第3話 答えを出してくれる

 伊東教授が、熱心に研究していたのは、

「乙巳の変」

 の方であった。

 しかし、脅迫状を送り付けてきたのは、

「研究を辞めろ」

 という内容であったが、その研究というのが、

「本能寺の変」

 についてということであった。

「何をとち狂ったことを言っているんだ」

 と、伊東教授は考えていた。

 確かに、

「本能寺の変」

 というものも、研究はしていた。

 しかし、それは、

「乙巳の変」

 というものを研究する上で、

「他の暗殺事件というものが、どのようなものなのか?」

 という、

「比較論的な発想」

 からきているものであり、

「乙巳の変」

 というものを、いかにとらえるかというだけの、

「参考研究でしかなかった」

 ということを、脅迫者が分かっていなかったということであろう。

「そんな輩は無視すればいいんだ」

 ということであった。

 しかも、その脅迫状には、

「本能寺の研究を辞めろ」

 といってきているだけで、具体的なことは何も言っていなかった。

「脅迫状というのは、なかなかお粗末なもの」

 ということで、どちらかというと、

「抗議文」

 に近いものだった。

 内容としては、教授の本能寺の変に対しての考え方を勝手に解釈し、それに対して、一つ一つ、解釈を垂れていたのだ。

 何通も、

「脅迫状」

 というものは来たのだが、一通ごとに、一つの謎について、送り主なりの解釈が書かれていた。

 それを脅迫状だと考えたのは、送り付けてきた人間が、勝手に、

「脅迫状」

 と書いているだけで、送られた方は、そんな風には一切思っていなかったのだ。

 だが、なぜか、その後すぐに、

「伊東教授が引退」

 ということになった。

 というのは、

「大学教授」

 というポストを辞めたわけではなく、

「歴史研究所」

 という形での、ゼミ活動は、引退するということで、大学でも、教授室というものは今まで通りであったが、研究室は閉鎖ということになった。

 伊東教授の歴史研究所というものは、そこまで、ゼミとしては人気があるものではなかった。

「人気があり、ゼミを決める時に集中する研究所というのは、毎回決まっていて、そこに落ちた人が入ってくる」

 という程度の研究室というのが、

「伊東研究所だ」

 ということであった。

 ただ、その

「人気がある研究所」

 を除けば、その中では、まぁまぁの人気だったのではないだろうか?

