第22話試されるもの

 影の市の奥へと足を踏み入れると、また違う空気が待っていた。


 湿った土と薬草の香りに交じり、焼け焦げたような匂いが鼻をつく。明かりはさらに乏しくなり、闇が深く染み込んでいた。足音を吸い込むような静寂の中、聞こえるのは低く押し殺した声と、時折響く笑い声だけ。


 ふと、ルカの歩調が変わった。


 先ほどまで軽やかだった足取りが、わずかに慎重になっている。何かを警戒するように、さりげなく視線を巡らせ、フードを深くかぶった。


「……どうしたの?」


 問いかけると、彼は肩越しに振り返り、口元だけで笑った。


「別に。ただ、ここから先は 『本物』しか入れないんですよ」

「本物?」

「ええ。買うだけなら誰でもできる。でも 『知りたがる』なら、話は別です」


 ルカの声には、いつもの軽やかさがあった。それでも、ほんの僅かに緊張がにじんでいる。


「まあ、大丈夫でしょうけどね」


  何が「大丈夫」なのか。気づけば、周囲の視線がこちらを探るように絡みついていた。まるで試されているかのように。ルカはそんな無遠慮な視線を気にせず迷いなく進む。けれど、その歩みはまるで決まった道を辿るかのようだった。……ここに詳しい人間のように。


「……あなた、ここに来たことがあるの?」


 私が問うと、ルカは少しだけ足を止めた。そして、ゆるりと振り返り、唇の端を持ち上げる。


「……さて、どうでしょう?」


 答えになっていない。けれど、その曖昧な微笑みは、否定でもなかった。


「――着きましたよ」


 ルカが立ち止まったのは、うらぶれた一角だった。そこは、ただの店とも言えず、倉庫とも言い難い場所だった。布で覆われた台がぽつんとあり、その後ろには背の曲がった男が座っている。


「ここ?」


 私が問うと、ルカはうなずき、前に進んだ。


「爺さん、こいつを通してもらえますか?」

「ほう?」


 しわがれた声が響く。男は、私を見ていた。いや――値踏みをしているのだ、これは。私の価値を見定められている。領主でもない、ただの『ロゼリア』の価値を。

 

 彼の目が、ふいに金属片へと落ちる。私は無意識に握りしめた手を緩めた。男は、かすかに口の端を持ち上げ、低く笑う。


「試験を受けるかい?」


 その言葉に、背筋がひやりとする。ルカが小さく息をつき、私を一瞥した。


「……避けられませんか?」

「取引相手を選ぶのは向こうだ。ここはそういう場所だろう?」


 男の言葉は、影の市の理そのものだった。私が入るには、資格を示さなければならない。


「……試験とは?」


 静かに問うと、男は喉を鳴らして笑い、手を差し出す。


「この中から本物を選んでみな。おっと、本物ってのはもちろん『お嬢さんが望むもの』って意味だ」


 そこには、五つの小瓶が並んでいた。色も質感も、すべてが異なる水薬。けれど、そのうちのひとつだけが本物。私は息をのみ、じっと瓶を見つめた。


 私が望むものは――ソルミナ。そして、そこから繋がるクレイヴの情報。一体どこからその話が出回ったのか……。気にはなるが、それを考えるのは今ではない。

 私はルーディックの書斎で見た記録を思い出す。並べられた実験器具、壁に貼られたレポート。研究ノートはヒルダが持っている。彼女に頼るべきか?


「……ソルミナの精製過程では、液体の状態もあったはず」


 いや、まずは自分の力だけで挑むべきだ。試されているのは、私なのだから。


 これまで見つけた錠剤のソルミナは、あくまで最終形。ここにあるものが液体なのは、おそらく精製が不完全なためだろう。あるいは、原料のまま流通しているのかもしれない。


「あんたの客はなかなか賢いね」


 薬売りが細めた目を楽しそうに輝かせ、ルカの肩を軽く叩いた。


「ま、そうじゃなきゃ、こんなとこまで来るはずがねぇか」

「そうですね。だからこそ、慎重に選んでもらいたいところですが」


 ルカは微笑を浮かべつつ、私に視線を向ける。「さあ、お嬢さん」と彼は軽く息を吐いた。


「間違えたらどうなるか……ふふ、説明は要りませんね?」


 周囲にくすくすと笑い声が広がる。まるで私が失敗することを望んでいるかのようだ。


 駄目だ、今は周りのことなど関係ない。試験に集中しなくては。


 私は、指先をゆっくりと伸ばした。


 まずは、一つ目の瓶。無色透明で、光にかざすとさらさら流れる液体だ。一見するとただの水のようだが、これも薬なのだろうか? 一旦元の場所に戻し、隣の瓶を手に取る。今度は赤い液体だ。香りにヒントはないか……と思ったところで、すぐ隣にいたヒルダが低く囁いた。


「匂いを嗅ぐ際はお気を付けを。それだけで体に害を及ぼすものもあります。離れたところから手で仰ぐようにして確認してください」


 私は息を整えながら、小さく頷く。試験の場にいても、ヒルダは冷静だ。私も慎重に選ばないと……。


 こくりと頷き、言われた通りの方法で匂いを確かめる。ほんのりと甘い。果物や花の甘さではなく、人工的に作られた匂いだ。要注意、と心に書き留め瓶を戻す。


 三本目。中に入っているのは青い薬。同じように匂いを確かめる。いかにも薬らしい――どこかで嗅いだことがある? 私は影の市で買った錠剤と匂いを比べてみたが、残念ながら錠剤の方からはほとんど香りがしなかった。


 四本目は黒い液体で、よく見ると細かい泡が立っている。手に取った瞬間、視界の端でルカが目を逸らすのが見えた。何かのメッセージかしら。これは正解じゃない、と言う意味なら少しは信じても良いのだけれど。


 五本目は金色でとろみのある、綺麗な液体だった。しかし蓋を開けると途端に刺激臭がする。これは絶対に外れだ。むせそうになりながらも蓋をしめ、元の場所に戻した。


 背後で誰かが足を組み直す音がする。何人もの視線が、じっと私の指先を見つめているのを感じた。

 逃げ道はない。失敗すれば、すぐにでも牙を剥かれるだろう。


「何を選ぶか、決まったかい?」

「少し、考えさせて」

「何事も迅速にだ、お嬢さん……商人の足は風より速い」


 もう一度三本目の瓶の香りを確かめる。無臭の一本目と比べると分かりやすい。やはり、私はこの匂いを知っていた。


「これは……倉庫の、薬草?」


 ぽつりと呟く。倉庫で木箱に詰まっていた薬草、シグベルが言うには『魔術や薬の材料になる』代物。それの香りを思い出させた。ついでに隣の赤い液体がギフティオの管理する棚に置いてあったことも思い出し、毒と判断する。


「私が選ぶのは、これよ」


 三本目の瓶の中身が、試験官の目の前で小さく揺れた。


「ほう……。正解だ、お嬢さん」


 薬売りの男が満足そうに頷く。彼が手を叩くと、周囲にいた影の市の住人たちが少しざわめいた。驚きか、あるいは面白くなさそうな反応か。


「お前が何者かは知らねえが、いい目をしてる。この辺じゃ珍しいな」


 男はそう言って、私をまじまじと見つめた。ルカが安堵したように小さく息をつくが、すぐに何事もなかったような表情を作る。ヒルダは微動だにせず、私の背後で静かに立っていた。


「じゃあ案内してやる。こっちだ」


 そう言って男は路地の奥へと歩き出す。後について薄暗い通路を抜けると、煙草の匂いが漂う広場に出た。鉄製の扉が並び、それぞれの部屋から低い話し声や、時折鋭い笑い声が漏れ聞こえる。


「着いたぜ、お嬢さん」


 男が足を止めた先には、一枚の黒いカーテンがかけられた小さな店があった。


 中に入ると、そこには仮面をつけた女性が待っていた。


「ようこそ。さて、何をお求めで?」


 その声には、どこか試すような響きがあった。クレイヴでは、ない。少しがっかりしながらも、気を取り直して女性の前に立つ。


「とある薬と貴族の情報を買いたいの」

 

 その女性は短く息をつき、私を値踏みするように眺めた。


「ソルミナかい? それに……貴族の情報だって?」

「ええ。あとは……呪いの品と、それを扱った人物についてもね」


 私の言葉に、彼女は鼻を鳴らす。


「そいつはクレイヴ様だけの情報だ。一見のお嬢さんがはした金で買えるようなもんじゃないよ」


 予想通りの返答だった。ならば、と私はさらにたたみかける。


「取引の機会をいただけるのなら、それに見合うものを用意します」

「それを決めるのはアタシじゃない」

「だったら、彼に会わせて」


 彼女は一瞬黙り込み、こちらの覚悟を測るように目を細めた。


「……お嬢さんがその価値を証明できるなら、会えるかもしれないね」


 女はニヤリと笑ったが、次の瞬間笑みを消して叫んだ。


「伏せな!」


 鋭い声が響く。ルカが私の腕を引き、無理やり身を屈めさせた。低く唸るような音がした直後、空気を切り裂く音とともに壁にピシリとヒビが入った。どうやら近くで爆発が起きたらしい。混乱した人々の悲鳴がこだまする。


