なる暇つぶしだ。それもかなりたちの悪い。だからかなぁ~気になる。ほらバカな子ほど可愛いって言うじゃない」
「それ分かりますよ、オレもそうですから」
本間のグラスにミネラルウォーターを注ぎながら貴昭が会話に入ってくる。
「貴兄は入ってこないで」
美波は手で貴昭を追い払う。
それに抵抗せずに貴昭は奥のほうに引っ込んでいった。
「一史がそんな方法を選んだ理由は多分俺にあるからねぇ。少し責任を感じているんだ。人間、誰しも気持ちに変化は生じる。それはどんな特効薬が開発されても無意味な症状で。それなのに俺はそれを強制した。それも最も納得させる方法で。結局一史も、その周りにいる人間も苦しめている」
本間は貴昭の注いでくれたグラスを手に持ったまま悲しく微笑んだ。
「そんな人たくさんいますよ。現に私も似たようなものだし。自分の勝手な感情で周りの人間を苦しめている。最悪なのは、それはずっと続くってこと。当事者達はいずれ忘れることが出来るくせに周囲の人にだけ傷を残していくんです」
美波は珍しく自分の感情を口にした自分に驚いていた。
「でも、それを黙って受け止めてくれる人が君にはたくさんいる。そして好きなだけ発散する場所もある」
本間はそれぞれの時間を過ごしているメンバーに目を向け、その後にさっきまで美波が立っていた小さなステージを見つめた。
そんな相手の視線を追うように美波も椅子を回転させ、テーブルに後ろ向きに両肘をついて眺める。
「そう見えますよね、きっと。でも何も満たされないもんですよ」
「きっと一史も同じような感情なんだろうな。全てに満たされていることと、全てに満たされていないことって相反する感情だけど、どちらもフルでその感情が気持ちを埋めてしまった人間は同じような行動をするんだろう」
本間は上着から取り出そうとした煙草を、美波がバンドのボーカルをしていることに気付いてやめた。
「あの人、全てに満たされてないんですか?」
美波は少しだけ興味が湧いた自分に素直に従い、本間に尋ねてみた。
「ん? さぁ~どうなんだろうな。俺はあんな立場になったことがないから。でも想像だけは出来る。君だって賞を取ったとき周囲は一変したんじゃないの?」
本間の質問に美波は思わず吹き出して笑ってしまう。
その声にメンバーが顔をこちらに向けた。
「おい、ミナミが笑ってるぞ」
冬也が恐ろしいものを見たかのような表現で場の空気を和ませる。
それに凌は眼球だけあげクスッと反応し、未来は手入れをしていたギターを軽く鳴らした。
本間はメンバーの意外な反応に彼女がいつもこの中でどれほど自分の感情を押し殺して過ごしているのかを察した。
「私が賞を取ったことなんて誰も知らなかったですよ。あの頃、彼らは人気バンドでしたし、それどころじゃなかったし。こんなのんびりした時間は過ごせなかった。それでも…よく会っていたほうなのかもしれない。今にして思うと」
美波はすぐに表情を無に戻すと彼らに背を向けるようにカウンターに体を向けた。
「そりゃVivid Soundは匡のワンマンバンドだったんだもん。匡がミナミに会いたいって言えば地方に行ってても日帰りを余儀なくされたしね」
ゲーム片手に凌が不満をいまさらながらにぶつけてきた。
「やめとけ、昔の話だ」
未来が暴走しないように発したのが、余計に塞がっていた金具をあけてしまった。
「昔の話じゃないよ。おかげでミナミは未だにボク等の前じゃ滅多に笑わない。誰とも付き合わない。まぁ気持ちは分かるけどね。あれほど想っていて、想われている相手にキスしかしてもらえなくて、相手は自分の美学を抱えて死んじゃって。おかしくなるなって言うほうが変だよね」
ぺラぺラと喋り始めた凌をとめることは未来にも冬也にも出来ない。
それは当時、匡がしていることを見逃してきた二人には凌の意見を訂正するのに自分たちがふさわしくないことが分かっているからだ。
本間は冷え切っていく空気の中に身を置きながらも黙って、まるで他人事のような表情で聞いている美波の横顔をただ見つめた。
「ボクは匡のしたかった意味も理由も一生分からないよ。だって結局、残った事実は無意味じゃん。なら愛する人を愛してあげればよかったんだよ。そうすればミナミだって誰が見ても分かるような、あんなバカなこ…」
ライブハウスに響き渡っていた凌の声はバシャっと水のかかった音で止まった。
「あ~あ、濡れちゃった。何するんだよ、京一~。これ、お気にだったのに~。あ、ゲームにも水がかかってんじゃん」
事務所からの電話で外に出て行っていたはずの京一が、空になったグラスを持ったまま凌の前に立っていた。
「いつまでもお子様で通用すると思うな! 未来と冬也が何も言わないのは美波を気遣っているわけでも、匡のことを忘れたいからでもない。現実は変えられないからだ。よく覚えておけ!」
ふてくされた顔で凌は濡れた衣服を傍に置いてあったタオルで払い、ゲームの液晶画面を必死で磨き始めた。
