ep.18 姫を蝕む呪い
数日後。風切り音がこだまする古城の庭園にて――。
その朝の屋上庭園からは非常に珍しいものが見えた。――雲海である。モンターニャ・デラーゴの外に広がる田園地帯が輪郭のない薄雲に覆われているのだ。
そして見渡す限りの白い海を駆け巡る木枯らしの大波――。その一端がこの庭園にも舞い込み、花壇に生い茂る植栽をざわつかせる。天に抜きん出た古城からはこの土地に吹き荒ぶ朝風を一身にまとうことができた。下の世界を知らないこの庭の木々たちはきっと風模様から季節の移ろいを感じるのであろう。
厳しく冷え込んだ庭園の片隅――、ひっそりと佇む慰霊碑の前に外套の若紳士が立っている。彼は北風に前髪を揺らしながら石碑の足元を硬い顔で見守っていた。
――そこに飾られていたのは、刀身にオーロラ色の炎が揺らめく黄金の直刀剣。
緑白色をした不思議な火の光が、厚手のコートを着込んだ若紳士の寂しげな面持ちをぼんやりと照らし出した。ふと彼は氷のように冷たくなった台座の前に跪き、穏やかな面持ちでそっと手を合わせる。
それから――、しばらく。渦巻く風にコートの裾を棚引かせながら、彼は高い鼻を薄灰色の曇天に差し向けた。
「……」
冷たい風の音に耳を傾けたのち、百瀬は長い睫毛を下に伏せて静かに立ち上がる。彼が再び塀の隙間から眼下の景色に視線をやると、雲海を突っ切って真っ直ぐこちらに近づいてくる影が見えた。――鴉だ。
数十秒後、巨大な体躯の大怪鳥が静かな羽音とともに庭の上空へ飛翔した。8羽のゴーレムが緻密に連結し、まるでひとつの生物であるかのように動いている。――ゆるゆると高度を落とすゴーレムに頷き返すと、百瀬は慰霊碑に向けて小さく会釈した。
床すれすれで滞空していた大鴉は、若紳士を背中に飛び乗せるや否や翼を強くはためかせる。ふわりと庭園を飛び出た鳥影はそのまま雲海を東に向かって滑り降りていった。
――しばらくして霧がかった視界のなかに見え始めたのは謎の遺跡建築である。
「入り口まで頼む」『カァ』
背中に乗る主人の指差す方向へ忠実に滑空していく大鴉。高度が10メートルほどまで下がったところで百瀬は早々に着地の姿勢を取り始める。鴉の猛々しい爪が遺跡の入り口に着地するや否や、すぐさま若紳士は砂まみれの石床へ飛び降りた。革靴の底から舞い昇る砂埃――。彼の眼前に広がるのは古代遺跡を転用した街の処刑場であった。
入り口に立っていた秘密結社の門番たちは、白もやの天空から舞い降りてきた外套の男が何者かすぐ分かったらしい。彼らのひとりが百瀬に会釈を返し、遺跡の中へと導き入れた。――ふたり並んで寒気に唇を縛りながら遺跡通路を進むこと、数分ほど。
「……ここです」
そう言って門番が通路奥の鉄扉を開けた先には、6坪ほどの密閉された石室が見えた。篝火で照らされる中央には巨石を削り出して作られた粗雑な台がひとつ。その上に全身を汚れた包帯で巻かれた小柄な影がぞんざいに乗せられている。
「もう処刑は行われたのですか」
「いいえ、まだ生きています」
門番の前を通って石室へ足を踏み入れた若紳士は、石卓の側まで歩み寄ると口をへの字にして台の上の人間を見つめた。
針金で手足を厳重に縛られた受刑者――。室温は低く、石机の表面も氷嚢のようになっているはずだ。線の細い身体で体温を奪われるのは相当な苦痛を伴うに違いない。
――だが包帯に覆われた乙女の四肢はすでに死んだように微動だにしなかった。棺の中を覗き込んだような気分になり、来訪者は密かに唇の端を引き絞る。
「しばらくふたりきりにしてもらえますか」
反響した声がいやに耳へ残った。扉の前に控えていた門番は硬い面持ちで頷くと、すぐさま身を翻して通路の闇へ消えていく。遠ざかる足音を耳に聞きながら、百瀬は虹色の髪をかきあげて薄暗い石牢の床を闊歩し始めた。――そして低い声でこう切り出す。
「犯罪者の末路はいずれも悲惨だ」
「煽り文句を垂れにわざわざいらしたのかしら?」
「話し相手がいなくてはさぞ退屈だと思いましてね、
彼女の鼻笑いを経て、不意に無言となる石室――。巨大な蜘蛛の巣の前を若紳士が通り過ぎたとき、冷蔵庫のような空間にどこからか澄んだ水音が響き渡った。
「私でよければ、数分ばかり貴方が抱いていた夢の聞き手になりましょう」
「誰かの夢を奪った者の夢を聞くほど、貴方が寛容だとは思いもしませんでしたわ。でも、わたくしの目的は盗み聞きしていたのではなくて?」
「アリナナに話していたものはおそらく貴方の本懐ではない。なぜなら貴方の使命は『人らしく生きること』だから。――しかしそれは同時に貴方が人魚に手を貸す道理はないということでもある。貴方の本心が分からなかったのです」
足元の悪い薄闇を絶えず歩き回る来訪者。彼よりむしろ俎上の死刑囚の方がいくぶん態度が落ち着いていた。彼女は汚れた布で覆われた口元を音もなくほころばせる。
「果たして貴方が気になっているのは本当にわたくしのことなのかしら」
「どういう意味です」
「人らしく生きる――。きっと貴方の側にもそれに固執している人間がいて、わたくしの言葉からその者の心を占おうとしているのでは?」
いつの間にか足を止めていた若紳士。彼が口をつぐんで処刑台の方を窺ったところ、包帯越しに人魚姫が訳知り顔をしているのが分かった。答えに詰まった百瀬はコートのよれを手繰り寄せ、強張った顔で喉仏を上下させる。――そして深く息をついた。
