第35話 不穏

 教室に戻ると、穂香の姿はなかった。


 昼休みが終わるチャイムが鳴るまで、もうあまり時間がない。

 だから、穂香が先に教室へ戻ったとしても、不思議ではなかった。


(……教室に戻っただけ)


 そう思いながらも、胸の奥にわずかな違和感が残る。

 何かがおかしいわけじゃない。何かが変わったわけでもない。

 でも、ほんの少しだけ、落ち着かない。


 その感覚の正体が何なのか、はっきりとはわからない。

 考えすぎだと自分に言い聞かせながら、私は自分の席に座った。


 窓の外を眺める。空は相変わらず穏やかで、ゆるやかに雲が流れていた。


(……気のせい、だよね)


 そう頭の中で繰り返しても、心のどこかに、言葉にならない引っかかりが残り続けていた。



 ────



 放課後、私はそのまま穂香の教室へ向かった。


 穂香とは一緒に帰るはずだった。

 だから、迎えに行くのもいつもの流れのはずで——そのはずなのに。


(……いない)


 扉の横から中を覗く。何人かの生徒はまだ残っていたけれど、その中に穂香の姿はなかった。


 席も、教室の隅も、何気なく視線を滑らせる。

 けれど、どこにも見当たらない。


(おかしいな)


 ふと、スマホを取り出し、穂香にメッセージを送る。


『もう教室出た?』


 送信ボタンを押し、画面を見つめる。

 だけど、数秒待っても、通知は変わらなかった。


 目の端で、少しずつ教室の中の人数が減っていくのが見える。


(もう帰ったのかな)

 

 スマホをしまい、踵を返す。


 夕方の廊下は、少しひんやりとしていた。教室から漏れる話し声も、昇降口に向かうにつれて少しずつ遠のいていく。


 足音だけが響く中、胸の奥にわずかな違和感が残る。


(……なんだろう)


 穂香が昼休みに黙って教室へ戻ったことを思い出す。


 あのときも、何も言わずに姿を消していた。

 そして今もいない。


 そう思うと、どこか嫌な感じがした。

 だけど、その理由はわからない。


 考えたところで答えが出るわけでもなく、私はそのまま校門を抜け、家へと向かう道を歩き出した。



 ────



 家に着くと、ドアを開け、靴を脱ぎ、静かに扉を閉める。

 そうして部屋に入ったその瞬間——


 「えっ——」


 強い力で背中を押され、体がぐらついた。

 まともに体勢を立て直すこともできないまま、私は床に倒れ込む。


 目の前の景色が一瞬だけ揺れた。

 状況を理解する前に、何かが覆いかぶさってくる感覚。


 近くで微かに息遣いが聞こえる。

 かすかに香るのは、馴染みのある匂い。


「……っ、穂香?」


 息を呑んで、名前を呼ぶ。

 けれど、返事はなかった。


 ただ、じっと私を見つめる、深い瞳。

 目の前にいる穂香は、微笑むことも、甘えた声を出すこともなく、ただそこにある感情だけを滲ませていた。

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