ep.17 空契約
1週間後の早朝。崖上の古城、地下4階にて――。海底のような古代劇場に秘密結社の幹部ふたりが訪れていた。
外套を着た男たちは双方ともに険しい表情である。若紳士の先導で客席の間を進みながら、黒人の壮年は劇場跡地のただならぬ様相に目を光らせていた。崩れ落ちたプロセニアムアーチ、剥がれて黒ずんだカーペット。――そして客席で朽ち果てた数多の人形たち。
膨大な数の死骸で埋め尽くされた客席通路を進み、やがて彼らは幅20メートルの主舞台に辿り着いた。
「まさか城の地下がこのようになっていたとは」
ステージに上るとその場で振り返り、彼らはただっ広い地下劇場を俯瞰する。若紳士がやるせない顔で腐った木床を軋ませる傍ら、議長はあくまで冷静な面持ちを保っていた。
「いずれのゴーレムも元は人か」
「ええ。すべてを確かめられたわけではありませんが」
「今さら身元を調べても……この末路ではな」
「そもそもいつの時代の人物であったかという話になるでしょう」
崩れかけた天井画を見上げていた百瀬は埃っぽい空気にそっと目を細める。
「――そうか。そうだな。今回の犯罪者が時を超える怪物であるのを失念していた」
「祭司が聞けば小言を言われますよ」
「今となっては彼も立つ瀬がないだろう」
「皮肉な話です。今も生きていなければ彼女らは尊崇すべき伝説だったというのに」
百瀬よりもさらに背の高い黒人は鼻で笑ってそれに返し、穴を避けながら変色した木床を歩いていった。やがて主舞台の端で彼は立ち止まり、黒ずんだ袖幕の裾に落ちていた紙切れをぺらりとめくり取る。――まだ真新しい契約書であった。
「困ったことに、化け物であっても魅入られる人間は一定数いるようだ」
「少なくとも我々の円卓からは彼女らの魔手を払い除けねばなりません」
神妙な顔をした壮年が視線もよこさず頷いたその時である――、ふと百瀬は口をつぐんだ。客席奥の扉が開くのが見えたからだ。
女性ものの修道服――。のっぽの男ふたりが物々しく佇むステージへ真っ直ぐ歩いてくるのは、彼らと比べて二回りほど小柄な白人娘であった。客席へ広がる人形の亡骸に彼女は何の反応も示さない。ただ小高い足音を立ててボロボロの客席通路を進むのみ。
百瀬が呆れたような声色でため息を浮かべる傍ら、黒人幹部は後ろで束ねた銀髪を時おり揺らしながら、口をつぐんで契約書に鋭い視線を落としたままであった。――だが歯を食いしばった令嬢が間近に近づいてきたところで、いよいよその薄い唇を開く。
「いま私の手元にあるのは貴公と人魚の取引を示唆する契約書だ。取引額はかなりの巨額で、ざっと見ただけでも組織がプールしていた現金の3割を食っている」
「何のことやら」
「そうか、存ぜぬか。だが惚けても遅い。午後にはここへ人を派遣する。異議があれば円卓で抗弁すればよい。身に覚えがあればそれまでに身の回りの処分を進めることだ」
自分のことを見つめる小娘に議長は一切の視線をこぼさなかった。氷のような面持ちで契約書をくるりと丸めたのち、百瀬に一礼して客席通路を出口まで進んでいく。
いっぽうレムニスカはステージ下から百瀬を睨み上げ、薄い肩をぐいと怒らせた。
「貴方が告げ口しましたのね」
「ご心配なさらずとも致命傷となる部分は伏せていますよ。今はね」
ひとつ空いた客席に脱力して座り込み、長い睫毛をゆっくりと閉じた令嬢――。百瀬は彼女の周りに広がる人形の死骸へ視線を撒いた。
「その子たちのことはご存知なんですよね」
「広い世界を夢見ながら、暗い海の中で死んでいった海月たち」
「貴方の姉妹たちですか?」
「……」
「すべてが明るみに出たあと、またお伺いしましょう。貴方の真意を」
「……破廉恥な男」
一連の応酬を失笑で締め括った若紳士は、カーテンで隠された闇の中に消えていった。小一時間して彼が姿を現したのは夜明け直後の下町である。
