出会い
第15話
青く晴れ渡った空の下で久しぶりに気持ちよく発声練習をしていた時だった。
「藤原美波さん? …ですか?」
スラッとした体型で背の高い男性がそう美波の名を口にした。
最近またパソコンの前に座っていることが多くなったせいか、よくなっていたはずの視力が落ちてきている。
二日前に「ミナミ、目つき悪い」と三つも下のベース担当の凌に嫌味たっぷりな口調で言われたばかりだ。
近付いてくる男性に目を凝らし、焦点が合うと一瞬にして美波は不機嫌になる。
その理由はたった一つだ。
一生、世の中に出ることのなかった作品をテレビドラマにしたいと本間が尋ねて来たとき、彼は自慢げにある名前を口にした。
『主役には今井一史を予定しています』
それは美波には自分に対する餌のような表現に聞こえた。
「彼なら文句はないでしょう」という言葉の代わりに使ったように思えたからだ。
確かに多くの原作者が彼なら文句を言うどころか、その後の自分の人生に大きな転機を与えてくれる人物に大賛成するだろう。
いくら芸能界に興味がないとはいえ、あれほど番組で取り上げられれば、興味のない美波でも彼の存在がどれほどのものか容易に推測はつく。
テレビの電源を入れればいくつものCMで今井一史は登場するし、書店に行けば多くの雑誌で特集や表紙を飾っている。
最近はワイドショーで不倫をしたとかしないとか、そんな報道をされていたのを微かに聞いた覚えもあった。
だから嫌い、というほど偏屈ではない。
偶然だが彼がデビューを果たしたドラマを美波は見ていた。
中々、いい演技をする俳優だなぁと素人ながら思ったことが記憶にある。
けれど人気とともに彼の演技力はあからさまに低下していた。
それなのに世間は彼の才能を評価し、一流の俳優の扱いを始めた。
ライバルがいなかったという点では少し同情の余地もあったかもしれない。
だが別格の扱いをされ続けた彼は自分を見失い、世間の一時的な流れに完全に振り回されている。
現に「高視聴率をとれる俳優NO1」という超恥ずかしいレッテルを貼られているにもかかわらず、彼は雑誌で演技について語っていた記事を目にした時は本を閉じたほどだ。
人間、我を見失うとは本当の良し悪しの区別がつかないというが、どうやら出任せではないらしい。
要するに今井一史は視聴率を稼ぐだけの俳優で、演技力の必要なドラマや映画にはお呼びはかからないというわけだ。
それに今後の展開を予測すれば上がったものはいずれ落ちるという答えを導く。
上がった場所が高ければ高いほど落ちた場所は目もあてられない。
歴代の高視聴率俳優の行く末を見ればその道筋は一目瞭然である。
今井一史の前にそう呼ばれていた俳優はしばらくテレビでお目にかからなかったが、最近では自分を昔追っかけまわしていたワイドショーの司会業など始めている。
それでもまだマシなほうで中には復帰する場所さえない場合がほとんどの業界だ。
それほど芸能界という世界は怖い場所なのだ。
ちょっとした勘違いで間違いを起こし、想像も出来ない波に流されてしまうことだってある。
踏み外した階段の落差は華やかな分、ダメージは計り知れないだろう。
美波は目の前に立ち尽くしている一史を無言でただ見つめた。
「倉本さんにここだって教えてもらったから。お話したいことがありまして」
彼から倉本の名前が出て、さらに美波は嫌な気分になった。
お節介な貴兄のことだ。
話さなくてもいい余計なことまで口にしたに決まっている。
相手の控えめな態度に美波はそう確信した。
貴兄には色々お世話になっているし、ROZAの雇われだけどオーナーだから、美波たちは頭があがらない。
だが男のくせにおしゃべりが過ぎるのだ。
ほんの数ヶ月前も、凌とギターの未来が大喧嘩をした原因だって貴兄の余計なおしゃべりが発端だった。
美波がボーカルを務めるバンドはメジャーで成功した過去を持つだけにルックスは他のバンドよりも際立っている。
その中でも一番若い凌は一段と綺麗だ。
メジャーから撤退する二年前に加入したメンバーで当時中学を卒業したばかりだった凌を彼の腕とルックスを京一が気に入って加入させた。
メジャーを引退すると、凌の行動は普通の若者に成り下がってしまった。
いや自由になるお金の額が半端じゃなかっただけにもっと最悪になった。
プロとして仕事をしていた時から酷い日常生活だったのに、それに油を注いだようなもので何社もの性質の悪い雑誌に追いかけまわされ、いい餌食に今もされている。
いつも見出しを飾る文字は女性問題ばかりで、その話題が取り上げられない日はないと言えるほど当時は酷かった。
けれどその反面、音楽に関してのストイックさはどのメンバーに引けを取ることはなく、彼は新しい楽曲を発表するたびに自分の存在を明確に示していた。
だから京一をはじめとするメンバーは彼の好き勝手な行動に注意を促す程度しか言えず、教育することは出来なかった。
けれど、それだけが彼を自由にした要因でもなかった。
『なんで匡はよくてボクは駄目なの? 匡は美波がいるのに何人のも女と遊んでるじゃん。匡はヘンだよ、おかしいよ。好きでもないのにセックスしてんでしょ? ボクは彼女たちが好きだよ。匡は一体誰が本当に好きなの?』
美波が駆けつけたライブ会場の楽屋で凌が京一たちに話していたシーンが蘇える。
当時の凌の体は大人だったかもしれないが心はまだ子どもだった。
そして美波も同じようにまだ子どもで、だから取り返しのつかない過ちを犯した。
本当に好きな男に抱いてもらえない事実だけに目を向け、彼の本来の気持ちを察することさえ出来なかった。
その代償は今ではもうどうすることも出来ない。
けれど、どこかでその代償を美波は納得していた。
でも、それほどのことをしても、美波は彼に振り向いてほしかった。
彼に愛してもらいたかった。
それがたとえ自分の命の時間を縮めることになっても、彼とひとつになれるのなら構わなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます