水色
@Myaaaa9669
水色
恋(こい)とは
1. 人、土地、植物、景色などを思い慕うこと。めでいつくしむこと
2. 人や物事に特別の愛情を感じて思いして慕うこと。
3. もっぱらその病に罹った人間は後先を考えずに行動するようになる。
4. あとついでに周りも見えなくなるらしい。
5. 一言でいえば盲目になる。
6. 依存する人間も多いんだとか。
7. 私はそんな風になりたくないけど。
8. 恋なんかに罹る人間はもうちょっと楽しいこと探した方がいいと思う。
9. とりあえず、私はそんなのに惑わされないから。
足音、笑い声、机を叩く音、笑い声、誰かの名前を呼ぶ声、聴いたことのある音楽。
これは確か先月EPを出したメジャーバンドの曲だ。キャッチーなメロディーと無駄に尖った歌詞がTiktokでウケて、今まさに『バズっている』アーティストだ。
ライブハウスのくせにSEにこだわりとかないのかよって思うけど、スタッフさんもこんな三流バンド達の打ち上げなんて早く終わってくれとしか思ってないだろう。
かくいう私もまったく同じ意見なのだが、なまじ遠くのライブハウスまで来たせいで機材を運ぶ足がなく、この場からエスケープしようにも出来ない状況だ。さらに、その足の運転手である松本は別バンドのベースにツーフィンガー奏法のアドバイスを受けている最中で、あの様子ならあと1時間は覚悟した方が良さそうだ。
まぁ、今日のあいつのベースに関してはリズムキープがブレブレでフィルはガチャガチャという、聞くに堪えないものだったからアドバイスを貰って上達しようという心意気があるのなら上等だろう。ただ、あいつが今その男に向けている、相手の性欲をこちらへ向かせようと媚びへつらった表情をベースのニュアンスに生かすことでも出来たらそれだけでもっとマシにはなると思うけど。
「てかあんたカレシいるでしょうが」
今更指摘するのもアホらしいような小言がため息の代わりに零れる。
当然、あいつが二股しようがそれで恋人の仲が悪化しようが私には知ったこっちゃない。過去に一度、そういった男女関係の愚痴に付き合わされたことがあるが、たまらず「自業自得でしょ」と吐き捨てた経験から、こいつに相談してもロクな回答はないと学んだらしく、以降私に恋愛関係の話を振ることはなくなった。
「ほんとに、ちょっとはオトナになってほしいよねー」
そう言いながら私の隣に勢いよく腰かけたのは私たちのバンドのドラムを担当している長谷川だ。
だれにも聞こえないくらいの声量だと思ったのだが私の小言が聞こえたのか、それとも私と同じことを思っていて一緒に不平不満を分とうとしたのか。どちらにせよこんな爛れた場の空気にこういう比較的まともな感性の人間がいると助かる。
「それに知ってる?今松本としゃべってるアイツ。ファンの未成年に手出しまくってるらしいよ」
長谷川がキョロキョロと周りを見回しながら私に耳打ちする。さながら井戸端会議で近所の家庭事情を共有する主婦といった雰囲気だ。
「あいつ今のカレシもクズなんでしょ?そういう奴が好きなんだろうね」
私が松本のカレシについて知っているのは長谷川から話を聞いていたからだ。
長谷川は噂話が好きで、松本の聞くに堪えない愚痴を私の代わりに喜んで受け止めてくれている。そして聞いた話をほかのコミュニティで会話の種にするという、「嫌な女子ムーブ」を繰り返しているのだが、長谷川はあくまで第三者としてしか話に登場しない分、余計な感情論や偏った情報がなくてまだ話せるほうの人間だ。
「絵にかいたような依存体質だよ、あれは」
「依存、かなぁ」
「依存だね。そいつと一緒に居ることの9割辛いことでも、離れた方がいいって分かっていても、偶にある1割の快感が忘れられなくって。だからあの手この手で幸せの総量を増やそうと色んな男に手を出してみたりするんだろうねー」
長谷川がたまに達観ぶったことを言うのだが、私はそれが好きじゃない。人を分析して割と本質的なことを分かっているのに、本人の前ではへらへらと笑って寄り添ったふりをしている。気になることがあるなら本人に直接言えばいいのにってずっと思っている。
「幸せの総量が増えるたびに辛さの総量も増えるって気づかないんだよ。そういう盲目状態が“依存”」
長谷川は言いたいことをひとしきり言うと「知らないけどねー」と呟きながら席を立つ。
「アタシ明日仕事だから帰るけど、水本は?アンタもバイトあるって言ってなかった?」
高校を卒業してから入った会社には馴染めずにフリーターとして不安定な生活を送る私とは違い、長谷川は高校を卒業してすぐに就職して会社員をしながら細々とバンド活動を続けていた。
ライブハウスでバーカンのバイト中、演者として来ていたところに私が声を掛けて引きずり込んだのだが、そのおまけとしてもともと長谷川と交流があった、大学の軽音サークルに所属している松本もついてきたというわけだ。もともとスリーピースで考えていたし、いいベースが見つかり次第松本は解雇してやろうと思っていたが、コミュ障の私と社会人で忙しい長谷川の代わりにブッキングとかで一役買ってくれているところもあり、我々はそのままズルズルとバンド結成から1年が経とうとしている。
「私も帰る。ボードだけ松本に持って帰ってもらうわ」
「小さくしなよ、ボード」
「小さくしてこれなの」
小学生低学年の体重くらいはありそうなそれを気合で持ち上げる。重さの割にはあまりに頼りないソフトケースのストラップが肩の肉に食い込んで、ズキズキと痛む。
私の働いている古着屋は駅前の大きな商業施設の一角に位置している。うちの店は個人がやっている、いわゆる硬派な古着屋ではなくてライト層に向けたような服を置いているチェーン店だ。もちろん、その分商品に対するプライドとか仕事のモチベーションは皆無に近いのだが、ここのメリットは何より自由なことだ。店長には接客で商品をお勧めするようにと言われているが、不在の時はレジと簡単なメンテナンスだけこなしていれば、あとは携帯でも触って時間が過ぎるのを待つだけ。これで時給1300円なら上等なバイト先だろう。しかも、普段店長はECの運営作業で手一杯らしく、店先に現れる時間はほとんどない。
「水本さん今日9時間ですよね?休憩行きました?」
「まだだね、じゃあ先に休憩頂いちゃっていい?」
「分かりました!行ってらっしゃい!」
今日は大学生1年生の希ちゃんとシフトが一緒だった。服が好きという理由でここに入ってきたらしい。こんなピックのこだわりもないような店に入ってしまったのだから、かわいそうだ。と最初は思っていたのだが、彼女の普段の服装を見た感じ、特段服装にこだわりがある人というようには見えず、おそらく古着屋で働くこと自体に憧れがあったクチだろう。
希ちゃんの服装を目線の動きだけで確認する。ダボっとしたオーバーサイズのスウェットにこれまた大きめのデニム、頭にはビーニーで足元はエアフォース1という、まさにテンプレートな大学生女子といった格好だ。そんな一見ファッションに無頓着に見える風貌でもここに採用されたのは、おそらくその端正な顔立ちのお陰だろう。パッと見、海外の血を感じるほどはっきりとした鼻筋にぱっちりとした目元、それに小動物のような愛嬌を感じる小さな身長はアラサー独身男性である店長のハートを射止めるには十分だ。
「てか首のそれかわいい!ネックウォーマーですか?」
「これね、バラクラバ。フードみたいな」
暑いからと首にかけていたそれを頭に被って見せる。
ちなみに私も希ちゃんに関して、マイナスな印象を持っている訳じゃない。この手の女は八方美人で腹は真っ黒みたいなのが世の常だと決めつけていたが、半年も経とうというのに未だ素直でいい子にしか見えないものだから、私も彼女には“いい子”として人物像を確立してしまった。もしかしたら私たちには見せていないドス黒い一面があるのかもしれないが、これから深い関わりを持つわけでもないし私に対してその面だけ見せてくれるのならそれに越したことはない。
「マフラーでも似たようなことできるからやってみなよ」
「そうなんですか!?巻き方教えてください!あっ、今から休憩でしたね、戻ってきてからで!」
「いいよ。帰ってきたら教えるから、そこら辺から選んどいて。幅太めのがいいかも」
マフラーが乱雑に並んだラックを指さしながらそう答える。
休憩の時間はモールの外に行って時間を潰すことが多い。別に私は外が好きとかそういう訳ではなく、むしろ根っからのインドア派なのだが、建物の中に仕事というタスクで縛られ続けるのが苦痛なのだ。だから敢えて言うなら店舗の敷地から出て従業員用の通路を通り、モールの外に出るその瞬間に意味がある。この行為はこれからまた店に戻らないといけないと頭で分かっていても、気休めには有用だ。
モールの従業員用出入口から右に真っすぐ行くと小さな公園がある。公園といってもマンションの敷地内にある、三つ又の滑り台が一つ置かれただけの本当に簡単なものだ。大体私はそこに行く途中の自販機で小さいサイズの飲み物を買って、ベンチに腰掛けながらゆっくりと飲むのがルーティンだ。ちなみに今日選んだのはちみつレモンの温かいやつ。別に特別この商品に惹かれたわけではないが、12月の気温で冷たいものは流石になしだと思って、温かいものの中からもともと好きじゃないコーヒーと面白くない緑茶を避けたら必然的にこれになった。
公園に来たからといって私がやることは休憩室でも出来るようなことだ。ベンチに腰掛けると、イヤホンを付けて音楽を聞きながら無料で公開されている漫画を流し読みする。
漫画アプリのホームには、毎週更新される連載のものと新しく公開された読み切りの漫画がずらりと並んでいるが、その多くが学生などの若者を主人公とした話だ。もちろんその背景には若くてかわいい、かっこいいキャラクターの方が見栄えがいいとかいろんな理由があるのだろう。しかし読んでいて考えるのは圧倒的に若者、もっと言えば学生とかの方が物語を作りやすいのだろうなということだ。例えば超能力が出てくるバトル系の漫画だったら、そこには未成年特有の無鉄砲さや様々な未経験のことに直面して成長する主人公が描かれる。そして彼らの“純真無垢さ”のために大人の言い分がダシとして利用されることもしばしばだ。
そんな描写を見るとたまに身震いしそうになる。まるで大人になると価値観が腐ると言われているようだから。
世間では大人になりかけの時期を「モラトリアム」なんて言ったりするらしいが、わざわざ横文字の名称を付ける感じがうまく言い表せないけど、大人からの嫌味に思えるのは私だけだろうか。
辺りを見渡すと、私と同じく休憩中であろうスーツを着た若いサラリーマンと子供を連れた母親がいるだけで、公園には子供の遊ぶ声だけが響いている。
ふと、座っていたサラリーマンと目が合う。慌てて目を逸らしたが相手は何かに気づいたようで、ベンチから立ち上がり懐疑的な表情でこちらに向かって歩いてくる。
「違ったらごめんなさい、水本さんですか?」
「はい、そうですけど」
スーツ姿の人間にかしこまった態度で話し掛けられると、社会をまともに経験していない私は恐縮してしまう。
「だよね!えっ、俺分かんない?柏倉だよ」
「え?あっ!」
目の前の男性の顔を凝視してようやく気付いた。柏倉だ。彼とは高校3年間同じ軽音部でバンドメンバーとして親友と言っても差し支えないほどの友人だった。
久しぶりの再会に動揺しつつ、柏倉の全身を見渡す。高校時代の柏倉は坊主頭でとにかく田舎者といった感じだったのだが、今の風貌は短髪をジェルかなんかで固めて眉毛も細めに整えたいかにも都会のエリートサラリーマンといった感じだ。
「ごめん、あまりに変わってるもんだから気が付かなかった」
「そっちこそ髪染めてるせいでパッと見、分かんなかったわ」
かくいう私も上京する時に気合を入れてブリーチで髪を真っ白にしてしまったのだが。しかも昔のショートヘアなり損ないおかっぱ頭からかなり伸ばしているから、遠目で判断できないのはお互い様だったのだろう。
「なんで平日の昼間にこっち居るの?地元で就職したんじゃなかったっけ?」
「いや研修終わって配属がこっちになったんだよ、今はこっちで働いてる。松本はここら辺で働いてんの?」
「そー、今休憩中」
「そっか、俺もそうだわ」
柏倉が私の横に腰掛ける。昔は多少距離が近づくくらい当たり前で何とも思わなかったのに、その雰囲気の変わりように、まるで初対面でもぐいぐいとこちらのパーソナルスペースに踏み入ってくる無礼なタイプの人と話しているのかというほど緊張をしてしまう。
「てかなんで連絡してくれなかったの?こっち来てたなら教えてよ」
「いやーなんか恥ずかしくて。高校時代の友達に連絡取り続けるのってなんかかっこ悪くない?」
「ぜんぜんそんなことないし。だとしても『東京引っ越したんだ』くらい許容範囲でしょ」
「確かになー」
「なにその適当な返事。LINEも返信しないし。卒業してすぐに何回か送ったでしょ?」
柏倉は「はは」と気の抜けた笑いをこぼしながら手元の缶コーヒーを啜る。
久しぶりの再会に水を差したくないと思い、おどけたように指摘したことだが内心はすこし怯えていた。
こっちに来てすぐの頃、当たり前にお互いの近況を報告しあうものだと思っていたのだが、柏倉からの返信はなかった。当時は寂しい思いをしていたし、何なら今でもたまに思い出しては切ない気持ちになっていた。
何を思って生きているのだろう。何をして生きているのだろう。そう思いを馳せるほど、柏倉の不可解な未読スルーは私の心を締め付けていた。けれどもこうやって柏倉から話しかけてきてくれたのだから、実は私を嫌っていて会っているうちは表面上だけ仲良くしてくれていたというパターンじゃなさそうだ。そうじゃないよね?
一度出してしまった思い切りをそのままにもう一つだけ質問を投げかける。
「柏倉はさ、まだギター続けてるの?」
高校のバンドでは私がボーカルとバッキングギターで柏倉がリードギターを担当していた。中学に入ってすぐからギターに触れていた私は高校で軽音部に入った瞬間には、先輩たちを差し置いても誰よりも上手いだろうという自信があった。しかしその幻想は入部直後の楽器説明会で出鼻をくじかれることになった。
同じく新入部員として参加した柏倉が先輩の機材を借りて演奏したそれは、たとえ音楽に対しての造詣が無に等しい人でも見分けがつくほど圧倒的で、新入部員はもちろん3年生の先輩も思わず感嘆の声が漏れてしまうほどだった。いいや、今思えばあれは感嘆じゃなくて落胆のため息だったのだろう。新入部員たちにちょっとでもかっこをつけようと気張ってきたのにこんな実力の1年生が入ってきたとなれば上級生からしたらこんなに面白くないことはない。聞くところによると、柏倉は幼小期からジャズ講師である父親の影響でギターに触っており、音楽に関しては格が違う環境も期間が備わっていたのだ。
小手先でどうこうすることの出来ない、圧倒的実力差に対して当時の私は純粋な対抗心を燃やすことすら出来ず、環境に対する嫉妬と僻みを抱えて不貞腐れるのみとなっていた。
そんな私に柏倉はぬけぬけと「水本さん経験者でしょ?バンド組もうよ」と声を掛けてきた。
嫉妬が対抗心に変わったのはその時からだった。
その口ぶりだけでなんとなく伝わる、「ちょっとでもマシな奴をメンバーにしてせいぜい自分の足を引っ張らない演奏をしてくれ」という腹の底の思惑は私のボロボロのプライドを突き動かし、いつかバッキングで歌わせてやるという野望を生み出した。私はバンドの加入を二つ返事で承諾した。
それからはあまり覚えていないけど、いつの間にか私たちは下の名前で呼び合うほどの仲になっていた。好きなバンドの話やギターに関する話題。先輩の愚痴やほかのバンドメンバーへの愚痴など価値観が似通っていたのだろう。
ギターにのめりこむ人間にはある程度人間性的な共通点があるのかなと、最近思うようになった。だから柏倉がギターを続けているかどうかは今の私との親和性を測るための、ランキング上位の関心事だ。
少し間を空けて柏倉が口を開く。
「まだやってるよ。最近は忙しいけど、休日とかはたまにアンプ繋いでる」
「だよねー」
よかった。と続く言葉をなんとなく飲み込む。
音楽活動を続けてくれとは言わないから、趣味でも楽器に触れていてくれていたらそれでいい。
「松本はまだ音楽続けてるんでしょ?バンド組めた?」
「組んでるよ。先週もライブあった」
「すげーじゃん、駅前で寂しく弾き語りでもしてると思ったわ」
「それなりに頑張ったんだよ、私も。まぁ妥協して集めたメンバーなんだけど」
「なに?やっぱうまくはいってないんだ」
うまくはいってない。メンバーの技術は微妙だし、製作にしてもまだEPの一つも出来上がっていないのだから。
「これからだよ」
さっきの仕返しと言わんばかりに私も適当な返事でお茶を濁す。
「音源ある?聞かせてよ」
「まだライブの録音しかないんだよね」
「全然いいけど。エアドロでいい?」
「いいけど、結構ひどいよ」
あんまり意味ないだろうけど、一応ハードルは下げておくべきだと判断した。スマホを取り出してデータに保存されている音源を『柏倉 iPhohe』宛に送る。
高校の時にオリジナルをやろうってなったときには柏倉が作曲を担当してくれていた。その過程で柏倉から学んだ音楽理論を基に私が作曲に一枚噛むこともあったが、完全に私の作詞作曲を聞かせるのは初めてだから流石に緊張が隠せない。
柏倉は自分のスマホにデータが転送されたのを確認すると「やばい、そろそろ行かないと」と言って立ち上がり、急ぎ足で公園を後にした。
遠くなる後ろ姿が角を曲がって見えなくなった頃、手元のはちみつレモンは冷え切っていた。親子も気づかないうちに帰宅したようで、公園には近くの線路から電車が通る音だけが聞こえる。
吐く息が白んで、丁度今日の空とおんなじ色になっている。試しに空に向かって「はー」と息を吐き出してみると、私の息で雲を作っているみたいだ。
ぼうっと雨でも降りそうな空を眺めていると、ポケットのスマホからピコンと通知の音がする。画面には懐かしいあのころと変わらないギターのアイコンが映っていた。明らかに実家の自室で撮ったと分かるような背景に、無駄にこだわったのであろうアングルで映る赤いテレキャスター。
去り際に「また連絡するわ」の一言がなかったのが心に引っかかっていたが、メッセージの内容を見て安心した。
『ベースゴミすぎ』
先輩の技術を批評する柏倉の顔を思い出す。人の悪口を言うのが楽しくて仕方ないみたいな、満面の笑みを。
雨は嫌いだし曇りも別に好きじゃない。出来るなら空にはいつも晴れていてほしいものだが、台風の日の夜や雪の降るクリスマスみたいな日に見る雲は快晴の青空より価値がある。
結局気分次第ってことなんだろうけどさ。
いつもならアスファルトの硬さが靴のソールを貫通して足裏に直で響くような重い足取りの休憩帰り。今ならスキップだってして見せる。
駅の北口にある雑居ビルを3階まで上がると、いつも私たちが練習している音楽スタジオがある。今日みたいな練習の時は漏れなくいつも私が一番乗りだ。ギターボーカルは色々とセッティングに時間が要るから人より早めに来るのは当たり前なのだが、松本なんかが10分近く遅刻してくるのに関しては「多めに料金払えよ」と常々思っている。
今月末には私たちがホームにしているライブハウスでライブがある。聞いたこともないようなバンドの前座だ。
声がかかったことをきっかけにその人たちに音源をサブスクで検索してみたが、なんの面白味もない、下北に溢れかえっているようなシューゲイザーバンドだった。シューゲイザーの要素は私たちのバンドでもひとつ大きな要素として取り入れているものだが、そのバンドはただうるさいギターのなかで女のボーカルが物憂げにぼそぼそしゃべるだけという、なめ腐った代物だったから一緒の括りとしてライブに誘われたのには少し憤っている。
それでもそんなバンドが私たちより知名度を持っているという事実には嫌気が差す。ただ、そのボーカルの女がいかにも男ウケしそうなかわいらしいビジュアルということは唯一の救いだ。そのおかげで「どうせ見た目で売れてる」と思い込んでどうにか平常を保っていられるのだから。
スタジオの予約時間から5分ほど遅れて松本と長谷川が同時に部屋へ入ってきた。二人とも建前上の謝罪は述べていたから、こっちもあまり突き詰めるようなことはしなかった。というより経験上、あんまり松本を追い込むと機嫌が悪くなって練習に支障を来すことになりかねない。そうなるくらいなら私が我慢しようという訳だ。特に今日の練習では初めて新曲を通しでやろうという話になっているから、普段以上に内容をこだわりたい。
ほどなくして、松本がセッティング完了を伝えるように目配せをしてきた。それを確認して私はギターの指板に目を移し、昨日何度も練習したアルペジオを爪弾く。
丁度2小節目でベースが入ってくる。ドラムのフィルを合図にブースターを踏みつけて、イントロが始まる。
今回の新曲は長谷川の「マスロックがやりたい」という意見をテーマに変拍子で進んでいき、キメも豊富に盛り込んだものになっている。
長谷川はまだしも、松本が満足に演奏できるのかが不安だったのだが、案の定ロクに弾けていなかった。それもある程度見越して、ベースのパートは簡単なものをつけたつもりだったのだが、松本は変拍子どころかただの3拍子もまともに弾けない始末で、私が松本の実力を買いかぶっていたことを理解した。松本が反面教師になってくれたおかげか、3ピースでマスロックをするときのベースの重要性が良くわかる。ベースボーカルをしていたあのバンドは本当にすごかったのだと、しみじみと感じる。
「とりあえずキメだけ確認したい」
ここで感情的に練習不足を指摘するのは生産的じゃないと思い、練習を進行する。今は松本が完璧に弾けるようになる前提で全体の完成度を高めるのが得策だ。
「1Bからサビ入りの3連符がグダってるから、そこ合わせたいね」
「え?合ってなかった?いい感じだと思ったけど」
「松本が若干ずれてた」
「まじかー、まじでごめん」
そういうと松本は大袈裟に私の前に手を合わせて見せたが、そういうおどけた態度は私の神経を逆なでするから控えてほしい
「とりあえず既存曲合わせない?新曲も一応通ったは通ったし」
長谷川が会話に割って入ってくる。長谷川も松本の練習不足を察した様で、新曲を今日完成させるのは厳しいと考えたみたいだがそんなのは甘すぎる。
「でも今日は新曲合わせる日って前から言ってたじゃん」
「前からって3日前じゃん無理だよー」
「長谷川と私は出来てるじゃん」
「そうだけどー」
松本が不貞腐れた態度で両腕をプラプラと振り回す。
顔が苛立ちで熱くなってゆくのが分かる。だからなんで迷惑かけてるのにそんな余裕そうなの?私だって気持ちよく練習したいんだから、反省を態度で示してくれたらまだやりようがあるのに。
「確かに3日で新曲仕上げるのは厳しいよね。私はたまたま時間あったからできただけだし、しかもまだ全然詰めれてないよ」
だから甘いんだって、長谷川は。
「そうだよね!私はサークルの曲も覚えなきゃだし、ほんとに時間なかったんだよ!」
松本の「味方を見つけた」というようなリアクションが鼻につく。まるで兄弟喧嘩中、母親にかばって貰っている弟だ。
「なら先にそう言ってよ。あとサークルとこのバンドだったら優先順位はこっちが上だからね?」
あえて突き放すような冷たい口調でそう答える。私はあなたの母親じゃないし、分かりやすいあざとさでうっかり優しくしてしまうようなバカな男とも違うという意思表示が伝わればいいのだが。
「そんなん言ったって仕方ないでしょ?松本が次までに仕上げればいい話じゃん」
そんなことは分かっている。でも当事者である松本がこの態度なのだから、自分の機嫌を調整するために悪態の一つや二つ吐かせてほしい。それにここで甘い対応を取って、次の練習でも同じような言い訳をされてはたまらない。
「長谷川の言う通りだと思う。ちゃんと仕上げれなかったのはごめんだけど、今は出来ることやるのがいいんじゃない?」
松本の言動すべてが私の神経を逆なでする。どの口が言ってんの?アンタのせいで今練習止まってるんですけど。
確かに松本の言う通り、ここで黙って既存曲を詰めていくのは今の状況では正しい判断かもしれない。けど、「そんなに怒っても何も出ませんよ。過ぎたことは仕方がない!」というような正論を振りかざすのは被害者側の特権だ。
それに、「仕上げれなかった」っていうところも私は一応頑張ったんですーという努力アピールが垣間見えて、益々私の機嫌を損ねる。
「それ、あんたが言うことじゃないでしょ。合理性を盾にしないで」
「…なにその言い方」
つい頭で渦巻いていた強い言葉が零れ、松本の表情から笑みが消えた。
またこれだ。松本とは練習中、何かと激しい口論になることが多い。原因は分かっている。一言で言ってしまえば、バンド活動に関する意識の差だろう。
私があわよくばバンドで食べていきたいと意気込んでいる間、松本はオリジナルバンドをファッションアイテムとして自分を着飾るアクセサリーのように利用している。先日の言動を見るに、そのアクセサリーはマッチングアプリとしても有用な様子だし。
もちろん、こうやって揉める度に意識の低さを指摘してきた。でも、その度によぎるのは、その矢印が松本だけじゃなく、長谷川にも向いていないかどうかだ。
松本はまだしも長谷川は社会人としてバンド活動をしながらまっとうな人生を送っている。長谷川はもしバンドが無くなったとしてもせいぜい大きな趣味が一つ減った程度で、「数か月も経てば気にも留めない思い出になるでしょ」くらいのモチベーションかもしれない。
私と違って。
私が感情に任せて放った言葉がバンド内の意識の格差を暴き、それによって最悪解散にまで発展してしまったら、それこそ避けるべき事態だ。
何度か長谷川とは「もし売れたら仕事辞めたい」みたいな話をしたことがあるが、その実態は決意表明なんかじゃなくて、その場で会話を流すためだけに突いて出たような軽口ばかりだった。私たちは想像以上に脆い集団なのだ。
「その場しのぎみたいなこと繰り返しても、クオリティなんてたかが知れてるでしょ」
それが分かっていても、上がりきってしまった怒りのボルテージを下げることが出来ない。
「時間ないなか睡眠時間削ってやった練習がその場しのぎなの?」
「人様に見せるもんなんだから結果が見られるのは当然でしょ、サークルと一緒にしないで」
なんでだろう。松本に対しての叱責なら自分でもびっくりするくらい舌が回る。
「はい、水本言い過ぎ。今もスタジオ代はかかってるんだよ」
長谷川がパンと手を鳴らして会話を遮る。
どう考えても悪いのは松本なのにまるで私がこの空気にした元凶かのようにその言葉は私に対して発せられていた。
「長谷川はなんで松本の肩を持つの?ここでちゃんと言っとかないと、こいついつまでたっても学ばないよ」
「バンドメンバーをこいつって言わないで。」
私が言葉を重ねるたびに、長谷川の口角が徐々に下がっていくのが分かる。元々場の空気を暗くしないために張り付けた笑顔なのは分かっていたけど、だからこそ私が松本に向けていた怒りを長谷川にぶつけるたびにその仮面がはがれてゆく。
「だから…」
「あのさぁ」
長谷川がため息の混じった、呆れた声でつぶやく。普段の快活な長谷川からは想像できない低い声。
