第23話呪縛の夜
屋敷に戻ると、ようやく一息つけるかと思った——だが、そうはならなかった。
「ずいぶん遅かったですね」
その声が響いた瞬間、心臓が跳ねる。誰もいないはずの玄関ホールの奥、ランプの灯りが揺れる中に、ひとりの男が佇んでいた。
銀色の髪。青い瞳。そして、冷たい微笑。
「……シグベル様」
彼は静かにこちらを見つめ、口の端をわずかに上げた。
「興味深いものを手に入れたようで」
まるで、全てを見透かしているかのように。すっと彼の視線が私の持つ木箱に向けられる。まるでシグベルの敵意を感じ取ったかのように、箱がカタリと音を立てた。
「これが何か、ご存知なの?」
「…………呪いの、品ですよ。ダイダリーの穢れにして罪。その一つがあなたの持っている木箱です」
呪いの品――思い出すのは、ヴィオラ様の遺品となった首飾りだ。無意識に身に着けてしまうもの、人を弱らせ命を奪うもの。寒気が走り木箱を遠ざけそうになるが、私は意地だけでしっかりと握りなおした。
これは、クレイヴに繋がる大事なものだ。手放すわけにはいかない。
「あなたは正気ですか?」
シグベルの声が低く響く。
「そんなものを大事に抱えて……狂気の沙汰ですよ」
「これはただの脅威じゃない。クレイヴとの交渉材料です」
私は負けじと睨み返した。『一晩守る』という条件はこのためにあったのかもしれない。まさか、これを破壊しようとする者が現れると知っていた? クレイヴは、一体どこまで把握しているのだろうか。
「交渉? 呪いの品で?」
シグベルの青い瞳が冷たく光る。
「それを手にした者がどうなるか、あなたは本当に分かっているんですか?」
「……それでも、今は守る必要があります!」
私は揺るがないと示すように、箱をぎゅっと握る。
「呪いの品にも供給元があるはず。それを知らなければ、今これを破壊しても何も解決しません」
「呪いの品は影の市から現れる――ならば、そこを潰してしまえば良いだけのこと」
シグベルは当然のように言った。だが、それでは意味がないのだ。
「では、影の市を潰したとして、その先は?」
私は鋭く問い返した。
「次に呪いの品が別の場所で流通し始めたら、あなたはまたそこを潰すつもりですか?」
シグベルの表情がわずかに曇る。私は続けた。
「問題は影の市ではありません。呪いの品を生み出し、売りさばく者がいる限り、同じことが何度でも繰り返される」
「……何が言いたいのです?」
「あなたの信じる神は、人の罪を裁くだけの存在なのですか?」
シグベルの瞳が揺れた。私は毅然と彼を見つめ、問いかける。
「裁くだけでなく、導く存在ではないの? 一つ潰して終わりではなく、もっと根本的な方法を探すべきじゃないかしら?」
神の声を聞いたことのない私の言葉ではシグベルに届かないかもしれない。それでも、私はダイダリーの領主として彼に伝えなければならなかった。
「クレイヴなら、影の市を動かせる立場にある。ならば、彼を通して情報を得た方が建設的でしょう?」
シグベルは沈黙した。だが、その青い瞳は冷え切っている。私はそこに信仰の光を見た。裁きの神ダイダリューンの、苛烈な光を。
「あなたとは、もっと良い形で協力できると思っていました。……ですが、今はまだお互いの道が違うようですね」
彼はそっと目を伏せた。冷たい光は見えなくなるが、空気は張り詰めたままだ。息苦しい緊張感の中、ふっとランプの灯りが揺れて、消えた。途端に手に持っていた箱がカタカタと揺れ、じんわりと熱を持ち始める。熱いというほどではない。ただ人の体温によく似たそれが、言いようもない嫌悪感を連れてくる。
「……始まりましたね。これが最後の警告です。壊しましょう、ロゼリア様」
私は必死に首を振った。ようやく掴んだクレイヴへの糸口なのだ。気味が悪いくらいで手放すわけにはいかない。
「では、朝まで待ちましょう。ですが、何が起こっても私は止めません」
シグベルはそれ以上言葉を発さず、静かに身を引いた。しかし、その青い瞳は闇の中でも確かに光を宿し、私の決断を見定めている。
私は目をつむり、木箱を胸に抱え直した。この箱は交渉の鍵。クレイヴに繋がる重要なもの――そう言い聞かせながらも、背筋を這い上がるような不快感が止まらない。
部屋の中には、私と箱だけが取り残された。
ランプの灯りを新たにともしても、揺らめく影が不安を煽る。薄明かりの中で、木箱の表面に浮かぶ模様がちらちらと動いたように見えた。見間違いだと自分に言い聞かせる。
……カタカタ。
箱が、震えた。
私は反射的に力を込めて押さえつける。まるで中に小動物でも閉じ込められているような、不規則な動き。けれど、そんなはずはない。シグベルが言ったように、これは呪いの品。
生きているわけがない。
カタ、カタカタ……
動きが少しずつ大きくなる。まるで、中にいる何かが目を覚まし始めたかのように。私は恐る恐る箱を耳元に寄せる。
――コツン。
何かが、内側から叩いた。
心臓が跳ねる。指先が冷たくなっていく。
再び、コツン、コツンと規則的な音。まるで「開けろ」とでも言っているように、弱々しく箱の内側を打ち続ける。
――開けるな。
直感が警鐘を鳴らす。けれど、頭のどこかで、囁く声がする。
(大丈夫……ただの箱……)
まぶたが重い。思考がぼんやりしてくる。音が耳元で響くたび、まるで眠りに誘われるような心地がする。
これは……おかしい。
私は必死に顔を振って意識を取り戻し、箱を遠ざけた。ふと視線を落とすと、いつの間にか箱の表面が濡れている。結露のようなものが、ゆっくりと染み出していた。
――いや、違う。これは……血?
私はぞっとして後ずさる。箱から滴る赤黒い液体。鉄のような匂いが鼻をついた。
そして――
「開けて……」
耳元で囁く声がした。私は悲鳴を押し殺し、箱を両手で強く抱きしめた。
(開けない、絶対に……!)
カタカタと震え続ける箱。冷たい汗が背中を伝う。
長い一夜が、始まった。
「――――ロゼリア様!」
ハッと我に返ると、ヒルダが心配そうな顔で私を見つめている。そうだ、こんな状況で彼女が私を一人にするはずないのに……どうして私は、箱と二人きりになったと思ったのだろう。
(待って、二人きり? 違うわ、これはただの箱……)
なのに、箱がそこにいる。そう思えてしまうのはなぜ?
頭が混乱している。疲れているせいかと思い、身体活性魔法を使ってみたが、ぼんやりとした霧のような感覚は晴れない。まるで思考の隙間に何かが入り込んでいるような、不快な違和感がこびりついて離れなかった。
「いやぁ、これは『本物』ですね。結構まずいかもしれませんよ?」
ルカが冗談めかした口調で言う。しかし、その笑みは引きつっていた。
「何か知っているの?」
「ええ、間違いなく呪いの品です。それも、クレイヴが所持している中でも特に危険なものかと……。ただ、詳細はわかりません。開けない限りは」
(開けない限りは――?)
言葉の意味を考える間もなく、また異変が起こった。
スッ……
まぶたが重くなる。眠気とは違う。意識がぼんやりと霞むような感覚。考えようとしても思考がまとまらない。
「開けて……」
また、あの声がした。耳元で囁くような、湿った声。男とも女ともつかない、冷たい声音が頭に直接響く。
「ロゼリア様、しっかりしてください!」
ヒルダが肩を揺さぶる。意識を戻すと、額にはじっとりと冷たい汗が浮かんでいた。
「……大丈夫よ」
声を出してみるものの、自分でも驚くほどかすれている。
――ゴトン。
箱が、跳ねた。
「っ!」
一瞬、手を離しかける。しかし、咄嗟に力を込めて押さえ込んだ。
――ゴトン、ゴトゴトゴト……!
中に何かがいる。そう思わずにはいられないほど、箱は不規則に暴れ出した。
ルカが魔術式を組み上げ詠唱と共に地面へ展開する。魔術封じの式に似ているが、見たことのないものだ。呪いに関する魔術だろうか? 私も術式をなぞって重ねがけすると、少しだけ箱の動きが弱まった。しかし魔力の消費量が多い。これを展開し続けるルカの額には汗が滲んでいる。
「これは……抑え込めるかどうか」
「封じられないの?」
「呪いの品の性質がわからない以上、下手に触れない方がいいです。下手に刺激すると暴走するかもしれませんからね」
その言葉に、背筋が冷える。
(じゃあ……どうすれば?)
開けるわけにはいかない。けれど、このまま朝まで耐えられるの――?
「ロゼリア様、目を閉じないで。意識をはっきり持って」
ヒルダが強く手を握る。その温もりが、冷えた指先にじんわりと伝わってくる。
「……大丈夫よ」
私は再び箱を抱え直し、歯を食いしばった。封印の術式は解き、身体活性魔法の方に力を入れる。
(私は……この箱を守る。絶対に)
そう決意してどれほどの時間が経ったのか。時計の針はほとんど進んでいない。
箱を一度膝に置き、ソファに体を預ける。ヒルダが私の隣に座り、手を握ってくれた。反対側に腰かけたルカが一度魔術を解くも、木箱の様子は変わらない。もしかして、落ち着いたのかしら……?
その時――突然、すべての音が消えた。
箱も、空気も、時計の秒針さえも。まるで世界が一瞬だけ、止まったように。
(……?)
