後編 奇跡の終焉
なんでそんなことをした、と、悪霊は帰ってから、天使に問われた。
「不幸になる」
悪霊は、ただひとこと答えた。
「余計な気を回すな。おれたちは願い主のしあわせだけを考えておればいい。それがおれたちの仕事だ。結果、他人が不幸になっても、おれたちが気に病むことはない」
「違う――」
「何が違う?」
「願いを叶えられた本人が、不幸になる」
天使は、訝しげに眉をしかめた。
「あの娘が、望んだことだぞ?」
「おるまいよ、望んでは。すんでのところで、それがわかった」
「何をだ?」
「人を蹴落として掴む栄光は、本当にあの娘が求めたものではなかったということを」
悪霊は、水面を見上げ、言った。
「あの娘は、しあわせそうではなかった。ここに来たときは、まるで星を宿したような目をしていた。しかしこの前みた娘の目に、星は無かった。あれは人を蔑む目……あんな目をした人間が、しあわせであろうはずがない。しあわせでないのに、自分でそれに気がつかない。自らの身を立てるために人を不幸にすることなど、おのれが本心から望んでないのもわからない……」
「たいそうな口説だが、悪霊よ、それはおまえの思い込みだ。願いが叶って不幸になる人間などいるはずがない。まあいい、彼女はきっとまたやってくる。折れてしまった足を治してもらいに」
「来るまい。おれはあいつに、勝手にやれと、そう言った」
「いや、来る。足が治らなければ舞台には立てない。藁にもすがる気持ちでやってくるさ」
天使には、相変わらず自信があった。
◇ ◇ ◇
そして数日後──
娘は、やってきた。
天使は、勝ち誇った笑みで悪霊を見た。
悪霊は、ただじっと、泉を覗き込んでいる娘を見つめていた。
やがて水面で、音がした。
1デナリウス銀貨が水に投げ込まれる音──天使も悪霊も、一瞬にしてそれを聞き取った。
悪霊の耳に、その音は痛かった。それに天使の声も。
「わかったろう。願いを叶えることは、人をしあわせにするのさ」
銀貨が降ってくる。娘の願いをのせて、銀貨が降ってくる。悪霊は、その光から目を背けた。
天使は、ゆっくりと進み出て、掌に銀貨が落ちてくるのを待った。まもなく銀貨、揺らめきながら天使の手のひらに、落ちた。
「どうした、天使」
悪霊が訊いたのは、天使の顔が瞬間、蒼白になったからだ。
天使は悪霊の問いに、沈黙したまま、何かに耳を澄ませた。その、口元がゆるむ。──悪霊の目に、それは彼の自嘲と映った。
「ばかばかしい」
天使は、声を出して笑った。
「聞いてみるがいい、悪霊よ。あの娘の願いごとを」
天使は、銀貨を悪霊のほうに放った。そう、ちょうどあの日のように。
その銀貨が水中を飛び、悪霊の掌に収まる前に、もう悪霊は娘の願いを聞いていた。それは水を渡り、悪霊の耳に達した。その声は、痛くはなかった。
「神さま、見ていてください、どうか、ずっと」
見上げると、娘はきらきらとした目をしていた。
「ごめんなさい、あたし、わがままばかり言って……あたし、足をわるくしたとき、足さえよければ、だれにもまけずに踊れるのにっておもってた。でも、足が治っても、あたしはやっぱり、いちばんにはなれなかった。あたし、努力はしたくなかった。あたし、努力をするのがいやだった。つらいからじゃなくて、もし、努力してもだめだったら、どうしようって。だからあたし、お願いしたの。神さま、あのひとに怪我をさせてくださいって。でも、ほんとは願いが叶うのがこわかった。だって、そうして主役を手にいれても、それは自分のちからじゃないんだもの。うまく踊れるわけがないってわかってた。わかってたけど、どうしようもなくって……でも」
水面に波紋ができた。それは果たして、娘の落とした涙のためだったのだろうか。
「でも神さま、あなたがとめてくれた。おしえてくれた。もうだいじょうぶです。神さまが言ったとおり、あたしは、あたしで、きちんとやれます。自分のちからで、きちんとやれます。だから……見ていてくれますか? 見ていてほしいんです。それが最後のお願いです」
悪霊は、確かに銀貨を受け取った。娘の気持ちと一緒に。
「最後のお願い、か」
天使が、ぽつりと呟いた。
「引き受けるのも最後にしようか、悪霊よ」
「天使?」
「なにやら、ばからしくなったわ。もはや、このあたりが潮時……いや、違うな。ようやく理解したのかもしれない」
「何を?」
「おれたちが願いを叶えたからではなく、人は、自分で気づくものなのだと」
そう言った声音は、やさしかった。そして天使は、「天使のように」微笑むと、どこかへ行ってしまった。
悪霊は、手の中にしっかり銀貨を握り締めると、そっと泉の底を蹴った。どこかへ行くために。
そしてウィミナーリスの丘のエウロの泉の伝説は、廃れていった。
人の暮らしに奇跡のあった時代は、おわった。
しかし、その泉の水面は、以前にも増して輝いて見えた。
完
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銀貨を沈めた娘と、泉に住む天使と悪霊の話 たけながなお @naokichiban14
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