9話「遠くなる光。消える音」:夢乃side

まだ胸がドキドキして、なんとも言えない感情に襲われる。

昨日海崎さんが私を庇ってくれた。

それは、確かに善意ではあった。私を思ってのことだった。だけど、それとは少し違う感じだった。

自然と、彼女の本能が私を守ろうとしてくれた、そんな感じだった。

彼女はあの時のことを全く覚えていないと言っていた。それが嘘か本当かはわからない。でも、あの子は嘘がつけないから本当に覚えていないんだろう。


「汚い手で先輩に触らないでください」


私の前に出て、男の手を払った海崎さんの口から溢れた言葉は、今まで聞いたことがないほどの低い声。その声からは男に対する嫌悪が感じられた。


「な、なんだお前は!邪魔をするな!」

「邪魔って……貴方こそなんなんですか。いい大人がこんな事して恥ずかしくないんですか?」


その時はとにかくもやめてと思った。相手に言わせたいように言わせておけばそれで済んだ。これだけ騒ぎになれば、きっと誰かが警備員さんを呼んできてくれるはず。それまで我慢すればいいはずだったのに。


「う、海崎、さ……」

「あぁそうですか……貴方たちですか……先輩が絵をかけなくなった原因は」


ゆっくりと、もうやめて。大丈夫だからという意味を込めて彼女に手を伸ばそうとした。だけど、その行動は彼女の発言でピタリと止まる。


「貴方たちが、大人が!純粋に絵を楽しむ先輩を汚したから!まだ子供だから?そうですよ。先輩はまだ子供です。そんな子供に汚い大人が期待して、描きたくないもの描かせて!それで先輩を苦しめた!」


よみがえるのは過去の記憶。私の視界に広がっていた世界から、ドロドロと色がこぼれ落ちていく光景。

そう、大人たちの期待が酷く苦しくて、耐えきれなくなって、気がついたら描くのが苦痛に感じ始めた。

何の為に私は絵を描いているのか。こんな汚い大人たちの懐を潤す為に私は絵を描いているわけじゃない。

駄作を褒められて、この人たちには伝わらない。この人たちが見てるのは私の絵じゃない。それがわかった途端に、ふと、思った。「描きたくない」。そう呟いた瞬間に、まるで神様がその願いをいびつな形で叶えたかのように、私の世界から色を溶かしてしまった。

溢れていく色を救おうとしても、指の隙間からこぼれていき、気付いた時にはまるで自分の心を映すかのように酷く冷たいモノクロの世界が広がっていた。


「叶恵は絵のことはわかりません。でも、大人になってプロになったら描きたくないものも描かないといけなくなるかもしれません。それでも、先輩はまだ子供です。自由に描く権利はまだあるはずです!」


そう、私はただ自由に絵を描きたかった。自由に描いた絵を褒められるのが嬉しかった。お金のことなんて一度も考えたことなんてなかった。ただ、好きだから。大好きだから……自分の想像したものが、感じたものが形になるのが楽しかっただけ。


「これ以上、汚い大人(あなたたち)が先輩を汚さないでください!先輩を、鳥籠の中の鳥にしないで!」


泣きそうになった。胸の奥からジワリと熱が込み上がってきたのを感じた。

そのまま彼女の背中にすがって泣きわめきたかった。

だってこの子は、たった短い期間しか一緒にいなかったのに、私のことをわかってくれていたのだから。


「わかったようなことを……お前のような小娘に、彼女の価値などわかってたまるか」

「貴方こそ先輩の何を知ってるっていうんですか!価値なんてわからない。でも、先輩の絵の素晴らしさはわかってます!」


この二人は、私の絵に魅入られた人たち。だけど、一人はそれをお金に変えようとした。一人はそれに世界を変えられた。

私は後者の方が酷く嬉しいな……


「なっ、なんだ!離さんか!!」


それからしばらくして、警備員が来て男は捕まり、我に帰った海崎さんが酷く戸惑っていた。

世界を変えられたからと、強引に私に絵を描かせようとする一つ下の女の子。反応はすごく素直で、嘘もつけない。思ったことがすぐに顔や行動に出てしまう。多分それが、私にとって大事なことなんだと思う。

色のない私の世界で唯一色を持つ女の子。

私の、特別な子……





「先輩、お待たせしました!!」


そんな、昨日のことを思い出していれば、元気な声が聞こえる。

約束していた場所と時間。その15分前に到着していた私の、さらに10分後。予定の五分前に来た海崎さん。


「別に待ってない。予定時間よりもお互い早いし。って、聞いてる?」


だけど彼女、何だか口元を覆って目をキラキラと輝かせている。

視線はじっと私の方。何か変かな?


