独占欲
橘花帆
第1話
頭から滴る水が床に水溜まりを作る。
唖然とした目の前の客は今までの怒りが嘘のようにぽかんと私を見上げている。
それもそうだろう。
私だって驚いて目をぱちぱちと瞬くことしか反応できない。
──スープが温いとクレームを言われ交換したものの、それでも怒りは収まらず料理を床にひっくり返した男に唇を噛み締めていたら、突然私の頭に水がかけられたのだ。
それも騒動の最中でも食事をしていたはずの無関係の客によって。
「うるせえな」
アングラな雰囲気を隠そうともせず男は低く唸るような声でそう言った。
不機嫌なその声にピクリと肩が跳ねる。
男が視線を投げると客は青い顔をしてお金を叩きつけるように置いて走り去っていった。
それを呆然と見ていると、
「おい」
顎を掴まれてその薄金色の瞳と目が合う。
「てめぇ何してんだよ」
「………トウガ、さん…」
水をかけたのはトウガさんなのに。
その理不尽な言葉に思考が止まったまま呆然と彼の名前を呼ぶと、ほんの一瞬目を細めて顎を掴んでいた手を離した。
何食わぬ顔で席へと戻り、まだ立ったままの私に向かって手の甲で払う仕草をしたトウガさんにハッとする。
「ここはいいから着替えてきて?風邪ひいちゃう」
心配そうに眉を下げた店主のマキさんにお礼を言って慌てて着替えに戻る。
お客さんがトウガさんだけで良かった。これが繁忙期の時間だったらマキさんひとりに任せきりになってしまって大変な事になってただろうから。
更衣室替わりの2階の居住スペースにこのまま行くのは躊躇われて、階段を上った先の部屋の前で誰もいないからと濡れたエプロンを外してブラウスのボタンに手をかけた時、真後ろから声が響いた。
「わお。大胆」
「………トウガさん…!」
いつの間に居たのか。
気配もなく私の後ろに立っていたトウガさんはそのまま私の手を取ると、片方の手でぱちぱちとボタンを開けていく。
「トウガさん…!」
「着替えたかったんだろ?」
感情の篭っていない平坦な声。
「こんな場所で脱いでるんだもんな?」
怒っているのだと気付くのには少し遅かった。
「見られたかったわけ?お前、いつからそんなエロい女になったんだよ」
「ち、違っ…!そんなわけ、」
慌てて否定しようにもトウガさんの手が素肌に触れるたびにピクリと身体が跳ねて、心臓がありえないくらいに脈打つ。
「悪い女。…誘ってんの?」
「……し、仕事中です…!」
「マキなら今日はもう帰っていいって言ってたけど」
「……っ!」
トウガさんと同級生のマキさんがパチンとウインクしている姿が容易に脳裏に浮かべられた。
「………まあ、しねえけど」
動揺して慌てる私から離れたトウガさんはさっきまでの雰囲気が嘘のようにブラウスを剥ぎ取ると着ていたパーカーを被せた。
「お前、あの客に少し怒っただろ?」
「……マキさんの料理をひっくり返したから」
薄金色の瞳がこちらを貫くように見つめる。視線を少し外してぼそりとそう言うと、ぐいっと頬を包まれて強制的に視線を合わせられる。
「お前が感情を抱くのは俺だけでいいって言っただろ」
「……」
「怒りも、好きも嫌いも憎しみも愛しいも全部俺によこせよ。俺以外の誰かを見てんじゃねえよ」
俺以外はそこら辺の雑草だと思えって言っただろ。
そう言ってトウガさんは私の肩に頭を置いた。その柔らかな髪の毛を撫でながら大きな体を抱きしめる。
「私にはトウガさんだけだよ」
これがこの男の弱さだと言うなら愛しくてたまらない。
「当たり前だろ。お前の全部、俺のものだから」
「うん。私はトウガさんのものだから離さないでね」
「……死んでも離してやんねえよ」
ぎゅう、と強く抱き締められて苦しいくらいなのにそれすらも愛おしい。
私は一生トウガさんから離れられないだろうし、トウガさんもまた私から一生離れられないんだろう。
独占欲 橘花帆 @caho-
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