第2話

 柔らかい枕の感触と甘い香りに目が覚める。冷房をつけたまま寝たからか身体が固まっている気がする。充電の無くなりそうなスマホを見ると、時刻は6時半。


 隣には見慣れない茶髪のよく知った顔。


 こういう時どういう反応をするのが正解なんだろう。

 固めのシーツを捲ると肌色が視界を覆う。


「やっちまった……っていうのはなしだな」


 お酒が入っていたとはいえ記憶はしっかりある。細い腰へ沈む指に嬌声、自分と相手が溶け合ってどちらのものか分からなくなった身体。


 すぴーすぴーと寝息を立てている千桜さんを見る。こんなあどけない表情をするのもずるいところだよな。

 彼女の乱れた髪をひと撫でして俺はベッドから立ち上がった。


 手早く袖に腕を通す、これからどうしようか。後悔が少しもないわけではない。なにが「一度交わった線は二度は交わらない」だ。交わるどころの話じゃないだろ。


 普段は澄ました顔しているくせに夜はだらしない顔をして……ってこれ以上はやめておこう。


「あ、陽くん。おはよ」


 掠れた甘い声、背中が粟立つのを感じる。


「おはようございます、千桜さん」


「ほら、こっち」


 ばふばふと布団を叩く彼女に呼ばれるがまま顔の近くに腰掛ける。

 ベッドと同じように沈んだ身体のせいで、さっきまでは隠れていた上半身が露になる。


「えっち」


 開いているか閉じているかわからないような目をしぱしぱさせて、彼女のじとっとした視線が俺を刺す。


「今更何言ってんですか」


「そうだよね、今更だよね?」


 伸びてくる白い手に自分の手が捕獲される。もっちもっちと一通り遊ぶと、そのまま細くて長い指が絡んできた。


「昨日はあんなに『しぐれ』って呼んでくれてたのにな〜」


 揶揄うような声に脳が溶けそうだ。


「あれは夜だったので」


「夜だったからか。じゃあまた会う時は夜がいいな」


 ちろっと覗いた赤い舌に視線が釘付けになる。


「もう1回?」


「……しませんよ」


 そのまま腕を引っ張られて布団へ倒れ込む。強くなった香りに布団とはまた違った柔らかな感触に肌がひりつく。


「戻れなくなるからやめましょう」


「そんなことない、いつだって戻れるんだよ私たちは」


 やけに強い口調で彼女は囁く。土曜日の朝は刹那的で、そして寂しい。


「千桜さん」


 彼女の頬に手を当てて諭すように口を開く。


「俺たちは大学の先輩と後輩で、卒業と同時に疎遠になって、昨日偶然電車で会った。そうですよね?」


 楽しかった思い出は楽しいままに、心の中の大切な箱にしまっておきたいのだ。


「うん、そうだね、更科くん・・・・


 彼女は俺の言いたいことを理解してくれたみたいだ。

 千桜さんは頬に添えられた俺の手を掴むと、下へと引っ張った。当然顔と顔の距離は近くなる。

 指先が淡く小さな熱に押し返される。


 昨日は電気を消していたからしっかりとは見えなかった頬に、どこかの夜を借りてきたかのような星を散らした瞳、細い鼻筋、朝にしては刺激が強すぎる。


「わかってます?ほんとに」


「わかってるって」


 抵抗しない俺も悪いか。


「じゃあこれだけ」


 きゅっと抱きしめられて首筋に落ちる唇。水分を含んだ肌は、冷房の風をやけに生々しく伝える。

 これで終わり、それでいいはず。


 大きく揺さぶられた感情は次の瞬間には何事もなかったように、最初からそこには暗闇しかなかったかのように。

 これから押し寄せてくるであろう後悔や寂寞が彼女と離れた後に心を埋め尽くすのも、まるでまだ時期の早い花火みたいで。


 直後、くぅと可愛らしい音が彼女から聞こえる。ちらりと視線を向けると、頬を赤らめた千桜さんと目が合う。


「やだ」


「仕方ないですよ、昨日夜あんま食べてないじゃないですか」


「どこかのいじわるな後輩君がすぐにホテルに連れ込むから」


「記憶にないですね……泥酔しかけた先輩を介抱してただけなんですけど」


 彼女は身体を起こす。

 昔みたいには靡かない髪も、今の千桜さんには似合ってて。


「じゃ、朝ごはんでも食べますか!」


 ブラウスのボタンを留めながら彼女は笑顔を作った。


◆◇◆


 早朝から開いているカフェから出たのは8時過ぎ。駅には人もまばらで、休日だということを自覚させられる。

 どうして俺はここに今スーツで立ってるんだ。


 偶然、学生時代の先輩に会っただけ。

 そう言い聞かせながら少しずつ歩みを進める。


「俺こっちなんで……朝ごはんご馳走様でした」


 改札へと続くエスカレーターを上りきったところで彼女へ挨拶する。


「いえいえ、これでも先輩だからね」


 口の端を上げて、彼女は組んでいた俺の腕を離した。もう会うこともないだろう。

 付き合っていたのはたったの1年、それ以降今日までの数年は俺の知るところではない。


 それがどこか悔しくて……これが寂しさだとでもいうのだろうか。


「また会える?」


 そんな俺の気持ちを千桜さんは一言で砕く。


「……偶然に偶然が重ねれば」


 どこまでも及び腰な俺は弱い。


「ストーカーになっちゃうじゃない、私が」


 まだ、というか「また」関係を始めようとしてくれているのは嬉しい限りだが。

 千桜さんと別れた後、他にも付き合った人はいるのだ。しかし長くは続かなかった。理由は多々あるが、大元は千桜さんとどこかで比べてしまっていたのだろう。


「じゃあさ、次もし偶然会えた時は」


「えぇ」


「連絡先、もらうからね」


 まったく、掴みどころのない人だ。


「その時は素直に渡しますよ」


「それじゃあまたね・・・


 軽く呟いて彼女は改札の奥へ消えていった。あの頃いつも見ていた後ろ姿と変わらない、凛とした歩き方にどくっと心臓が跳ねる。


 今朝、彼女に付けられた首筋の痣に触れる。


 なんの面白みもない毎日に一筋の希望が差すように煌々と、今まで平然と積み上げてきたブロックを一発で破壊するかのように衝動的な出会いは、俺の足取りを軽くするには十分だった。

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