「私服の先輩なんて超激レア!しゃ、写真とっていいですか!」

「……撮影NGです」

「そんなぁ……せめて一枚だけ!」

「だーめ。ほら、休みなんだから早くいかないと混むよ」

「うぅ……はぁーい……」


あからさまに落ち込んだ表情をする海崎さん。それが可愛くてクスリと笑ってしまう。だけど、すぐに我に帰っていつも通りの表情に戻る。

昨日のことがあってから、少しだけ感情が緩んでいる気がする。ダメだ。いつも通りにしないと。

水族館は、オープンしてまだ時間が経っていなかったから、案外人の数は少なかった。

一つ一つ、海崎さんと一緒にぼんやりと水槽を眺める。隣では、彼女がかなりハイテンション。それを見てると、一つ下とは思えないほど幼く感じる。

私は、なんとなく水槽を眺めていたけど、たまにアジとかスズキとか、一般的に食卓に並ぶような魚が目に入ると、調理後の姿を想像してしまった。


「少し休憩しようか」

「ですね。いっぱい歩きましたしね」


水族館の一番の目玉である天井まで伸びる大きな水槽。その場所には休憩スポットとして長椅子がいくつか置かれていた。二人並んで椅子に座り、大きな水槽を見上げる。

小魚はもちろんだけど、大型のサメが数匹泳いでる水槽は、随分と感情そうに見える。だからだろうか、なんとなくこんなことを想像してしまう。


「ガラスが割れたら大変なことになりますね」


海崎さんも同じことを考えていたらしく、それを口にする。

私はそれを悟られないように、いつもの口調でその言葉に同意した。


「そうね。水圧でまず死ぬ可能性があるし、生き延びても窒息死するかも。はたまた、魚に食べられて死ぬ」

「あ……そこまでは考えてないです」


彼女の少しだけ怯えた表情を見て、すぐに「冗談」と言ってまた水槽を見上げる。

広く大きな水槽は、まるで自分が海の中にいるかのように錯覚させられる。だからなのか、さっきみたいにふと、昔考えたことを口にした。


「死ぬなら、水死がいいなって考えたことがある」

「え!その話まだ続けるんですか」

「違うよ。別の話」


ずっと前。それこそ、まだ絵を楽しく描いていた頃だった。

テレビでたまたま、深海の魚の調査の映像が流れた。海に投下されたカメラがゆっくりと海の中に沈んでいく。最初は、少しだけ騒がしくて光も差し込んでいたけど、徐々に音も光もなくなり始める。その時に思った。「気持ち良さそうだな」と。


「私、部屋を真っ暗にして耳栓しないと気持ちよく眠れないの。その時が酷く気持ちが落ち着いて、体がリラックスしてね」


それに、一度学校のプールで経験したことがあった。プールの中に沈んで行く感覚。あれはとても気持ちよかった。


「それに、水死体って外傷なく死ねるから綺麗なまま死ねるでしょ?せっかくなら、綺麗なまま、綺麗な死に方をしたいって思ったの」


それを一度絵にしたことがあった。キャンパスの半分は魚が賑わって、光が差し込む明るい場所。だけど下半分は暗い深海。そして沈む女の子。確か……


「【遠くなる光。消える音】はその感性から描かれたものなんですね」

「……あぁ、やっぱり知ってたか」


一通り私の作品を知っているこの子ならもしかしてって思ったけど、案の定本当に知っていた。まぁ、これもコンテストに出した作品だから知ってるか。


「うん。描き終わった後は、絵に感情がのっていたからか、随分気持ちよく眠れたよ」


あまりにぐっすり寝てしまって、気づいたら3時のおやつの時間帯。その日が休みで本当に良かったと当時は思ったものだった。


「ちなみになんですが、私が初めて出会った作品【クラゲ】はどう言った感じで描いたんですか?」


きっと彼女は、何気なく聞いてきたんだと思う。別に話す分には構わない。だけどあの絵は、昨日の出来事に直結するからあまりいい気分ではなかった。


「絵を描きたくないって思ってた頃に抱いていた感情を形にしたの」

「何となく伝わりました。だけど、どうしてタイトルを【クラゲ】にしたんですか?」

「……クラゲは、漢字にすると海に月って書くの。だから、あえて生き物の方じゃなくて漢字にした時の文字から絵を形作ったの?」


もうあの絵の色を見ることはできないけど、その時抱いていた苦しみを海と空に移し、いつかきっとまた絵が描けるようになるかもしれないという淡い期待を月光が強い月を描いた。


「タイトルはあえて絵を結び付かないようにしたの。あの絵、最終的には真正面にしたけど、最初はどこに置くか迷ったのよ」


どんな感情を抱いても、描きたいという欲求は溢れてくる。感情を絵に形作ったり、絵の具に乗せる中でも、私はしっかりと自分の表現したいものを描いた。


「ふふっ」


そんな昔の、思い出したくもない時のことを考えていると、隣で海崎さんがクスリと笑みをこぼした。

突然笑われたので、自然と視線が彼女に向く。


「あ、すみません。おかしくて笑ったわけじゃないんです」

「じゃあなんで笑ったの?」

「……先輩があまりにも、無邪気にお話しされるから可愛くてつい」


一瞬何を言われたかわからなかったけど、言葉の意味を理解した途端に顔が熱くなるのを感じた。

つい夢中で話してしまった。あれだけ描くのを嫌がっていたのに、自分から絵の話をして、それを広げてしまった。


「そ、そろそろ次行くよ。もう十分休んだでしょ」

「ふふっ、はぁーい」

「何笑ってんの。むかつく」

「だって先輩可愛いんですもん」

「……次言ったら帰る」

「あー!!ごめんなさいごめんなさい!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る