10話「イトシクテ」:叶恵side
今日の先輩はよく話すし、機嫌がすごくいい。
隣で見ているだけで、胸がキュンキュンしてしまう。
真正面から見る、普段のクールな先輩とは違い、今の先輩はとても可愛くて仕方がない。
特に、絵に関する話はすごく楽しそうな表情を浮かべる。その顔をみると、叶恵まで笑みが溢れてしまう。
「あ、この光の感じ……結構好きです。この色で空を塗りたいな……」
「……そうなんだ」
だけど、色味の話をするときだけ先輩はあまり意見を言わない。「そうなんだ」とか「ふーん」とかそんな感じ。話が盛り上がっていたせいもあって、その反応に対してすぐには切り返しがいかず、うまく話せないこともあった。それでも、必死に先輩とお話しを続ける。どんなことを話したら先輩が笑ってくれるか、それを必死に模索する。
「見てください先輩。これ可愛くないですか?」
「……可愛くない」
「え?」
一通り見終わった後、先輩と一緒にお見上げコーナーを見て回る。ぬいぐるみだったり、魚の被り物だったり。
正直、ぬいぐるみ抱きしめたり被り物被っている先輩すっごく可愛くて、写真取りたかった。けど……すぐに先輩に気づかれて止められる。残念すぎる。
「はぁ、堪能しましたね」
「そうね」
結局、叶恵はクマノミのぬいぐるみを。先輩はサメのぬいぐるみを購入した。先輩に購入理由を聞くと、少しだけ恥ずかしそうに「抱き心地がよかった」と言われたときは尊すぎて死にそうになった。写真と録音をしたかった。
「この後どうしよっか」
「……え」
思わず驚きの声を上げてしまった。てっきり、用事はすんだから「帰る」と言われるかと思っていたから。まだ、一緒にいてくれるんだと思うと嬉しくて口元が緩んでしまう。
「何、その表情……別にこのまま帰ってもいいのだけれど」
「あ、いや!嫌です!まだ先輩といたいです!」
「それじゃあ、この後の予定は海崎さんが考えてね」
ふと、その時につい衝動的に思ったことを口にしてしまった。
少しだけ前を歩く背中に向かって、叶恵は子供じみたわがままを言った。
「苗字じゃなくて、名前で読んでください!」
胸がぎゅっと苦しくなった。
少しだけ目を見開いて振り返る先輩。きっと今、すごい顔してるだろうけど、そんなこと気にしてる場合じゃなかった。
強引な関係だったとしても、ほかの人よりは先輩と仲良し。だけどいまだにほかの子と同じように苗字で呼ばれるのは嫌だった。先輩に、名前で呼ばれたかった。
「んー……」
顎に手を添え、少しだけ空を見上げて考えるそぶりを見せる。そして、クスリと笑みを浮かべる。それはいじわるする子供のような表情だった。
「どうしよっかなぁ」
だけど、それがひどく綺麗で思わず惚けてしまう。
あぁまた胸の奥がぎゅっとする。それはさっきのとはまた違うもので、言葉で表すならたった一言。
(あぁ、愛おしい……)
先輩に触れたい。先輩を抱きしめたい。思いっきり甘やかしたい。そんな感情が溢れ出そうになる。それぐらい先輩のことが愛おしくて愛おしくてたまらない。
「い、いじわるしないでください」
「ふふっ、名前呼びは考えてあげる。それよりも、早く次の場所決めて」
あえて言わないあたり先輩だなって思うけど、こればっかりは呼ぶ呼ばないをすぐに決めて欲しかった。
だから、言い出しっぺから実践するべきだと結論ずけた。
「わかりました。”夢乃”先輩」
笑い、先輩の隣に駆け寄りながらそう言った。見上げたそこには目を丸くする線お会いの姿があった。あ、その表情好きだな。
ちょっとした悪戯が成功したように、意地悪な笑みが浮かべる。
だけど、勢いよく先輩の片手が叶恵の下にきてほっぺたを挟んできた。
「おぶっ!」
「誰が名前で呼んでいいって?」
「だっれ、ぜんばいがよんでぐれだいがら」
ほっぺた挟まれてうまく喋れなかったけど伝わったようで、ため息をつきながら先輩の手が離れる。もう少しされていたかったなぁ……
「もういいから、早く行くとこ決めて。”叶恵”」
「あ、はい。えっと……ん?」
すぐにスマホで調べようとしたけど、一拍遅れて気づいた。今、先輩名前で呼んだ?呼んだよね。いや、間違えなく呼んだ!」
「せ、先輩今……」
「早くしないと帰るよ」
「わああああ!決めます決めます!すぐに探して決めます。その前にもう一回!もう一回名前で呼んで下さい!」
「やーだ」
その後、先輩が叶恵のことを名前で呼ぶことはなかった。貴重な一回をしっかりと聞けなかったのと、録音できなかったのは本当に残念だった。
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