君のいない教室(後編)

 𖧷


 それからしばらくして、アイカは授業中にも話を聞かずぼんやりしている事が増えた。

 成績も下がり、学業に対するモチベーションがどんどん落ちているようだ。しかし、以前のように勉強を教えようかと言っても、やんわりと断られてしまった。


 そして状況に反して、アイカの表情はとても明るい。控えめに言っても、どこかソワソワしていて浮かれているように見えた。

 アイカの様子が、明らかにおかしい……?

 その疑問に対する答えは、照れくさそうなアイカ本人の口から語られた。


「……あたし、この間、◯◯グループに入らないかって言われたの。えっと、友達に◯◯グループの子がいて、その子から誘われて、面談を受けたら通ったみたいで……」

「ええ!?」


 わたしは目玉が飛び出るほどに驚いた。◯◯グループとは、アイドルに詳しくないわたしでも知っている程、全国的に有名なグループだったからだ。確かにアイカはとてもかわいく性格もいい。自慢の友達だ。芸能関係者は見る目があるのだなと、どこから目線か分からないことをわたしは思った。


「すごいねアイカちゃん! アイドルになるの?」

「……迷ってる」

「そっか。確かに、大人の人とか先生とかにも相談してから決めたほうがいいかも……。すごい大事な決断になるだろうし」

「……、ほんとはね、あたし、せっかくだし、アイドルになりたいの。でも……」


 アイカはそこで言葉を詰まらせて俯いてしまった。


「あ。もしかしたら、……ご家族から反対された?」

「それも少しはあるけど。その覚悟があって、やりたいならやってみなさいって言われてる」


 アイカと家族の関係性が具体的にどんなものか知らないわたしは、それでも彼女の夢が阻まれないであろうことにほっとした。


「そっか、よかったね!」

「うん。でも……悩んでる」

「……どうして?」


 アイカは、決意を滲ませた目で顔を上げた。


「アイドルになるんだったら、レッスンとかで、時間がなくなるって。だから、本気で活動したいなら、通信制の高校に転校しなきゃいけないみたいで」

「……」

「だから……この学校、辞めないといけないみたいなの」


 𖧷


「え……?」


 わたしは、とても、ショックだった。

 アイカが、学校を辞める?

 ……アイカがいなくなる?

 せっかく、せっかく、やっと、友達になれたのに…………?


 わたしはアイカの『アイドルになる』という夢を応援したい。きっと、明るくて優しいアイカには向いていると思ったから。……でも、アイドルになるということは。

 わたしは震える声で尋ねた。


「いつ頃……?」

「今学期が終わる頃には、もう」

「な、何とかして、今の学校に通いながらできないの? 先生にも相談して……」

「……相談はしてる。色々親身になってもらったけど、前例がないし、難しいかもしれないって。『学校を続けたいなら精一杯支援する』とは言われた」

「それなら……!」


 しかしアイカの眼差しは、既に教室を見ていなかった。

 輝かしいアイドルのステージを見つめていて、目が合わない。


「……あたし、この学校好きだよ。クラスメイトは優しいし、学校は楽しいし、友達もたくさんできた。でも、あたし、やりたいことを見つけたの」


 𖧷


 それからは、あっという間だった。

 アイドルの研修生になるために、転校手続きや引っ越し手続きで、アイカはほとんど学校に来なくなった。


「ねー、すごいね、本当に◯◯グループに入るんだ……」


 クラスメイトたちもソワソワしていた。同じ学校、しかも同じクラスから、芸能人が出るというのは、狭いコミュニティの中ではビッグニュースだった。しかも、日本人なら誰もが知る◯◯グループなんて、まるでシンデレラストーリーだった。


「アイカちゃんかわいいもんね、絶対活躍するよ」

「びっくりだよね! こんなこと本当にあるんだ!」


 クラスメイトは、はしゃぎながらアイカの話題を口にする。きっと、アイカの躍進を、その人生の輝きを、素直に喜べていないのはわたしだけだったと思う。


「……」


 アイカに、アイドルになってほしくない訳ではない。アイカの夢の邪魔をするなんてだいそれたこと考えてもない。

 ただ、ただ、ただ。悲しかった。

 アイカにとって、今大切なのは、この学校での時間ではない。わたしと過ごした時間なんかではない。


 アイドルになるという夢。輝かしい人生の目標。


 そのためなら、と思われたという事実が、わたしの心を握りつぶしてぐちゃぐちゃにした。

 きっと、どうしようもない。夢より友情を取るなんて、きっとわたしにもできない。アイカの決断は間違ってなんかいない。アイカの優先順位には、納得しかない。でも。それでも……。


(……きっと、もう二度と、一緒に遊びに行くなんてできないんだろうな)


 わたしはそう思った。そしてその予想は、外れてくれなかった。


 𖧷


 あっという間に時間は流れて、アイカが学校を去る日がやってきた。

 クラスではアイカのお別れ会が開催された。涙ぐむクラスメイトたちに囲まれて、「また会おうね」、なんて声掛けをされるアイカ。そんな彼女を、わたしはいつかのように遠巻きに見ていた。


 もちろん、アイカと直接別れの挨拶をしなかったわけではない。でも、どこかおざなりだった。アイカとは目が合わなかった。アイカの頭の中は、きっと、アイドルになる不安と期待でいっぱいで、今目の前にいるわたしは、彼女にとって群衆モブのひとりに成り下がってしまったのだとわかってしまったから。


 別にそれを責めたいわけではなかった。

 アイカが、やりたいことを見つけて、その目標に向かって進む姿は、キラキラしていた。応援していた。陰ながら。

 そんなわたしに、担任の先生が声をかけてきた。


「アイカさんは、今日から授業には出なくなるけど、まだ、手続きとかで何度か学校に来るの。よかったら、その時までにお手紙を書かない? 書いてくれたら、それをアイカさんに渡すことくらいはできるから……」


 𖧷

 

 わたしは、帰り道に便箋を買った。

 あの日観に行った映画と同じ系統のキャラクターものの便箋。

 きっと、アイカはもう、二人で観た映画のことなんて忘れているだろうけど、それでも、わたしにとっては大切な思い出だったから。


『アイカちゃんへ』


 わたしは、精一杯、その時にできる渾身の力で、アイカの幸せを願う言葉を書いた。文章を書くのはあまり得意ではなかったけれど、本当に必死に書き綴った。

 アイカの人生が充実していくことを祈る言葉を。

 アイカと友達になれたことがどれだけ嬉しかったか。

 あなたはわたしの憧れだという気持ちを込めて、綴った。


 正確な内容は、もう覚えていない。

 必死だったから。もういなくなるアイカのことを思いながら書くだけで、精一杯だった。


 その手紙を担任の先生に託すとき、少し手が震えた。

 手紙を受け取った担任の先生は、目を伏せて告げた。


「できれば、アイカさんにはこの学校に通い続けて欲しかった。折角出会えたからね。だけど、アイカさんにはアイカさんの人生があるからね。仕方ないね。でも、寂しくなるね……」

「……」

「……アイカさんが、アイドルになって、活躍するとき、応援してあげましょう。そうすれば、小さいけど、繋がりは保てるから」


 わたしは小さく頷く。

 気がついたら、視界が涙でにじんでいた。

 寂しかった。

 本当に大好きで、憧れの、自慢の友達だったから。

 もう会えないのを信じたくなかった。

 でも、もう、結果は変わらない。


 送り出すことしかできないわたしは、ただ、彼女の幸せを願った。

 ちっぽけなわたしには、それしか、できなかった。


 𖧷

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