第1章

第1話 降伏

 時は十年前に遡る――。



 十八の松華は、生まれてはじめて、生まれ育った王宮の床に平伏していた。


「賢明な判断をしていただき助かりました」


 湫紫瑶しゅうしようが、物腰だけは柔らかく松華たちに声をかける。


 目の前で、王座を奪われたてんおうが、松華と同じく、跪いている。その兄の背中が、微かに震えていた。怯えているのだ。


 松華の肩にも、重々しく冷えきった空気がのしかかる。


 雪深い巓の冬にも耐える石造りの王宮は、松華の知らない物々しさに包まれていた。


(この男、一体なにを企んでいるの……?)


 わずか顔を上げ、自分達から王座を奪った男を見上げる。


 湫紫瑶。年は、松華より四つ年嵩で、二十二。

 ずい帝国の第二皇子で、名軍師として、その名を馳せている。

 今回の行軍では、皇帝の命で、将軍として自ら兵を率いていた。


 事前に松華が手勢を使って集めていた情報によると、紫瑶自身は武道の才には恵まれず、学問に明るく兵法に詳しい。

 政にも長じ、病がちな父帝を助けているという。


 瑞の皇太子で、兄の湫緋琬しゅうひえんとは対照的な男だ。

 緋琬は、瑞を帝国に押し上げ、「武神」と称えられる先々帝の生まれ変わりと賞されるほどの生粋の武人。

 彼が軍を率いて各地を平定し、瑞の繁栄は留まるところを知らない。

 その評判は巓にも届いている。

 

 一方の紫瑶の評判は、兄から一段落ちる。


 兄が華々しく敵国を征服するのに対して、紫瑶は

 たしかに紫瑶は細身で、体つきは頼りなく見える。しかし、華やかさこそないが鼻筋が通った整った顔立ちをしているし、たれ目がちの目元と、透き通った鳶色の瞳は彼の聡明さと慈悲深さをうかがわせた。

 松華の目には、彼は、皇子としての威厳を十分に備えた人物に映った。

 怯みのない松華と違い、兄王のぎょうこんは、絨毯に擦りつけんばかりに頭を下げて震えている。


「……我々が降伏したのは、いたずらに民の血を流すことを望まなかっただけ。ただ国を明け渡す訳には……」


 尭根が、一言一言を絞り出すように紫瑶に意見した。


「では、どうします? 王族の首でも差し出してくれますか? それならそれで、瑞としては一向に構いませんが」


 わたしたちの背後に立っていた紫瑶の副官が、剣を抜いた。

 こんなものはただの脅しだ。松華は内心で皇子の仕掛けた茶番をせせら笑う。松華たちを殺すつもりなら、とうにそうしているはずだ。

 生かしているのには、何か理由がある。

 しかし、兄はそう思わなかった。尭根の顔から、ボタボタと大粒の汗が落ち、絨毯を汚す。

 湫紫瑶は、策士だ。このままでは、気弱な兄は、この男のいいようにされてしまうだろう。

 松華はいてもたってもいられず、声をあげた。


「我々の命を差し出せと言うのですか」


 紫瑶の視線が、松華を捕らえた。

 紫瑶は、何故だかと嬉しそうに、玉座から立ち上がった。


「これはこれは、噂の『姫丞相ひめじょうしょう』殿ですか」


 踊りださんばかりの軽い足取りで、松華の前までやってくる。


 「姫丞相」というのは、松華の異名だ。庶出で宮廷での立場の弱い兄を補佐するうちに、世間がそう呼ぶようになった。


 遠く瑞国まで知れているとは思っていなかったが、この名を知られているということは、この敏い男にも松華が政に携わっていたことも知られているということだ。


 この男には、松華と話をするつもりがあるのかもしれない。

 紫瑶は、松華の目の前にしゃがみこんだ。


 そして、先ほどの兄王への残酷な戯れ言が嘘のように、慇懃な仕草で松華と視線を合わせる。


 そして一つ一つ丁重に松華に言い含める。


「ご心配なさらないでください、鵲公主じゃくこうしゅ殿。巓はこのまま、私の統治下に入ってもらいます。王族は政治から手を引き、瑞が与える禄で生活するのです。誰も処刑などしませんよ。貴族も同じく。これが嫌ならば、私の臣下になってもらう道もあります。

働きによっては、巓国の恩給よりも遥かに多い報酬を得るでしょう。悪い話ではない。瑞に逆らわなければ、誰も血を流すことはない。あなたが恐れることは、何一つ起こりません」


 何一つ安心できない。

 話を聞けば聞くほどに、不安が膨れ上がる。降伏させる国に、こんな好条件を提示するはずがない。

 松華は、息もできず、ただ、彼の瞳を見つめ返していた。

 紫瑶が、微笑む。


「しかし姫君、これは、あなたが私の提示する条件を飲めば、の話です」


「その条件とは?」


 乱れそうになる呼吸を必死に押さえながら、松華が問うた。

 湫紫瑶が、柔和な笑みのまま、松華の右手をとる。

 そして、その右手を、両手でしっかりと包み込みながら、こう言った。


「この私、湫紫瑶の妻になるのです」


 鳶色の瞳が、松華を見つめている。

 しかし、その瞳の奥は、破格の条件の真の意図は、松華には読めない。


(どうして――)


 松華をそこまでして妻に望むのだろうか――?


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