怒っている。私に。
滅多に機嫌を開示しない長谷川が纏う負のオーラに松本も怖気づいた様子で縮こまっている。
「さっきからなに様なの?水本は」
長谷川が何に怒っているのかはなんとなく分かる。それは場の空気を険悪にしたことなんかじゃない。きっと私が調子に乗っていることに怒っているのだ。私が曲を作ったから、私が既に弾けるからまだ弾けない人には何を言ってもいいと、そういう私の考えが透けてしまったのだろう。
でもそれは勘違いだ。
「バンドメンバーなんだから対等でしょ?さっきから聞いてると、どう考えても上から目線だよね」
違う。対等なんかじゃない。バンドにはリーダー的な存在が必要だ。そしてそれは必然的に曲を作る私になる。一番熱があるのも私だ。
私はこのバンドのリーダーとしてバンドが良くなるように最善を尽くしてきたつもりだ。バンドの方向性について話し合ったこともある。その結果私たちはクオリティを求めていこうっていうことにもなった。だから練習をしてこないメンバーがいたら私が注意するのは当然だ。
これは順位の問題じゃなくて役割の問題だ。ただしその役割は順位で決まる。なぜなら努力の総量なんて目に見えないんだから。このバンドでは結果としての出来栄えが評価される。それが「クオリティを求める」ってことだ。
「言い方が悪いって意味なら、松本はそれなりの態度で練習に来てほしい。私の言ってる内容自体は間違ってない」
私は間違ってない。自分を正当化するための論理が頭の中で組みあがっていく。
そうだ、長谷川は表面しか見ていない。この場の空気を気持ちよくしたいだけだ。その先のライブ会場でどんな思いをするのかまでは考えられていない。
「言い方っていうか、誰が誰に何を言うかが問題」
「じゃあ私以外に誰が言えばいいの?」
「だれもそんな強く言うべきじゃないんだよ。少なくともこの3人のなかでは誰でも」
「強く言うなって、やっぱ言い方の問題じゃん」
長谷川が呆れたようにため息を漏らす。子供のわがままを聞く母親みたいに。
「じゃあ分かった。言っちゃ悪いんだけどさ…」
そう言いかけたところで長谷川が言葉に詰まる。視線が私の目から外れて私の足元で固定される。
ふと松本を見ると彼女も居心地が悪そうに自分のエフェクターボードを見つめている。まるで長谷川がこれから何を言うのかを分かっているみたいだった。
長谷川がゆっくり口を開く。
「あんたも全然ギター上手くないじゃん」
「次のライブ行くから、取り置きしといて」
昼過ぎに起きてスマホを開くと、『13:05』という時刻の下に柏倉のメッセージが表示されていた。
メッセージの到着時刻は朝の8時で、普通の社会人なら丁度出勤中だろうか。つまり7時には起床してることになって、私は社会から実に6時間遅れで生活していることになる。
まぁこの時間に起きるのはシフトの入っていない休日だからなんだけど。
スマホを画面が下になるよう机に置いて、ひとまず布団から抜け出す。昨日歯を磨かないで寝たせいで口の仲が気持ち悪い。
洗面所に向かう途中、ギターケースが足の小指に当たってジンジンと痛む。普通はソフトケースを蹴り上げたところで痛くもかゆくもないのだが、ギターをケースに入れっぱなしにしていたせいだ。
あの日の練習以降、ギターを触っていない。前までは毎日集中して練習をしていましたって訳じゃないけど、映画とかYouTubeを見ながら手癖をピロピロと鳴らすくらいのことはどんなに忙しくても一日一時間くらいはしていた。
そのせいか、最近は動画視聴とか手が暇になる系の趣味もやる気にならない。その代わり、スマホゲームをインストールした。店長がハマっているらしい野球のゲームだが、本物の野球のルールすらちゃんとわかってないくせに暇さえあれば触っている。あの公園でもそうだ。
こういうのを自暴自棄って言うのかもしれない。鏡にはメイクも落とさず寝落ちした皮脂まみれの女が歯を磨いている。
「きっふぁね~(きったねー)」
歯ブラシを口に突っ込んだままつぶやく。
本当なら一刻も早く風呂に入るべきなのだが、今はそんなことよりお腹が空いた。
寝て、飯を食べて、たまに働いて。
今の自分が“人間”過ぎて笑える。このまま労働をセックスにすれば動物の出来上がりだ。
今の私が絶望しているのは自分に音楽の実力がないこと、にも拘らず自認は才能あふれる天才ギタリストだと勘違いしてたことに対する恥、そして私たちのバンドが「天才ギターボーカルが引っ張る有望バンド」から「へたくそが集まってやってるガールズバンド」に変わったことだ。
私を保っていたプライドはあの瞬間に崩れ落ちた。私はなんにも出来ない社不だけど、音楽だけは出来るから大丈夫って。いつか私のことを誰かが見つけてくれるって。そう信じていたのだ。
周りから見たら、へたくそな演奏をしながらステージでドヤ顔を見せびらかしていた私はさぞ滑稽だったろう。幸いMCで沢山しゃべるバンドじゃなかっただけ黒歴史貯金はましなものになっているが。まぁ、あんま変わんないか。
これまでの人生で、気分が落ち込んだ時は決まってイヤホンをしていた。音楽は私の中にある色んな悩みを包み込んで隠してくれる。そう信じていた。でもいざ音楽に牙を向かれると自分の機嫌をどうやってとったらいいのかが分からなくなる。たまに、世間の音楽に興味がない人間は辛いときどうしているんだろうと考えることがあったが、今は本当に興味がある。道端の人に「辛いときどうやって気を紛らわしますか?」って、テレビやユーチューバーがインタビューしているみたいに。
最近、昔好きだったバンドが曲を出した。悪いことをして捕まったりもしたらしいけど、新しくEPを作ったそうだ。
その曲を再生すると、かつて何万回と聴いたその声が聞こえてきて懐かしい気持ちになりなった。
でも懐かしいだけだった。
こんなにも掴みどころがないのかと落胆を超えて驚愕した。ネットの反応は「最高!」「待ってました!」といった称賛の声で溢れていたが、私はそれ以降そのEPを一度も再生していないし、久しぶりに開催されるというワンマンライブにも応募しなかった。というか、そもそも復活しようがしまいが最近の私はそのバンドを聴いていなかったのだから当たり前っちゃ当たり前なのだが、あんなに熱狂していたバンドに興味が無くなっていくのは寂しい気持ちだった。
そのバンドは歌詞を売りにしていて、私も「この歌詞を一生心に刻もう」と決めた時期があったが、今では作業用のBGMにすらなり得ない。
大人になったからというと尊大だし、文化的キャパシティが広がったというと嫌な奴だ。かといって飽きたと表現すると自分の中にある大事なものが壊れてしまいそうで考えたくない。
あの日の帰宅後、藁に縋る思いでそのバンドで一番好きな曲を再生してみた。けど救われた感覚はなく、私の心に支柱としてあったその歌詞は既にただの藁に成り下がってしまっていた。
おもむろに冷蔵庫を開けて中を物色する。
卵2個とハム1パック、あと米を冷凍してたはずだからチャーハンでも作ろうかな。でもそのためには洗い物をしないと。めんどくさいからUberでも頼もうかな。いや、お金もったいないから買いに行った方がいいな。でもこの顔で外出たくないな。知り合いに会ったらどう思われるんだろう。柏倉は私の事どう思ってるんだろう。へったくそな演奏動画を送り付けられてどう思ったんだろう。へったくそな癖にフリーターでバンドの夢追いかけてる私はどう思われてるんだろう。何を思って私のライブに来たいと言ったんだろう。
もう一度スマホを開くと柏倉に加えて長谷川からもメッセージが届いていた。
「あの日はごめん、言い過ぎた。次の練習いつする?」
そういったメッセージと同時にクマのキャラクターが笑顔で首を傾げているスタンプが送られている。
あれ以降グループラインに何の連絡もしない私を気遣ったのだろう。でも、やっぱり救われない。
今私が信じているのは時間だけ。時間が経てば気分も晴れて、また音楽に向き合うことができる。そう信じている。だから今は音楽のことを考えたくない。
今の気持ちを柏倉に伝えたらどんな反応するかな?私が感じている孤独を理解してくれるかな?また、あの時みたいに一緒に居てくれるかな。
「会いたいよ…」
涙が頬を伝い、カーペットに吸い込まれる。呼吸は鼻から口に変わって喉がヒューヒューと情けなく鳴る。
「気にしてないよ。前日にもう2時間くらいでいいんじゃない?」
ぼやけた視界で、長谷川にだけメッセージを打ち込んで逃げるようにスマホを閉じる。
今回のライブで新曲はやらないことになった。今のクオリティで披露することはできないということと、主催のバンドにはそれなりに追っかけのファンがいるそうで、思ったよりも客数が見込めるから自信のあるセトリで挑もうという判断だ。その分曲数を減らしてしまったのだが前座のライブを長々と見せられても困るだろう。
それと、結局柏倉に返信することはできなかった。そのうち追いメッセージや電話が来るかと思ったが、あれっきりあちらからの連絡もないままだ。
今度こそ柏倉とはもうこれっきりなのかもしれないが、今の私には柏倉に自分たちのステージを見られる方が苦しい。
「じゃあギターさんお願いしまーす」
「あっ、お願いしまーす」
ドラムとベースの音出しが終わったのに気づかず、ハッとしてボリュームペダルを踏んで曲で使うコードを適当に鳴らす。いつもならここで技術を見せつけるようなリードフレーズを弾いてやるのだが、これ以上黒歴史を増やすわけにはいかない。
「あとヒズミが2種類あります」
ファズを踏んで曲中の通りにフレーズを弾く。自分の耳じゃなくてPAさんの耳を信じる。私には才能も実力もないのだから。
「はい、じゃあ全体で貰っていいですか?」
長谷川と目が合って軽く頷くと4カンで曲が始まる。
何度も演奏した初期の既存曲。今更ミスるはずもないと思っていたのに、どうにも縦が合わない。というか、私が走っている。集中していないのが自分でも分かって、その焦りが私から冷静さを奪ってゆく。リハで良かったという気持ちと本番でもなったらどうしようという不安が歌詞を頭から弾き出し、ボーカルが詰まる。関係ない視界の情報も思考を支配し始める。
既に最善でスタンバイしている主催バンドの女性ファン。暇そうにスマホをいじるバーカンの店員。あ、誰か入ってきた。ネイビーのコートを腕に下げて、手にはドリチケを握っている。視線をその人の顔に上げた瞬間、歌うことを諦めて閉じていた口が開く。
「柏倉?」
こぼれた声をマイクが拾って、会場に響く。
それに気づいた柏倉が恥ずかしそうな様子でこちらに小さく手を振る。
「なに?知り合い?」
それに気づいた松本と長谷川が演奏を中断する。
「すいません!音量バランスとか大丈夫ですか?」
松本からの問いかけを無視して、急いでPAさんに演奏の確認をしてもらう。
「はい、問題ありません」
PAさんがそう言い終わるのを待つことなく、私はギターをスタンドに立てかけて小走りでステージを降りて柏倉のもとに駆け寄る。
「なんできたの!?返信もしなかったのに!」
「行くって言ったじゃん。行ってもいいか訊いたわけじゃない」
柏倉はそう言うと、私の顔を見下ろしてにやりと笑う。私を驚かす気が満々でドッキリ作戦成功といった表情だ。
「てかなんで取り置きしてくれなかったの?受付で恥かいたわ」
「返信してないんだから取ってないに決まってるでしょ!」
「声でけぇよ」
ハッとして思わず自分の口を押える。
辺りを見回すと会場中の視線が私たちの方を向いており、ステージ上の松本と長谷川はドラムの方に近づいてニヤニヤとした顔で話をしている。「なに勘違いしてんの」と咎めるには遠すぎるし、これ以上大きな声を出して注目を集めるようなことは避けたい。
「本番まで時間あるだろ?ちょっとしゃべろうぜ」
そう言うと柏倉は私の返答を待たずに出口の方へ歩いて行った。機材をそのままにしてたから一度ステージに戻らないといけないとも思ったが、そもそも私たちはトッパーだからそのままにしておいてもいいし、何より今は二人の顔を見るのが嫌だった。
私はいわれるがまま、振り返ることなく柏倉の後を追って会場を後にした。
ライブハウスを出ると空は夕焼けで赤らんでいた。休日の下北は買い物に来た大学生で溢れかえっていて、その人ごみをすり抜けるようにして柏倉の後を追いかける。一つも振り返らない柏倉に対して何か声を掛けようかと思ったが、そういえば今の私たちはそこそこ気まずい状況だということを思い出して何も言わずにただ柏倉が切り開いた道を通ってゆく。
突然柏倉が進行方向を変え、住宅街の方面へと歩いていく。どこに向かっているのだろうと思いながらも私は黙って付いていくことしかできない。そっちが言い出したんだからなんかしら話を振ってくるべきじゃないか、という不満が少しずつ湧き上がってくる。
柏倉はひとしきり住宅街を歩いた後、自販機の前で立ち止まって飲み物を購入する。
「これ、前飲んでただろ」
そう言って柏倉は『はちみつれもん』と書かれたペットボトルを差し出す。
「ありがとう」と言いながらそれを受け取るときの一瞬、差し出した柏倉の手に私の指が触れる。別に柏倉の指に触れるのは初めてじゃない。初めてじゃないのに、私の頭が想像するのは本屋で偶然同じ本を取ろうとして手が重なる運命的な出会いをした男女だ。
なにそれ。気持ち悪いよ。
自分にそう言い聞かせて感情を抑え込む。けど抑え込むほど、その正体不明の感情に劣情としての輪郭が現れていく。どうして?私が前はちみつレモンを飲んでいたことを覚えていてくれたから?返信すらできない私のライブに来てくれたから?
見ないうちに垢抜けて大人びた雰囲気を纏っていたから?
全部違う。多分、そう、思えば高校時代のあの時からこの感情は存在した。
確かに最初は憧れだった。それから友情に発展して、私の中でだけ恋愛にまで進化してしまったのだ。誰に対しても物怖じしない凛とした態度や自分の実力に満足しない向上心、でも心を開いた友人にだけ見せる無邪気な笑顔に私は熱い想いを寄せていた。
分かっていた。でもあなたは私の気持ちを知ったらきっと私に飽きてしまうから、私はその感情に蓋をした。だってあなたが私と仲良くしてくれたのは、私があなたのライバルだったから。あなたがやりたいと言って、持ってくる曲は簡単には通すことも出来ない難しい曲ばかりで、それに挑戦する時間が私とあなたを繋いでくれた。私が一回でもあきらめてしまったらきっと見捨てられてしまう。そんな思いで毎日練習に打ち込んでいた。あなたにとって私は「高い壁に挑戦する仲間」だから。
渦巻く思考を流し込むようにペットボトルの中身を口に注ぎ入れる。はちみつの甘い味が舌に残って、口の中は清涼感とは程遠いドロドロとしている。
「あのさ」
柏倉が口を開く。ほのかにコーヒーの香ばしい香りが漂ってくるが、それが手元の缶コーヒーからなのか、それとも柏倉の口からなのかはよく分からない。
「よかったらライブ終わりご飯でも行かない?」
「え?」
柏倉の改まった態度にびっくりして顔を見上げると、覚悟を決めたような真っすぐな目と私の目が交差する。
「今日?」
「今日」
空中を泳ぐ私の目線を捉えるように柏倉の目は私の目から離れない。
「別日じゃダメ?打ち上げとかあるからさ」
何とか動揺を隠すように明るい声色でそう応える。無意識なのかこの声色はまさに高校時代、二人で練習をしていた時のそれだということに気づいた。
「分かった。また空いてる日連絡して」
「うん」
なぜだろう。安堵している自分がいる。何に?そもそも今日ご飯に行くことの何が駄目なの?打ち上げなんていくらでも抜け出せばいいのに。
自分の気持ちに整理がつかないまま、とりあえずこの場から逃げ出したい。柏倉と向き合うことを、柏倉に対する気持ちと向き合うことを先延ばしにしたい。
「じゃあ、そろそろ行かないと」
「今度は、ちゃんと返信してほしい」
逃げ去る私の背中に柏倉が声を掛ける。自分の思惑を言い当てられたようで、つい立ち止まってしまった。
「どの口が言ってんの」
適当に返事をして走り去ればいいのに、私の思いとは裏腹に口から言葉が突いて出る。
もう怒ってない。気にしてない。そんな風に割り切れたつもりでいたのに、心の奥底の悲しみが言葉になってあふれ出る。
「…ごめん」
ほら、柏倉も気まずそうじゃん。笑って許して、早くライブハウスに向かわないと。
「寂しかったんだから」
足を動かさないと。拳を握り込むんじゃなくて、足を前に出して。
「一人で東京に来て、友達もいない中必死に生きてきたんだよ」
だめだ。こういう弱音は柏倉が一番嫌いなやつ。せっかく再会できたのに、わざわざ嫌われるようなこと言ってどうすんの。
「ごめん」
次から次にあふれる言葉を抑え込むのに必死で、この場の脱出法に頭が回らない。
「どうして返信しなかったの?」
数年間、貯め続けた疑問をついに本人へぶつけてしまう。
確信があった、この質問は地雷で、二人の関係を壊してしまうという。だからLINEでも理由を聞くようなことはしなかったのだが、どのみち高校を卒業した時点で私たちの関係は緩やかに終わりを迎え始めていたのだろう。部活での交流が無くなった今、私たちを繋ぎとめるものはなくなって、只の「昔の友達」になったのだ。
二人の間に沈黙が流れる。遠くで車のクラクションが聞こえる。一つ隣の通りからは人々の喋り声が絶え間なく聞こえてくるのに、一番大きく聞こえるのは二人の間を通り抜ける風の音だった。
「昔、お前のことが好きだった」
柏倉の口から弱弱しく発せられた言葉で、私の心臓が強く脈打つ。
「本当は卒業式の日に告白しようと思っていた。でもできなかった。その日に俺はもうお前への気持ちを諦めて、連絡を取るのもやめようって決めたんだよ」
脳みそがショートするってこういうことだろう。
嘘?なんで?どうして?色んな気持ちが複雑に絡み合って心が処理落ちしている。
「でもあの日偶然お前と再会して、閉じ込めてたはずの気持ちが動き出したんだ」
私と柏倉は今確かに見つめあっている。でも私には柏倉の顔が見えない。ぼやけてるのか、真っ黒なのか、ゲシュタルト崩壊した文字みたいに柏倉を柏倉と認識できない。
「今更、お前にこの気持ちを押し付けて答えが欲しいわけじゃない」
ついさっき潤したはずの喉が渇いて、鼻から吸い込んだ冷たい空気が刺さる。
あぁ、はやく感情を再起動しないと。今の私の気持ちは何?困惑?高揚?