「襲撃……?」


 店の中からは状況が読めない。しかし、立ち止まっている暇はない。早く逃げた方が……そう思うものの、私の体はまだルカに押さえられていた。警戒しろ、ということか。


「クソッ……!」


 女が忌々しげに舌打ちする。


「面倒なことになったわ」

「何者?」

「詳しいことは知らないよ……ただの邪魔者さ」


 影の市に混乱が広がる中、女は懐から小さな木箱を取り出した。そして私の手のひらに押し付ける。


「いいか、お嬢さん。その箱の中身を決して見ることなく、守り抜きな」

「……これは?」

「それができたら、クレイヴ様に会わせてやる。約束するよ」


 それ以上の説明はなく、女はすぐさま人混みに消えた。私は木箱を握りしめ、息を整える。そんな中ヒルダが静かに尋ねてきた。


「どうします?」

「……逃げるしかないわね。でも、この箱は絶対に守る」


 ルカが短く笑い、私の肩を叩いた。


「面白いことになってきたねぇ、お嬢さん」


 喧騒の中、私は木箱を強く抱え、影の市の闇へと駆け出した。


 背後からは足音が追ってくるが、混乱の中で敵も思うように動けていない。荷物を抱えた商人が「裏切り者!」と叫ぶ声が聞こえた。


 そんな中でも飛んできた矢が風を切る。ここは危険だ。魔術の詠唱をするよりただ走る方が生き残る確率は高いだろう。


 護身用のスクロールを持っておけばよかった。調査続きでそれどころではなかったのが悔やまれる。土壁の一つでも作れれば通路を塞いで安全に逃げられただろうに。


「こっちに!」


 ルカに手を引かれ狭い道を駆け抜けながら、私は後ろを振り返った。追手の中に、影の市の商人らしき男がいる。まさか、内部の誰かが襲撃者に加担している?  それとも影の市そのものを潰す気?


 それに今かすかに見えた銀色の髪は――もしかして、シグベル? 心配と嫌な予感で心臓がドクドクと音を立てる。


 しかしそれについて思考を巡らせる暇もなく、ルカが私を強く引っ張った。口元はわずかに笑っているが、その目には焦りが滲んでいる。


「考えるのは後!  まずはここを抜けましょう!」


闇市の外へ続く道は、すぐそこに見えていた。


――――――――――


 暗い路地を抜け、夜の冷気が肌を刺す。ようやく影の市を出たのだ。息を整えながら、私は背後を振り返る。遠くにはまだ火の手が上がり、人々の悲鳴や怒号が響いていた。あの場から抜け出せただけでも幸運と言える。


「……無事に逃げられたみたいですね」

 

 ヒルダが静かに言う。


「いや、まだ油断はできませんよ」


 ルカが辺りを見回しながら、短剣を抜いて警戒している。私も慎重に呼吸を整えながら、木箱をしっかりと抱えた。敵が誰なのかもわからない以上、気を抜くのは早い。


 ——だが、その警戒すらすり抜けるかのように、声が響いた。


「お嬢さん、なかなかやるじゃないか」


 一瞬で緊張が走る。ルカが素早く身構えたが、声の主はすぐに両手を上げて見せた。


「ご挨拶だよ。そんな怖い顔しないでくれ」


 黒ずくめの男が、壁際の影から姿を現す。影の市で会った女と似たような仮面をつけていた。身のこなしにはどこか洗練された雰囲気がある。クレイヴの手下だろうか。


「これは預かりものだ」


 男は私に小さな封筒を差し出した。受け取ると、蝋で封がされており、そこには見覚えのない紋章が押されている。


「読めばわかるさ」


 そう言い残した男は身を翻し、闇に紛れるように消えていった。私は静かに封を切り、中の紙を広げる。そこに書かれていたのは——


『箱を一晩開けずに守り抜け。それができたなら、次の取引に進もう』


 たったそれだけの内容なのに、どうしようもなく不吉な響きを感じた。差出人の名はない。しかし、誰が書いたものかは明白だ。


「クレイヴ……」


 ルカとヒルダも手紙を覗き込み、それぞれ意味ありげに息をつく。


「一晩ですか……簡単なようで難しいかもしれませんね」


 ヒルダがぼそりと呟く。


「どのみち、ここで考えてても仕方ないでしょう。早く戻りませんか?」


 ルカが促し、私たちは足早に屋敷へと向かった。

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