 確かに、

「三大暗殺事件」

 というものを扱っていることで、

「楽しそうな研究室だ」

 ということで、興味を持つ学生も少なくはなかった。

 その中で、一人、15年くらい前に大学生として入ってきた生徒に、

「山岸」

 という学生がいた。

 彼は、大学入学の時は、

「本当は、法律の方に進みたかったんだけどな」

 ということで、、

「法科志望」

 という高校生だったのだが、現役で、

「法科はすべて落ちた」

 ということであったが、その次に志望していた、

「歴史研究」

 というところでの、第一志望だった、

「H大学の、日本史研究学部」

 という学部に入学できたことで、急に考えが変わり、

「現役で入学できるのだから、H大学に進学しよう」

 と考えたのだった。

 実際に、大学の講義は、

「一般教養」

 の段階から結構興味深かった。

 そもそも、一般教養で、取得に必要な科目以外は、

「歴史研究」

 の講義をたくさん取っていたので、一般教養の時代から、専門的な講義を受けれることがありがたかった。

 そんな中で、

「伊東教授の講義は面白い」

 ということで、三年生になってから選択するゼミでも、

「他の人気があるゼミを希望しよう」

 という気はさらさらなかった。

 最初から、

「伊東先生のゼミ」

 と決めていたのだ。

 最初から、伊東教授のゼミを希望する生徒というと、

「俺はくじ運がないからな」

 といっている人であったり、

「皆が群がるようなところは、最初から嫌だ」

 と思うような、

「天邪鬼的な性格の人間」

 というのが多かったのだ。

 実際に大学の講義でも、

「人気のない授業に限って受けに来ていて、一番前でノートを必死に取っている生徒が数名いたが、その中の一人だ」

 ということである。

 そもそも、

「人気のない授業に、数名がかぶりつきでノートを取っている」

 という光景は一定数見られる。

 というのは、これは、

「試験対策」

 というもので、

「大学生というと、一定数の仲間がたむろする」

 というのは当たり前のことであり、人が集まると、

「出席を取る授業でもない限り、皆が講義に出る必要はないのではないか?」

 と思っていた。

 それぞれの授業で、二、三人が講義に出て、ノートをつけていることで、

「いざ試験」

 ということになった時、困ることはないということであった。

 講義ノートを人数分コピーして、

「それを試験勉強に使う」

 というのも、一つのやり方というものだ。

 試験前になって、

「大学の生協の前のコピー機に、たくさんの人が並ぶ」

 という光景は、昔から見られたもので、

「大学側としても、学生が何としてでも単位を取って、卒業してくれればそれでいい」

 と思っていることだろう。

 そもそも、大学というところはそういうところで、ただ、卒業するためには、越えなければいけない壁というものがあり、さらには、その壁を超えることで、大学の研究室ともなると、その中から、

「大学院に進み、研究者として、大学に残る」

 という人も少なくないだろう。

 山岸という学生も、最初こそ、

「普通の大学生」

 ということで、

「就職の時は、普通にどこかの企業を目指そう」

 と漠然としてしか考えていなかった。

 しかし、この大学の日本史研究学部というところは、少し変わっていて、

「二年生の途中から、研究所に入ることができる」

 というものだった。

 ただ、人気があるところは、一度3年生になると、3年生になった人の中でリセットされ、再度他の学生と混じって、もう一度くじ引きということになるのであった。

 だから、人気のある研究所に、

「2年生から入る」

 という人はまずいなかった。

「リセットされるんだったら、何も今から入っておく必要なんかあるわけはないじゃないか?」

 と考えるからだった。

 だが、

「2年生から入るゼミ」

 ということで人気があるのは、

「伊東研究所」

 だったのだ。

 山岸も、2年生から、このゼミには参加していた。

 といっても、2年生は、そんなに人がいるわけではない。

「うちは、毎年5、6人がいいところくらいかな?」

 と、先輩は言っていて、

「これも、多いわけではなく、少ないわけではない。ちょうどいい人数だといっても過言ではないのかな?」

 ということであった。

 そういう意味で、

「伊東研究所」

 というところは、

「可もなく不可もなく」

 と、実際に三年生になってから言われることを、山岸は、2年生で味わっているのであった。

 2年生で入ってくると、上級生のような、

「卒業に必要な、必須単位」

 ということではなく、あくまでも、

「一般教養の中の一教科」

 というだけで、その単位の重みはまったく違ったのだ。

 だから、2年生の間は、実際に三年生以上とは、別格で、行動を共にするということもなく、

「講義の時間はまったく違っていて、一緒に研究をする」

 ということもなかった。

 そういう意味では、

「先輩後輩で、顔も知らない」

 というのが当たり前で、ただ、他の研究室とは、そのあたりが一線を画しているといってもよかっただろう。

 他のゼミであれば、確かに、単位に対しての考え方に相違はないのだが、一緒の時間、同じ研究をするということであっても、お互いに気を遣うこともなく、逆に、

「2年生とすれば、本格的にゼミを始めた時のための、心構えができる」

 というもので、三年生以上ともなると、

「自分も初々しい時期があったんだな」

 ということを思い出すということもできるのであった。

 伊東研究所に所属して、卒業の頃には、すっかり、

「大学院に進んで、歴史研究に勤しもう」

 と、山岸は考えるようになった。

 それに関しては、伊東教授は、賛成も反対もなかった。

「実際に今まで、伊東研究所から研究員になって、大学に残りたい」

 という学生は、ほとんどいなかったからである。

 ゼミとして人気のあるところの学生も、そのほとんどが、

「歴史研究なんて、大学時代だけのことだ」

 と思っていた。

 歴史研究以外のことがしたい」

 というわけではなく、

「普通に就職できればいい」

 ということで、

「何も大学の勉強が、就職してからも生かされる」

 などということは、そんなにないだろう。

 しかも、学問が歴史研究ともなると、当たり前のことで、

「大学時代に何が楽しいのか?」

 ということを考えると、

「勉強もさることながら、友達との楽しい時間であったり、大学時代にしかできないことを、その余裕のある時間にこなす」

 ということが大切だと思っている学生が多いだろう。

 しかも、年齢的に、一番、

「女性との付き合う時期を堪能できる」

 と思っていた。

 実際に、昔と違って。

「結婚したい」

 と考える人が減ってきて。

「結婚適齢期などという言葉が、死語であるかのごとくになってくる」

 ということになると、今大問題になっている、

「少子高齢化」

 というのが、

「大きな問題になる」

 ということも分かり切っているというものだ。

「異常性癖による性犯罪」

 というものは決して減っているわけではない。

 それなのに、結婚適齢期というものが言われなくなったきたり、

「草食系男子」

 ということで、

「性欲はまるでなくなってしまった」

 というような異常な状態に、今の時代はあったりする。

 確かに、平成になってからというもの、

「離婚というものが爆発的に増えてきた」

 昔であれば、

「履歴に傷がつく」

 ということで、

「離婚というのは、恥だ」

 とまで言われていたものだった。

 それは、就職においても同じことで、

「終身雇用」

 というのは当たり前で、途中で会社を変えるというのは、

「恥ずかしい」

 といわれていることであった。

 しかし、今の、

「実力主義の社会」

 ということであれば、

「引き抜き」

 という

「ヘッドハンティング」

 というのも当たり前になってきて、逆に、

「会社を何度も変えている人間の方が、いろいろな経験をしている」

 ということで、

「即戦力」

 というものを求めている会社からすれば、そういう人間を探していたということでありがたいということになるだろう。

 これは、

「結婚」

 ということとは少し違うかも知れないが、

「成田離婚」

 などと呼ばれるものがその時代の流行ではないかといわれた時期があった。

 そもそも、この、

「成田離婚」

 というのは、

「結婚して新婚旅行に海外に出かけたはいいが、結婚してから始めて、夫婦として一緒に行動してみると、今まで見えていなかったものが、一気に見えることで、もう一緒にいられないと思うからなのか、帰国してすぐに、離婚届けを出しに行く」

 ということから、

「成田離婚」

 と呼ばれるのであった。

「今まで見えなかったのが見えてきた」

 ということであるが、それは、本当にそうなのだろうか?

「今まで見えなかった」

 というわけではなく、

「見ようとしなかった」

 ということではないだろうか?

 つまり、

「本当は分かっていたことではないか?」

 ともいえるのだ。

 分かっていながら、

「何とか我慢できるかも知れない」

 と思い、結婚まで踏み切ったはいいが、結局ダメだったということで、

「成田離婚」

 と聞くと、

結婚したばかりで、まだ何も分かっていないのに、すぐに離婚するなんて。根性がない」

 といわれるかも知れない。

 しかし、実際には、

「結婚する前に、見切りをつけてしまい、結婚前にすべてをキャンセルして、リセットする人もいた」

 ということだろう。

 結婚してもいないのだから、さすがに、

「成田離婚」

 というものほど目立つわけではない。

 それでも、結婚前にリセットするのだかた、確かに、

「選択のタイミングとしては間違っていない」

 といえるに違いない。

 ただ、

「成田離婚」

 というものだけが目立ってしまって。中には、生活を始めてすぐに離婚する人も少なくはない。

 そういう意味で、

「半分近くの夫婦が、一年以内に離婚している」

 といわれても、ビックリはしないと考える人も多いということではないだろうか?

