中編  偽りの祝福



 数日が過ぎた。


 悪霊は今になって銀貨を割ってしまったことを後悔していた。割れてしまった銀貨からは、もう何も読み取ることはできない。


 悪霊は、あの娘がどうなったが密かに気にしていた。


 天使は、自分が願いを叶えた人間がどうなったかなど気にしない。天使は数多く願いを叶えることのみ腐心していて、最後にまで関わる余裕がないのである。また興味もあるまい。


 だから天使から、あの娘の話題が出ることはなかった。かといって、悪霊の方からわざわざ尋ねる道理も無い。悪霊はいらいらしていた。


(銀貨に触れたのがまずかった)


 と悪霊は思う。


 銀貨に触れることは、その人間の心の一端に触れるのと同じことだ。興味本位で手に取るものではなかった。


 悪霊は、いままで天使宛ての銀貨を手にとったことはなかった。初めて気まぐれに手にとったそれは、何という清浄な祈りだったか。


 悪霊が普段、手にしていた願いの銀貨は、濁った、呪いや憎しみでいっぱいだった。彼がのは、そんなものばかりに触れていたからなのだろう。


 悪霊はそれ以来、嫉妬を深くした。しかしそんなことは、おくびにも出さなかった。




 ◇ ◇ ◇




 そしてさらに数カ月。


 それは真夜中のことだった。


 暗い水底で、悪霊は一人だった。天使は忙しく、また誰かの願いを叶えに行っていた。


 悪霊は、ちゃぷんという水音を聞いた。それは幾度も聞いたことのなる音だ。1デナリウス銀貨が投げ込まれたに間違いなかった。


 時は夜。水面を覗き込んでいるであろう願い主の顔は、わからない。悪霊は耳を澄まして、その願いを聞き取ろうとした。天使への願いか、それとも自分へか。


「……あの娘の足に、怪我をさせて。踊れなくなるくらいに」


 それは明らかに、「負」の願い。悪霊への願いだった。


 ほどなく銀貨は舞い降りてきた。


 暗い泉のなかを、きらり、きらりと、そればかりが光って見える。悪霊は沈んでくる銀貨を両掌でそっと受けとめた。


 瞬間、火花のように悪意が散った。そのまぶしさに、悪霊は目がくらんだ。


 羨望、嫉妬、怨恨――


 味わい飽きた感情が悪霊の胸中にひろがってゆく。そして悪霊は、その願いを引き受けるにしろ、はねつけるにしろ、嘲りの笑みを浮かべるのが常だった。


 しかし悪霊は笑わなかった。口の端を奇妙にゆがめて、そのまま表情を固くしてしまった。彼は疑うような眼差しで、掌中の銀貨を見つめた。


 そこに浮かび上がった願いの主は、あの娘だった。


 夜明け近くになると、天使が帰ってきた。


「願いを叶えてきたのかね? また?」


 今日の悪霊の言葉には、皮肉以上の悪意があった。それを天使も感じ取ったのか、珍しく受け流さずに答えた。


「そうさ。おれはおまえみたいに情が薄くないからね」


「薄いか、情が」


「薄いな。おれはほとんど欠かさず、人の願いを叶えてきた。なのにお前は」


 悪霊は哄笑こうしょうした。それは自嘲ではなく、明らかに天使をあざけったものだった。


「叶えてやればいいのか? 願いはみんな? そうすれば人は皆、しあわせになれるのか?」


「なれるはずだ。人はいつでも、願いが叶うよう祈っている」


「ああ、そうか。わかった。だがひとつだけ言っておこうか」


 悪霊は、はげしく天使を睨んだ。


「願いなどは、所詮は欲望だ。人間の欲望には際限がない。そんなものは、本来自分の力でなんとかするべきなのだ」


「ずいぶんと瑞々しいお言葉ではあるが……」


 天使は、きょとんとして悪霊をみつめている。


「何かあったかね、悪霊よ」


 ようやく天使は、悪霊の様子がいつもと違うことに気がついた。顔から冷笑が消え、その物言いが、気遣わしげなものに変わる。


「今日、あの娘が来た」


 悪霊は、吐き捨てるように言った。


「あの娘、とは?」


「足を駄目にして泣いていた踊り子の娘だ──」


 悪霊は、叫ぶように一部始終を語った。


 真夜中、泉を訪ねてきた娘は、もう依然の娘ではなかった。


 服は飾り気十分な立派なものだったし、髪はきちんと櫛が入ってまっすぐに流れていたし、足衣サンダルはもちろん、はいていた。しかしそれだけで、人間が別人のように変わってしまう訳はない。