突然、ズシリと箱の重みが増した。
まるで中で何かが成長し、蠢いているような……。気のせいではない。これは『呪いの品』なのだ。何が起こってもおかしくはない、頭ではそう分かっているのに、体の震えが止まらなかった。
「ヒルダ、近くにいて」
「私はずっとおそばにおります」
「僕もいますよ」
寄り添ってくれるヒルダの体温がありがたかった。ルカの優しい声も今だけは信じたい。私は大きく息を吐き、もう一度木箱へと向き直った。何が起きても開けなければ良いだけなのだ。大丈夫、と自分に言い聞かせる。
時間が進むにつれまぶたが重くなっていく。眠気ではない。何かが吸い取られるような感覚が私から体力を奪っていた。でも眠るわけには……と俯いて手に爪を立てていると、横でヒルダが息を呑んだ。
「ヴィオラ様……!?」
その声に思わず顔を上げる。するとそこには、血に塗れた女性が立っていた。長い黒髪に、緑の瞳。彼女がヴィオラ様、なのだろうか。本来優しく微笑んでいただろう顔は悲し気に歪み、赤黒く汚れた手を伸ばしてくる。その首元には、黒ずんだ呪いの首飾りがかかっていた。
「開けて……お願い……」
(なんて、趣味が悪いの…………!)
亡くなった人の姿を象って脅すなんて。死してなお冒涜される彼女の姿に私は唇を噛みしめた。箱に伸びそうになるヒルダの手をしっかりと繋ぎとめる。ただの幻覚だ、見てはいけない。そう分かっていても、ヴィオラ様の悲痛な姿に胸が痛んだ。彼女はしばらく私たちのすぐそばで囁いていたが、開ける気配がないと分かると徐々にその姿が薄くなっていく。
「……こんなのを、朝まで? クレイヴは一体何を考えてるんですかね」
「分からないわ……だから、会って聞くのよ」
ルカの話す声が不思議と遠くに聞こえる。隣にいるはずなのにどうして……? そんなことを考えるさなか、ふっと意識が飛びそうになる。
(駄目、しっかりしないと……)
頭を振って木箱を見つめた瞬間、隙間から黒い影が漏れだしてきていた。それは私の体をつたい、地面に落ち、壁を這う。
「ひっ……!」
今までで一番力を入れても、悲鳴は抑えきれなかった。ヒルダとルカが手を重ねてくれるが、箱から漏れる影は勢いを増していく。
(怖い……! 怖い、怖い……! こんなのもう無理よ……!)
その影すべてが執拗に「開けて」「開けて」と繰り返してくるのだ。開けたらこれから解放されるの? そんな考えが過ってしまうほど、限界が近かった。
「ロゼリア様、しっかり! もうすぐ朝ですから!」
言葉がよく聞き取れない。呼吸の仕方を忘れたかのように息が上手く吸えない。箱を押さえる手が震え、滑り落ちそうになる。黒い影は絶え間なく溢れてくる。
「……手を放してください。もう、限界でしょう。壊しますよ」
突然、耳の奥に響くような静かな声。
――シグベル。
彼が、目の前に立っていた。いや、『そこにいた』。
いつから? なぜ? そんなことを考える余裕もなく、彼は私の抱える箱に手を伸ばした。その手つきは、決して乱暴ではない。むしろ全てを任せてしまいたくなるほど優しいものだった。
「駄目、駄目です……! あと少しなの! 私は耐えられます!」
もはや自分の言葉が聞こえない。それでも私は必死に箱を抱え込んだ。その瞬間、木箱が急に熱を帯び、焼けるような温度に跳ね上がった。「開けて」と囁く声が叫びに変わり、何かが焦げるような異臭が鼻をつく。投げ出したくなる衝動を必死に堪え、歯を食いしばった。
闇が私に這いよる。指先に染みこむように黒い影がまとわりつき、箱を開けようと私の指を勝手に動かし始めた。
(どうしよう、このままでは……!)
「ロゼリア様、失礼します!」
ヒルダが私の指を上から完全に押さえこんだ。ルカも片手を私の手に添えつつ、もう片方の手で抜いた短剣をシグベルに向ける。
「ロゼリア様がここまで頑張ってるのに、台無しにするおつもりですか?」
「…………」
シグベルは答えなかった。代わりにそっと私の手に触れる。いつか触れた時と同じ、ひんやりとした指先。私は何故だか無性に泣きたくなってしまった。
「……朝が来ましたよ、ロゼリア様」
シグベルの声がまるで朝の訪れそのもののように響いた。そして、静寂が広がる。窓から昇りはじめた朝日が差し込み、箱の熱が冷えていく。影は薄れ、残響を残して囁きは消えていった。
私が息を吐く頃には、呪いの箱はすっかりただの木箱へと戻っていた。
「朝まで、守った……」
「……お疲れ様でした、ロゼリア様。少し休まれてください」
ヒルダが子どもにそうするように私を抱きしめて頭を撫でる。その温もりに安堵しながら、私はそっと目を閉じた。夜は、もう去ったのだ。
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