――外の空気は秋の名残も感じさせないほどに冷え込んでいる。裸の樹木が木枯らしに揺さぶられ、丘の外に広がる山脈もすっかり冬支度をしていた。
青紫色に染まった街を歩きながら、百瀬は黎明の大空を戦闘機の隊列が過ぎていくのを見る。この時間帯では住宅街も人の影がなく、騒々しい風切り音はことさら耳についた。
そんななか長い足がすたすたと向かうのは下町の商店ストリート。冬暁の凍える空気に響く足音は、ボロ煉瓦の裏通りを通って古民家の前で立ち止まった。
冬コートの紳士は薄暗い庭園を抜けて家屋のポーチへと向かっていく。玄関前に立つと一呼吸入れ、張り詰めた表情になって緑ペンキの木扉を押し開けた。
――奥から漏れてくる暖かい空気。百瀬はドアベルの音を潜って小ぢんまりした錬金工房へと足を踏み入れた。
中の様子はいつも通りだ。奥の鉄椅子に紅甲冑が置物のように腰掛け、工房の主は錬金炉前のロッキングチェアを寄せて腰掛けている。
外套を脱ぎながら彼が錬金炉の方を覗いてみたところ、淑女は頭を左に傾けて椅子の上で寝息を立てていた。手もとにあったのは棒針と子供用のセーター。どうやら編み物をしていたらしい。
「……まだ6時か」
眠る淑女から視線を逸らし、百瀬は脱いだコートを木椅子の背もたれに引っ掛けた。手持ち無沙汰に棒立ちで過ごすこと、しばらく。ふと机の上に視線を転がす。
――机の端に飾られていたペンデュラムが小さく揺れていた。上空に飛ぶ戦闘機が引き起こす揺れだ。
「……」
ふるふる震える振り子を見つめていた百瀬は、工房奥で沈黙していた
『オルフゥ』
獣戦士の騎士像は主人に曖昧な表情を返し、錬金炉の温かい炎へその瞳を落とす。
「どうしたんだ」
暖炉の光を受けて淡く輝く西洋鎧――。大柄な怪物はその場でゆらりと反転し、工房の奥へ向き直った。錬金炉から火の音が響く静寂の工房に、鉄靴の足音が鋭く反響する。
そんななか揺り椅子の方へ視線を戻した百瀬。――眠る淑女の肩は依然として浅瀬に浮かぶヨットのように揺れている。彼女がすぐには目覚めないと踏み、若紳士は細長い指で前髪に触れながら工房の砂利ついた石床を歩き出した。
鋼鉄のガントレットで工房奥の大扉を押し開け、甲冑騎士は主人をその先へと導き入れる。すぐ鼻に香ったのは防虫薬の香り。扉をくぐった先で百瀬が目にしたのは、吹き抜けのウォークインクローゼットであった。
Uの字をしたクローゼットは実に6メートル近くあり、3段に渡って数百点もの衣類で埋まっている。すべて子供服だ。男子女子それぞれの衣服が年齢に分けて三角定規のように並べられており、どれも手作りであるように見えた。
「……私に教えてよかったのか」
百瀬は背後で沈黙する鎧の戦士を振り返る。主人へ曖昧に頷いて返す鉄兜――。紅の西洋騎士は工房隅の座椅子まで戻っていき、再び無言の騎士像となった。
「……」
元教師はどこか思い詰めた表情をしたまま、クローゼットをくるりと引き返す。
そして大扉を閉めた後で手近なトルソーに視線を置いていたそのとき、背後でロッキングチェアが軋み音を立てた。
「……なんだ、来ていたのか」
「葬儀の件で連絡をしにきたんです。これからまたすぐ出ますが」
自分の方を見ずに声だけ返してくる夫――。その背中をちらと窺ったのち、淑女は仕掛かり中の編み物を手に取って炉の方に向き直る。
「コッコの葬儀は下町で予定通り行われるそうです」
百瀬は平静を装って石床を歩きながら、ロッキングチェアに向かって遠く声を伸ばした。
「タクシーを予約していますから、時間になったらまた迎えに来ます」
そう言い残し、彼は椅子からコートを手に取って逃げるように工房を後にする。淑女は俄かに何も返さず、揺れる木扉を眠たげな面持ちの奥底で盗み見ていた。
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