 娘はもっと深い部分で変わってしまっていたようだった。


 何より、その瞳が違った。


 いったい、あの弱々しく、しかし優しい輝きはどこへ失せたのか。彼女の瞳は、今、らんらんと燃えていた。それは身の内に燃え盛る欲望の炎であった。


 銀貨から、悪霊が読み取った彼女の事情は、こうである。


 娘は天使に足を治してもらったすぐあと、ある一座に雇ってもらうことが出来た。はじめは前座として踊っていた娘だったが、やがて段々とその踊りが人々に認められるようになってきた。


 そして一座は、ある歌劇をやることになった。娘は、主役をりたかった。事実、娘の舞踊は、それほど巧みになっていた。しかし、娘が凌ぐことができない相手が、ただ一人、いた。


 あの女さえ、いなければ──


 娘は、いつしかそう思うようになり、そして今宵、こっそりのこの泉にやってきたのだった。娘は、自分の願いが叶うと信じて疑っていない様子だった。一度、彼女の願いは現に叶ったのだ。それゆえ、彼女に懇願する様子は見られなかった。


 とおり一辺の祈りを捧げると、娘は帰っていった。


 悪霊は、話し終えると吐き捨てるように言った。


「そんなものだ。人間なと何か叶えば、また何かを欲しがる。きりがない」


 はて? と天使は首を傾げて問うた。


「それで何が悪いのかね?」


 何の裏心も無かった。本当に、ふしぎそうに悪霊に問うた。


「次の願いができたなら、またそれを叶えてやればいい。さすれば人はまた一歩、しあわせに近づく」


「違う、そうではない」


「違うまいさ」


 天使の声には自信があった。これまで自分は、あまたの人間をしあわせにしてきたという自信が。悪霊には持ち得ない自信だった。


 だから、黙った。


「叶えてくるがいい、悪霊。むろん、気が向けばの話だが」


 天使は、水上を指し示した。


「それで、あの娘はしあわせになれる。絶対だ。あの娘が、そう望んでいるのだから間違いあるまいさ」


 ──はて、本当にそうか。


 という疑問が、悪霊の心にないわけではなかった。しかし彼には、天使にあらがい得るだけの理由がなかった。


 悪霊は、水面目指して浮き上がり始めた。願いを叶えるために、である。しかし彼の心は揺れ動く水のように定まりかねていた。


 ウィミナーリスの丘からそう離れていないところに、その一座の天幕はあった。


 悪霊は、染み込むようにその控え室に入っていった。人の目に見えない彼は、どこに侵りこむのもたやすい。


 そこに、あの娘がいた。


 となりに娘が憎む、女もいた。


 その女が、やさしい笑顔をもっていることに悪霊は落胆した。


 娘が憎む女は、もっと狡そうな笑みをたたえていてほしかった。悪霊はどうしても娘を正当化できないことを悟った。


 悪霊は、わずかに鞘をならして腰の短刀を引き抜いた。


 それも人の目には見えない精霊の刀である。これを用いれば加減ひとつで皮も肉も切らず、臓腑だけを突いたり、骨を砕くことができる。悪霊はこの短刀で、あまたの人間を傷つけてきた。それなのにこの短刀は、冴えた清い光を放っていた。血を吸ったことがないからであろうか。


 悪霊は構えた。息を吸い込む。──しかし短刀を、容易には振り下ろせなかった。


 ──それで、あの娘はしあわせになれる。絶対だ。あの娘が、そう望んでいるのだから間違いあるまいさ


 天使の言葉を呼び覚ます。


 そうだ、悩むことなどない。願いが叶えば、人はしあわせになれる。当然のことではあるまいか。悪霊はそう自分に言い聞かせた。


 娘が、悪霊の目の前で笑っていた。自分が憎む女と、歓談して。密かに呪っている相手であるというのに、なんと楽しそうな笑い声をあげることか。


「…………」


 悪霊は意を決した。足めがけて刃を振るった。確かな手応え。骨が砕けて、散る音まで、悪霊は聞こえたような気がした。


「あ……」


 どうして、そう呟く声が聞かれた。


 娘の口から。


「これで元通りだよ、お嬢さん」


 悪霊は、娘の耳元にささやいた。人間にも聞こえる声量で。


 娘は、見開いた目であたりを見回した。しかし見つけられるはずもない。


「養生をして、三月もすれば治ろう。お前が成り上がったのと同じような時間だ。今度は、おのれの才覚で勝手にやれ。おれはもうご免だよ」


 悪霊はさらにそう囁いて、騒がしくなってきた控え室から、抜け出した。








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