第16話「深夜のお茶漬け」
王都の夜は静かだった。
日中の喧騒が嘘のようにひっそりと街路が沈黙し、石畳には月明かりがうっすらと滲んでいる。ラミスは、その道を一人歩いていた。
「……眠れないな」
正門は閉じており、入らないため防壁を飛び越えて街に侵入したラミス。彼女を包む夜風は、どこか懐かしいようで、どこまでも新しい。
この世界に来てから、もう幾月が経っただろう。
1000年前の世界から、この世界で目覚めた彼女は、未だに現実と夢の境目が掴めずにいた。
「ほんと、あの勇者は何を考えていたのやら」
それでも、黙って店から持ってきたレモンパイを齧ると、酸味は美味しくて心に沁みた。
「……この世界、美味しいものがたくさんあるな」
遠くに鐘が鳴り、王都の時間が日付の変わりを告げる。そろそろ帰らなければ。
ラミスは静かに陽だまりへと戻っていった。
扉をそっと開けると、かすかな明かりが漏れていた。厨房の隅、小さなランプが灯っている。
「……起きていたのか?」
「ラミスこそ、どこまで行ってたのさ」
カウンターの向こう、絵留が腕を組んでラミスを見ていた。ふわっとした寝間着に、少し乱れた髪。だがその目は、ちゃんと目覚めていた。
「眠れなかった。なんだか…な。」
「あたしも。なんか……食べる?レモンパイ以外でね?」
「……お茶漬けがいい」
絵留はにんまり笑って、鍋に手をかけた。
冷やご飯に、昆布の佃煮と梅干しを添えて、熱い出汁をじゅわりと注ぐ。
「はい、どうぞ。猫まんまよりは、上品なやつにしといたよ」
「ありがとう、エル」
二人は並んで、ちゃぶ台に腰を下ろした。夜の静けさに、お茶漬けの香りがふわりと溶ける。
ひと口、さらさらと胃に落ちる優しい塩気と温もり。
ラミスは目を閉じて、ただその味に身を委ねた。
「……エル。お前は元の世界に帰りたくならないのか?」
絵留はちょっと驚いたように、箸を止めた。
「んー……うーん。正直、今のところ困ってないし? 料理作って、変な奴らに変な注文で振り回されて、それなりに楽しいからね」
「ふふっ……変な奴らって」
「ラミスも含めて、ね?」
茶化すように言ってから、絵留は少し真面目な顔をした。
「……あたしはさ、確かに元の世界にも家はあった。でも、誰かが待ってるわけでもなかったから。こっちのほうが“ちゃんと生きてる”って思える時もあるんだ」
「……そうか」
ラミスは茶碗の縁を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「私は、まだ分からないんだ。1000年前に戻ったところで、何が待ってるのかも分からない。勇者にも負けたからな。もしかしたらいつか戻って殺されるのかもしれない。だけど……レモンパイが食べられる今が、大事かもしれないって思った」
「いつぞやラミスがあれ食べて泣いたとき、本気でびっくりしたよ」
「おいやめろ」
ふたりはふふっと笑いあった。
気づけば、お茶漬けはすっかり冷めていた。
でも、冷めたご飯すらも今夜は妙においしかった。
「もう少しだけ、この世界に…この店にいてもいいか」
「うん。一緒にいようよ、ラミス」
夜の風が、障子の隙間からそっと吹き込んだ。
その風すらも、ふたりの心をそっと撫でていくようだった。
閉店
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