第30話 探り
教室に入ると、私は自分の席へ向かった。
荷物を机の上に置いて、何気なく椅子を引く。
「……おはよう」
不意にかけられた声に、私はそちらへ視線を向ける。
詩織だった。
彼女は私の席のすぐ横に立ち、じっとこちらを見ている。
私は軽く頷きながら、「おはよう」と返した。
それだけで済ませようとしたが、詩織は私を見つめたまま、どこか引きつった表情を浮かべていた。
「……結菜ちゃん、それ」
そう言いながら、詩織は私の首元を指差す。
私は一瞬、何のことかわからずに首を傾げた。
しかし、何のことを言っているのかはすぐにわかった。
——ああ、痕か。
穂香が朝、何度も唇を押し当てた場所。
首筋にじんわりと残る熱。
私は指でそっとそこをなぞり、何でもないように返した。
詩織の表情が、一瞬だけ強張る。
「それは……白石さんが……?」
少し探るような声色だった。
私は特に隠すつもりもなく、ただ「うん」と頷いた。
その返事を聞いた瞬間、詩織の眉がわずかに動く。
口元が一瞬引き結ばれたかと思うと、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。
「……そうなんだ」
短く返した詩織は、何かを考えるように視線を落とす。
「……結菜ちゃん、この前言ったよね? 白石さんと距離を取るって」
その言葉に、私は目を瞬かせた。
たしかに、そう言った。詩織にそう提案されて、私はそれを受け入れた。
けれど、それは穂香を束縛しないための選択だった。
離れることが目的じゃない。
「うん、前はそう言ったね」
私はゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、これは?」
詩織は私の首筋を指で示しながら、僅かに顔を傾ける。
その目は冷静で、どこか観察するような色を帯びていた。
私は特に動じることもなく、ただ「別に」と短く答えた。
詩織の視線が、わずかに鋭くなる。
「……別に?」
「うん。束縛をやめるからって、距離を取る必要はないと思っただけ」
私がそう言うと、詩織は少しだけ目を細めた。
「……ふぅん」
短く息を吐いた彼女は、何かを吟味するように私の顔をじっと見つめる。
だけど、何を考えているのかは分からなかった。
私は詩織のそういうところが、ちょっと不思議だと思う。
そっけなく返していた私に話しかけてくるのも、相談に乗ってくれたのも、どこか変わっている。
けれど、困るようなことではないから、私はあまり気にしていなかった。
「ま、結菜ちゃんがそう思うならいいんだけど」
詩織はすぐに表情を和らげ、いつものように微笑む。
その顔を見て、私は「うん」とだけ返した。
それで会話は終わったと思ったのに——
「でも、もう少し余裕を持った方がいいんじゃない?」
詩織がそう言った瞬間、私はふと動きを止めた。
「余裕?」
「うん。結菜ちゃん、前よりは穂香さんを縛らなくなったみたいだけど……それでも、こういうのって、結局束縛の一種じゃない?」
指先が、私の首筋の痕をなぞるように示される。
その動きに、私は少しだけ眉を寄せた。
「別に、私からねだったわけじゃないし」
「そうなの?」
「うん」
私は穂香のことを思い出しながら、自然と笑みを浮かべる。
朝、名残惜しそうに私の肌に唇を落としていた姿。
寂しそうに「もうちょっと」と呟いた声。
そういう全部を思い出して、私はただ「大丈夫」と言った。
詩織は何かを言いたげにこちらを見ていたが、それ以上追及することはなかった。
「……そっか」
彼女は静かにそう呟くと、少しだけ微笑んでみせた。
だけど、その笑みはどこか曖昧だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます