最終話

興奮して疲れたのだろう。祖母はあとは若い二人でごゆっくり、と早々に自室に下がってしまった。

何かいいたげなアンナも、怖いくらいの上機嫌でキッチンへ戻っていった。


客間に残された二人は、向かい合うように座るとしばらく黙ったままでいた。

なにから話せばいいのか、話したいことはいくらでもあった。


「先ぶれもなしに突然やってきて、驚かせてしまいましたね。」

先に口を開いたのはルスランだった。

「驚きましたけど、嬉しかったです。もう会えないと思っていたので。」


「私も、毎日ミシェル嬢のことを考えていました。なぜあの時何も言わずに帰してしまったのかと、ずっと後悔してました。」

「それは…お互い背負っているものがありますから。」

「うん。」


短い沈黙の後で、ルスランは背筋を伸ばすとまっすぐミシェルを見つめた。

「それでも、会いたかった。」


会えなかった日々を溶かすには、その一言で十分だった。

ルスランは立ち上がるとミシェルの前にひざまずいてその手をとった。


「さっきは成り行きで突然の求婚になってしまいましたが、ミシェル・クローデル嬢。本当に私と結婚してくれますか?」


長く剣を握ってきた手はごつごつと骨ばっている。ミシェルはその上にほっそりとした手を重ねると涙のまじった声で「はい。」とだけ答えた。


「一緒にイスカ湖に行った時は、ここに住めたらいいなと思いましたけど。まさかまたイスカに行くことになるなんて本当に考えてもいなくて。」


「イスカに来てくれるんですか?」

「おばあ様と今後の話し合いが必要ですけれど、でも、行きなさいと言われると思います。」

「ミシェル嬢に心残りがあるなら俺が王都に住んだっていいんですよ。」


ルスランの意外な発言にミシェルはうるんだ目を見開いた。

「え…。だってそんなことをしたら騎士団は。」

「辞める覚悟でここまで来ました。まあ、兄にはぼこぼこに殴られましたけどね。

私にとって、この先あなたと一緒にいることより優先するべきことなんて何もないんです。それを、大叔父に教えられた気がします。だからおばあ様のことは心配しなくて大丈夫。」


照れくさそうに笑う明るさの陰に、どれだけの苦労をしてここまでやってきてくれたのだろう。ミシェルは彼の手をぎゅっと握りしめた。


「家族への報告や仕事もあるので、明日にはイスカに戻ります。一か月後にまた。」


見送りはいらないからと玄関でミシェルを引き留めたルスランはそう言って彼女がつけているネックレスにそっと触れた。


「身に着けていてくれたんですね。」

「とても気に入っているので。」

「そんなに大事にしてくれるならもっと高価なものを贈れば良かった。」


冗談めかしてそう言うルスランに、ミシェルは思わず口元を覆った。

こんな風に屈託なく笑うのは、イスカでの日々以来だった。


「今日は逃げないで。」


耳元でそう囁かれた瞬間、ミシェルはルスランに抱きすくめられていた。

彼の腕の中で、ミシェルは小さく身じろぎをした。

今度は、愛しい人をしっかりと抱きしめ返すために。

 

 


十日後、祖母は息を引き取った。

亡くなる前夜、いつものように寝室まで付き添ったミシェルに、祖母はこう言った。


「ふふ、ルネがきてくれたなんて、旦那様が知ったら心中穏やかではないかもしれないわね。あの人はミシェルと幸せになりますからって、ちゃんと言って安心してもらわなくちゃ。」


孫娘はルネの甥子にあたるルスランと結婚すると認識している時もあるが、基本的に彼女のなかでルスランはルネだった。

それが真実でなかったとしても、穏やかで幸せな結末が訪れたのなら、それでいい。

ミシェルは「そうですね。」と心から頷いた。

それが、祖母イルゼとの最期の会話だった。


翌朝、女主人がベッドに横たわったまま亡くなっているのを発見したアンナは、葬儀の後にこう語った。


「奥様はこの世での役目をすべて終えて、微笑んでいるようでした。あたしも長いこと生きていろんな人の死に顔を見てきましたけどね、あんなに安らかなお顔で神の御元に行けたのなら、どんなにか幸せなことだろうと思いますよ。」


参列者たちは目に涙を浮かべながら、それぞれ深く頷くのだった。



  


翌年の春、二人はイスカ大聖堂で結婚式をあげた。


貴族の血筋に生まれ、平民として暮らし、ふたたび貴族令嬢として成長したミシェル・クローデル。

祖母の代理で墓参りに訪れたイスカで、領主の次男と出会い恋に落ち…。


そんな出自となれそめは、老舗新聞社カイエ・ド・イスカの記事になり、結婚式には大勢の見物客が訪れた。

けれどもその中に、ミシェルが英雄レナトゥスが心を捧げた女性の孫であるということを知る者はいない。

これからも、ミシェルとルスラン以外に知るものはないだろう。


精巧なステンドグラスが美しい大聖堂の最前列には、花嫁たっての希望で空席がもうけられていた。

そこに置かれていたのは祖母イルゼが愛用していた小さな帽子。

二人の門出を祝うように、春の風に吹かれたその帽子がふわりと動いたが、気付いたものはない。


参列者の誰もが、幸せいっぱいの二人しか見ていなかったからだ。


どこまでも柔らかい春の青空。

大聖堂の尖塔を、ひばりが一羽ぐるりと一周してから空高く飛び立っていった。

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名もなき湖水のロマンス 夕波 @slowdance2u

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