いや、喜ぶべきだろう。好きだった人から告白されているんだから。いや、これって告白なの?そもそも私って柏倉と付き合いたいんだっけ?でも形はどうあれ、きっとこのままいけばまた柏倉と一緒に過ごせる。
一人っきりじゃなくなる。一人っきりはもう嫌だ。
「でも、お前が何か辛い思いをしてるなら、力になりたい」
ステージは思っているより暑い。ただそれは熱狂じゃなくて、単純にライトの熱のせいで、だから正確には”熱い“だ。
結局柏倉には「いけたら行く」とあいまいな返答をしてしまって、気持ちの整理がつかないままステージに立っている。にも拘らず柏倉は今、フロアで私たちのことを見ている。空白の目立つ中、後ろの方で腕を組んでいるのが分かる。表情は分からない。
今やった4曲は何とか乗り切ることができた。いや、このクオリティが観客から見て「乗り切った」に入るのかは分からない。でもとりあえず詰まることなくやりきることができた。今はとにかく早くライブを終わらせたい。ここでどういう評価をされるのかはどうでもいい。この居心地の悪い空間にはもう居たくない。あと一曲乗り越えればここから抜け出せる。
長谷川がスティックを叩きつけてカウントが始まる。リハでミスったあの曲だ。良いものにはしなくていいから、とにかくミスらない。そう思えば気持ちが楽になる。
帰ったら何しようかな。久しぶりにちゃんと料理でもしようかな。洗濯物も溜まってるから回さないと。あ、でも洗剤切れてたから買わないと。薬局って何時まで空いてるんだっけ。いいや、スーパーで一緒に買っていこ。明日になったら掃除もしよう。月曜だからゴミも出さないとじゃん。
あれ、今何してるんだっけ。そうだ、ライブ中じゃん。今くらいは集中しないと。えーっと…
あれ、今何小節目?
1番は終わった。今は間奏中。で、いつ2松本入るの?そろそろ?やばい、歌わないと。あ、歌詞思い出せない。
慌てて長谷川の方を見ると、長谷川は困った表情で口をパクパクさせている。
なんて言ってるの?う?あ?え?なに?分かんない。
「歌って!」
長谷川の声がようやく脳に届く。
急いで口をマイクに近づけたその瞬間、距離感を間違えた顔面がマイクに直撃し、スタンドごと倒れる。マイクがヘッドから落下したから、地面に当たった轟音とハウリングの甲高い音が会場中に響いた。その音に驚いて、ついギターを弾く手を止めてしまった。それに合わせてドラムとベースの音も鳴りやむ。
前、見れないな。
誰がどう見ても分かる大失敗。ここからごまかすことも、巻き返すことも出来ない。
逃げたい逃げたい逃げたい。もう終わりで良いから「ありがとうございました」って挨拶しないと。ふっ、なにがありがとうございましただよ、「申し訳ございませんでした」だろ。どっちでもいいけどマイク拾わないと。あ、手震えてる。そりゃそうだ、頑張ったよ、私は。明日、朝イチのバスで実家に帰ろう。それで…
マイクを拾い上げた瞬間、客席から大きな拍手が聞こえた。
数は一つだけ。でもはっきり聞こえるほど大きな拍手。
顔を上げると、会場中の冷ややかな視線を一身に浴びながら、掌が破裂しそうなほど力強く手を叩く柏倉の姿があった。
その顔は憐みのこもった、でも笑顔で、私を元気づけようとする温かい表情だった。
私はマイクを拾い上げてスタンドにセットする。
「すいません。ミスっちゃいました」
私の情けない姿も、弱さも今の柏倉なら全部受け入れてくれる。
「ミスっちゃったのは、私たちがへたくそだからです」
だからもう、頑張らなくていい。孤独にならなくていい。
…ふざけんな。
「私たちはへたくそで、才能もないくせに音楽をやっています」
私が好きなのはそんなだっさい価値観で生きてる柏倉じゃない。
「就職もロクにせずに、親に迷惑を掛けながら音楽をやっています」
へたくそをバカにして、弱音を吐く奴は切り捨てる。でも、人一倍努力して結果も出してるから誰も何も言い返せない。そんな柏倉が好きだった。
「へたくそ同士で『お前の方が下手だ』って言いあいながら音楽をしています」
いや違う。分かった。私は柏倉が好きだったんじゃない。柏倉がうらやましかったんだ。
あいつの言ってることだから正しい。あいつのやってるバンドだから聴く。あいつが聴いてるバンドだから聴く。そういう存在に憧れてたのだ。私がなりたかったのだ。
「でも私は音楽が好きです」
音楽は人生を救わない。でも音楽を聴いてしまったやつらの人生は音楽から離れられない。
音楽さえなければ、楽器さえなければ、私はこんな目に遭っていないのに。
「皆さんにも音楽が好きになってほしいです」
理屈はゾンビと一緒だ。ただ仲間を増やしたいだけ。
強くて感染力の高いゾンビはそりゃおんなじゾンビからしたらかっこいいわな。
「まぁ、そのためにはうまくなれって話なんですけど」
落としたピックを拾い上げ、ギターのチューニングを合わせる。
会場はしんと静まり返り、弦が振動する生音さえはっきり聞こえる。音量を上げて、ジャッジャッと軽く鳴らした後、フロアを見渡し、柏倉を指さす。
「今、拍手をしたあいつは直結厨です。さっきも私を呼び出してご飯に誘ってきました」
柏倉は愕然とした様子で、口を大きく開けてキョロキョロと周りの様子を観察している。
「あんな恥ずかしい想いをしてまで私の好感度を上げて、セックスがしたかったようですね。気持ち悪い」
そう言い終わる前に柏倉は顔を伏せながら出口の方まで走っていった。
これは報復だ。失敗した演奏に対して拍手を送るという最大級の辱めに対しての。
私の音楽に対するスタンスは一言でいえば「依存」だ。偶に経験する熱狂や情熱という少ない報酬の味が忘れられずにずっと求めている。いや、もはや見返りなんて求めていない。音楽を続けることでどうなりたいとか、いつか報われるとかそういったことを思ってるのではない。ただそれだけが生き甲斐で、音楽がないなら死んだ方がましだ。後先を考えられないほど熱中して、独善的で、盲目的。
こんなの恋でしょ。
「すいません。時間はオーバーしないようにするんで新しくもう一曲やらせてください。弾き語りで」
松本と長谷川が「ちょっと!」と困惑している様子だったが、構わずにマイクスタンドの位置を調整する。
高校時代を思い出していた。毎日が刺激的で、自分たちが世界の中心だという確信的なまでの自信を持っていた。おそらくこれからの人生であの日々を超える瞬間は訪れない。
でも、だから音楽はやめない。あの日々を青春としてパッケージしてたまるか。物語にしてたまるか。
「私が昔好きだった、でももう聴かなくなったバンドの曲をやります」
記憶として美化されるくらいなら、腐った生活の中で抱きしめ続ける。
「先ほど拍手をしなかった皆さんは正解です。今からも拍手は要りません」
貧困で不自由で、そのくせ忙しい。でも、私はまだ青春のなかにいる。
「バズマザーズで『ロックンロールイズレッド』」
水色 @Myaaaa9669
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