京一は張り詰めていた場の雰囲気を残したまま、また鳴り出した携帯を持って外へ出て行く。
「言い逃げだ」
ご機嫌を損ねた凌はそう呟いて帰り支度をサッとして立ち上がる。
「じゃ、ボクは約束があるから」
誰に告げるわけでもなく、彼はベースを背負ってペタペタと音を立てるような歩き方で帰っていく。
その後を追うように未来が走って言った。凌のフォローは彼の担当なのだ。
静かになったライブハウスで本間は自分が鞄から出した書類に目を落とす。
「ここまできていながら変な質問だけど」
丁寧に塗っていたはずの右手の中指のネイルが少し剥げているに気付いた美波は、それを気にしながら本間の問いに耳を向ける。
「これ、本当に作品にしてよかったのかな? なんか今の話を聞いてると」
何でもズバッと発言すると勝手に思い込んでいたせいか、遠慮がちな本間の様子に美波はまた表情を緩ませた。
「本間さんって本当に不思議な人ですよね。最初に来たときは是が非でもって感じで絶対にNOなんて言わせない言い回しだったくせに」
美波の指摘に間違いはない。
あの日、彼女が受け入れてくれなければ、どんな卑怯な手を使ってでも自分はこの作品を手に入れていただろう、と力強く断言できる。
けれど今は違う。
彼女の書いたこの【サイレント ワールド】には、本間が想像していた以上に多くの人間の過去と未来が敷き詰められているのだ。
不安げな目をした本間に、美波は一史を追い払ったことへの罪悪感もあり、いつもなら決して話すことはない自分の過去を口にした。
「本間さんが察している通り、この作品の中身は全てが事実です。もちろん名前は違うものに置き換えましたけど、性格や発言した言葉はほぼノンフィクション。【タクヤ】はVivid Soundの匡です。【アユミ】は私。少しでも私たちのことを知っている人間が読めば全部分かることです」
「いや、実はそのこともあって出来れば脚本はもう少しフィクションを混ぜて欲しいと思っていて」
このまま発表すれば、この作品は実話に基づいたノンフィクション作品として世間を違う意味で騒がせてしまう気が本間にはしていた。
「確かに作品として素晴らしいと思う。だから俺も惚れ込んで君を説得した。だけど、これじゃ君をはじめ、多くの人間に」
「迷惑がかかると?」
美波は感情のない声で本間の説明に答える。
「ああ。もう三年も経っているとは言え、Vivid Soundの存在は誰しもの記憶に鮮明に残っている」
約三年前の秋、当時のワイドショーを独占したのはVivid Soundのタスクの突然の死だった。
「そりゃ、あの騒ぎを忘れる人はいませんよね」
ずっと黙って聞いていた冬也が帰り支度を整え、貴昭に軽く手をあげて背を向けながら囁いた。
「まさか自分のバンドの人間が死ぬなんて考えていませんでしたからね。だけど俺は構わないですよ、ミナミの作品が世に出ても」
知らん顔していた美波は思わず冬也の背中に顔を向ける。
「さっきの京一の台詞の受け入りじゃないけど現実は変えられないから。せめてもの奴への慰めとして奴の死のバックボーンに、一体何があったのか伝えてやるものアリかなって」
それだけ言い残して冬也が出て行き、入れ違うように京一が戻ってくる。
「美波、今日は一人で帰れるか?」
「大丈夫、貴兄がいるから」
慌てた様子で支度をし始めた京一に、美波はグラスをなおしている貴昭の許可も取らずに即答する。
「お前、勝手なときだけ使うなよな」
「あ~そんなこと言っていいの? 彼氏に振られたとき愚痴に付き合ってあげたのは誰だっけ?」
「それをいつまでお前は駆け引きに使う…あ」
グラスを持ったまま貴昭は硬直した本間の表情に気づき、口をあけて止まる。
「あ、本間さんに言ってなかったんだっけ。大丈夫ですよ、貴兄のタイプはマッチョなんで、そういう目で本間さんのこと見て」
「いや、予感はあったけど…。それに業界でも珍しい話でもないから免疫はあるけど。あまりに直球で驚いただけ」
一緒になって固まった京一も、本間の即座の理由にホッとした表情浮かべて出て行った。
「なんか話が脱線しちゃっていますけど脚本は変更するつもりはないです。この作品はありのままを描いたから意味が生まれたんだと思うし。きっとこの作品の中に登場している人、誰もが今は覚悟していると思うから。だから余計に嘘は書きたくないんです」
美波は自分にもう一度言い聞かせるように書き下ろした脚本を前に何度も頷き、本間に鋭い眼差しを向けた。
「事実は事実でしかない。【タクヤ】はHIV感染者で、その病気を発病して死んだ。【アユミ】はそんな彼に最後に愛されながらも一度も抱いてもらえなかった。そのことを隠しちゃったら本間さん、私に何を伝えること出来るの? 匡の私への愛。描けないでしょ」
美波ははっきりと断言して頭を少しかいた。
その表情に迷いはない。
そんな彼女の姿に本間と貴昭は顔を見合わせ、深く頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます