不思議な人
第14話
紳士的な対応をしてくれた彼は倉本貴昭と名乗り、一史が尋ねた藤原美波という人物について教えてくれた。
『美波は気難しい奴で初対面の人には本当に最悪でね、警戒心しか抱かない感じなんだけど』
そう言った後、彼は感心したように何度も頷いて呟いた。
それはどこかで体験したことのある出来事とよく似ていた。
『それなのに会って一時間も経たないうちに本間さんにはコロッと心を許しちゃって。正直、驚いたよ。彼って不思議な人だよね』
その問いに一史は同調した。
確かに本間は不思議な人だ。
四年前、自分の前に現われた彼はまるで一史の人生を隣で見てきたかのような安堵感を発しながら、一方で踏み込まれて欲しくない場所に土足で入り込んでくる強引さも持っていた。
相反するカラーをバランスよく保ち、その使い方を彼は誰よりも熟知している。
時にはそのことが裏目に出てしまい、自ら己の足を引っ張ることも多々ある。
四年前の自分が絡んだ一件がいい例であることを一史は身に染みて感じていた。
本間には人を魅了する力と、それを煙たく感じさせる力がある。
その理由を一史は何度か真剣にそのことを考えたことがあった。
答えはいくつも存在するような気もするし、しないような気もする。
考えれば考えるほど本間は一史にとって不思議な人物だった。
だが一つだけ彼を理解できることがある。
それは本間が誰よりも自分の心に正直であることだ。
一史が本間のおかげでデビューして二年目。初の映画主演した作品を見せた時だ。
『一史、この映画はよかったよ』
彼は一人、そう絶賛してくれた。
デビュー以来、テレビドラマを中心に活動していた一史の新たな一歩であり、大きな賭けでもあった。
だから彼の評価は素直に嬉しかった。
しかし世間の前評判は悪く、公開初日も思った以上に客足は伸びなかった。
けれど本間だけは誉め続けてくれた。
『マスコミの情報なんてあてにするな。ちゃんと見る奴が見れば分かるさ。そのうち評価も変わる』
落ち込んでいた一史に本間は自信に満ちた顔で励ましてくれた。
本間が高い評価をしてくれた映画は外国の映画賞にノミネートされたことをきっかけに、当初の予定より遅れたものの徐々に観客数を伸ばし、年の終わりにはあらゆる賞を総なめした。
『な、言っただろう』
本間は無邪気にそう笑った。
そのとき彼が人を魅了し、時には怒りを買うのは、誰よりも事の先を見てしまえるからじゃないかと思えるようになった。
本間自身がそこまで自覚しているのかは分からないが、だからこそ彼の言葉には真実味があるような、そんな気分になる。
そんなこともあって、その映画で出会った彩音との結婚を迷っている時も親より先に一史は本間に相談した。
彼は賛成してくれたが最後に釘も刺した。
『もしもの話だ。将来、彼女よりも愛する女性がもし現われても今の気持ちを絶対に忘れるなよ。俺が知っている限り黒木彩音はいい子だ。彼女を悲しませることだけはしないで欲しい、約束だ』
当時は何を言っているんだと思った。
当たり前だ、と言い返してやろうかとさえ思った。
けれど今は痛いほどその意味が分かる。
一緒に暮らし始めて半年もたたないうちに一史は自分の中の矛盾に気づき始めた。
仕事以外では特には着飾らないとか、部屋着のまま平気でゴミ出しに行くとか、そんなほんの些細なことから全てが始まった。
つまり一史が想像そしていた以上に黒木彩音は家に戻ればアーティストではなく、普通の家庭的な女性だった。
それがなぜか一史には目に付き、そして自然と出会った頃はあったはずの彼女へ愛情は失われていった。
そのことに気づいてからの日々は虚しくも切なくも、侘しくもあった。
そしてその感情が付きまとうように罪悪感に苛まれる。
そんな感情と戦い、もがき、苦しんでいた時はまだ自分はまともな人間だったような気がする。
最近では妻ではない女性を愛してもいないのに抱くことが平気で出来る。
単なる排出処理のような行為と変わらない。
それは妻である彩音に対しても変わりはなく、どちらかというと月日が長い分、事務的な行為のようにも思えるほどだ。
あの時、一史が何を求めて彩音を選んだのか本間は知っていたのだと一史はそう確信している。
一史は自分の隣で眠る妻の姿を見つめて小さくため息をもらす。
彼女は自分を愛してくれている。
俳優【今井一史】ではなく、ただの【今井一史】という人間を誰よりも。
だが一史は違った。
彼が愛したのはシンガーソングライターである黒木彩音だった。
いつも綺麗な服に身を包み、清潔感のあるメイクを施し、流行のブランドのバックを持ち、リスナーを感動させる曲を次々に生み出す、輝いた世界にいる選ばれた女性でなければならなかった。
何も着飾らない自然なままの黒木彩音は一史にとっては何の魅力もない、ただの女性に過ぎなかったというわけだ。
結婚なんてそんなものだと誰もが言う。
特別な世界にいるからこそ、その落差はつきものだ。
そのことを頭で理解できても心が認めず体が全てを拒否する。
自分の本当の願望に気付いてから、一史は彼女の前ではカメラが回っているときと同じように彼女が愛した夫を演じている。
なぜならそれが、本間が一史に捧げた言葉の意味だからだ。
報道された不倫はまんざらデマではない。
菊本真純とは男女の関係になって三ヶ月が経とうとしていた。
雛形から大手のプロダクションが力を入れているが伸び悩んでいる女優がいるから噂の一つでもあると助かるという話を聞かされた。
珍しいことでもなかったし、紹介された彼女は嫌いなタイプではなかったからOKした。
彩音には事情を話し、承諾をもらった。
彼女も業界人、これといって疑うこともない。
何度か食事を一緒にした。
その場面をわざと週刊誌に撮らせる。
それだけの話だ。
だが利用されるだけでは納得がいかない。
だから電話をかけた。
向こうにも躊躇は最初からなかった。
どちらかと言えばラッキーといった反応だった。
いつからか女を自分の腕に抱くことが特別なことではなくなっていた。
誰でも同じだ。
その時の絶頂感、開放感、面倒なことを忘れるための道具同然の扱いをしている。
なんて最低な男になったと一史は自覚していた。
だが誰かを自分よりも愛しく思える気持ちが薄れていくのを止められない。
環境が満たされていることがこんなにも無意味で、退屈で、つまらないものだとは知らなかった。
『欲することが無くなったら人間は終わりだ。それが食欲だろうと性欲だろうと欲は無条件に生きる意味をくれる。それを見失うな。この世界に生きることを選んだなら、なおさらだぞ! いつも自分をギリギリの場所に置け。ぬるま湯には浸かるな』
現場から離れた本間と飲みに行くと必ずそう説教された。
あれはこういうことだったのだろうか? と今にしてそう感じる。
何もかもがうまくいかない。
そういう情況に陥った今、本間が告げた言葉の意味が体中に染み渡るように痺れてくる。
これで何度目だろうか?
自分の不甲斐なさに落ち込みつつも気分は妻と一緒にいる時より、名前も思い出せないような女を抱いている時より、ずっと心地よく生きていることを実感できる。
この興奮をいつも自分に導いてくれるのは、誰よりも先を知っている本間なのだ。
一史は本間と出会わせてくれた自分の運命に感謝しながら、貴明に教えられた公園に足を踏み入れた。
そこでまたしても、本間が導いてくれた一史にとってかけがえのない存在になる人物が待っていることも知らずに、彼はゆっくりと近付いていた。
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