「……彼女はやはり」
「つくづく素直な男ですわね。でも、わたくしの答え合わせが必要? もう貴方の心の中には答えはあるのではなくて?」
「……」
「まぁ、貴方の真意がそういうことなら、分かりましたわ。わたくしの夢をお伝えしましょう。貴方が伴侶の心を受け入れられるように」
壁際に置かれていた拷問用の石桶を見つめて彼が黙り込むなか、令嬢は苦痛を塗り潰すかのように鮮やかな声色でフンと笑ってみせる。
「わたくしの夢は、この身体に植えられた呪いを解くこと――。創造主たる人魚によって与えられた使命から解放され、自由を手にすること。そう、それがわたくしの夢」
「それなら何故、人魚と関わろうとするのです」
「わたくしの運命を縛っている張本人ですもの、彼女たちは」
暗い牢屋の中でアーモンド型の目が見開かれる。彼は石桶から処刑台を振り返った。
「まさか」
「そのまさかですわ。彼女たちを説き伏せ、この呪いを解除させる。そして新たな呪いを与えられぬよう、燃やし尽くす。そのためにわたくしは彼女たちに近づいた」
「呪い……」
若紳士の見つめる先――、冷たい石机の上で小さく喉を鳴らす令嬢。
「それは共感などできないでしょうね。貴方は伴侶の心も汲めない男なのだから。けれど理解はできるでしょう? ゴーレムは使命から逃れられない。それに例外などない。わたくしもまた与えられた使命に固執している。そう、クリスのように」
しばし呆気に取られたのち、百瀬は眉を顰めて鋭い視線を作った。
「……だとして、そのささやかな野心もここまでですね」
「ええ。貴方のせいですべて台無し。でも――、死なば諸共ですわ」
「どういう意味でしょうか」
「実は、ここに入れられる前に色々と準備を進めておりましたの。幹部のひとりにすべて吹き込ませていただきましたわ。貴方が奥さんの正体を隠匿しておられること」
石の牢屋に一瞬の沈黙が生まれる。
「今の円卓に残った幹部たちがそんな与太話を信じるとは思えませんが」
「それはどうかしら。貴方もご存知でしょう? 幹部のなかに人魚殺しの妄執を持つ人間がいるのを」
石床の砂利を踏み躙り――、百瀬は石室のカビ臭い冷気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「……幹部の椅子は貴方を殺すために与えられたものです。惜しくはありません」
「つくづく自分勝手な男ですわね。もう伴侶のことをお忘れになって?」
「……」
「貴方もわたくしも、同類なのかもしれませんわね。同じように、あの子の疫病神」
彼女がそう呟いたのち、薄暗い拷問部屋は再び無音となる。人魚姫は一転して締められた魚のようになり、若紳士もその場で直立したまま一向に動き出さなかった。
――あるときそこへ入り口の鉄扉を開く者がひとり。遺跡通路から姿を覗かせたのはベージュのセットアップを着た青年だ。
「……」
背の高い影は松明片手に扉の前で足を止め、しんと冷えた石室の薄闇に眠たげな目つきを向ける。――百瀬は頑なに彼と視線を合わせなかった。
「……シラユキくん。さっきの話は聞いていた?」
「大体のところは。残念だがレムニスカの言っていることは事実だ。円卓の周辺はもう騒がしくなってる。円卓が人魚狩りに動き出したばかりだってこともあって、間が悪い」
「君も私を捕まえにきたのかい?」
シラユキの不敵な笑みを覗き見て首筋を押さえた百瀬。同僚はポケットに手を突っ込んで踵を返しただけだった。くすくす笑うミイラを尻目に若紳士は彼の後を追う。
薄暗く冷え込んだ通路を歩きながら、百瀬は先を歩く細長い背中を覗き見た。
「……黙っていて悪かった」
「どうやってクリスの正体に気づいたの?」
「あの子の結婚に対するこだわりには前から違和感を持っていたんだ」
「そうか。本人に確かめたわけではないと。でも、もし噂話が事実だとしたら、クリスを救う言い訳は思いつかないな。今の円卓が結社の中に紛れ込んでいた人魚を見逃すとは考えられない。そのことを知ってて黙ってた兄さんも無事では済まないだろう」
いっしゅん背後を振り返った美青年は、相変わらず眠たげな目つきのままだった。
「円卓が崩れるね。残った人間でどこまでやれるか」
「……すまないな」
「なってしまったものは仕方ないさ。ここからは僕がなんとかしよう。レムニスカの処刑は何とか押し切るとして、ひとまず兄さんにもしばらく姿をくらましてもらおうか」
遺跡通路を闊歩するスーツの男たちはどちらも目元に暗い影を宿している。一定周期で革靴の音を響かせながら、百瀬は壁に刻まれた文字から青年の後頭部に視線を移した。
「もうひとつ、わがままを聞いてもらっていいか」
「ん?」
「クリスのこともうまく守ってやってほしい」
凍える廊下を松明片手にしばし無言で歩き続けたのち、彼は後ろを振り返りもせず肩をすくめてみせる。
「先に自分の心配をした方がいいんじゃないの」
「君の差配を信用している」
シラユキは鼻で笑ってそれに返した。――この街の住人は須く粗略だ、百瀬はただ彼の背へ黙ってついていくしかない。青年の羽織るジャケットに霜の結晶がついているのを見つけたが、ずんずん大股で歩く彼にそれを言い出す隙はなかった。
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