 詳しい数字を知るわけでもないので、逆に、

「何といわれても、それほどびっくりすることはない」

 何といっても、

「成田離婚」

 という言葉で、その離婚というものの衝撃の強さを、インパクトの強いものということで認識させられるのだから。大きな問題だというのは間違いない。

 伊東教授は、自分が結婚を考えていた時、その

「成田離婚」

 というものを、

「ちょうど言われていた」

 という時期とかぶったことで、

「一度離婚すれば、もう二度と結婚は考えたくないかな?」

 とも思っていたが、実際には、

「まだお前も若いんだから、これからどんどんいい人が現れる」

 ということをいわれ、

「思わずその気になってしまった」

 という時期もあったことは否定できない。

 ただ。それも長い期間ではなかった。

 実際に、人がいうように、簡単に出会いが待っているわけではない。

 自分から探さないといけないというわけで、半分は、

「もういいや」

 という諦めの境地もあるわけで、そうなると、

「本当にどうでもいい」

 というくらいに、そういう時に限ってみてしまうのは、過去のことばかりだといえるのではないだろうか?

「昔というのは、過去」

 という意味で、

「自分が通ってきた狭い範囲の過去」

 ということであった。

 過去として通り過ぎてしまったものを、

「過去」

 という形で見るのであれば、そこには、教訓がなければ、ただの、

「通り過ぎた時代」

 というだけのことである。

 そういう意味で、伊東教授も、山岸という学生も、

「過去というものに対して考えた時、歴史研究であれば、それが、自分のためになるのであれば、それに越したことはない」

 といえるのではないだろうか?

 それが、

「歴史研究の醍醐味だ」

 と考えさせられるのであった。

 歴史研究というものを、伊東教授は、途中でやるのを辞めた。教授としては、最後までまっとうし、大学教授としての責任はまっとうしたのだが、その研究は、山岸研究員たちに受け継がれることになった。

 あれから、山岸研究員も今では、准教授という立場になり、

「もうすぐ、教授」

 というところまで行きつくことができるようになったのであった。

 その研究がどこまでうまくいっているのかということは、ものが、

「歴史研究」

 ということで、その評価も難しい。

 何しろ、

「誰も見てきた人がいない」

 ということだから、誰も、自信をもって。

「それが正しい」

 とは言えないからだ。

 ただ、これは歴史に限らず、

「どんな学問においても同じこと」

 だといえるのではないだろうか?

 確かに、他の学問でも、

「誰も見たこともないことを研究し、生活の役に立てようとしているのだから、

「誰がそれを証明できるというのか?」

 ということであるが、結局、そのために、

「学会」

 というものがあり、有名な先生や有識者たちが、その信憑性について、立証することになるのだ。

 だから、

「学術研究」

 というものが、

「どれほど大切で、研究会というものが、必要不可欠なものであるか?」

 ということになるのである。

 確かに歴史というのは、

「過去の歴史を誰も見たことがない」

 ということであるが、間違いなく、

「一本の線でつながっているものが、一つの歴史を作っている」

 というわけである。

 そこには、いくら途中で、事件やクーデターなどがあるとしても、そこには、それだけの理由というものがある。

「偶然」

 といえばそれまでだが、

「偶然という言葉で片付けられない」

 ということも往々にしてあるものだ。

 それが、いわゆる、

「パラレルワールド」

 と呼ばれるもので、

「次の瞬間には、無限の可能性が広がっているわけで、今自分たちがいる時代や、次元というものが、他にもあったとしても、今の現在が事実だということになれば、今に行きつくまでの真実は一つだ」

 ということになる。

「事実は確かに一つなのだが、事実と真実というものは違うものだと考えれば、真実は必ず一つだとは言えないだろう」

 つまり、

「真実も一つだというのであれば、現在が一つであるならば、過去も一つであり、無限に広がっているはずの未来も、必ず一つになる」

 といえるのではないだろうか?

 それが、歴史というもので、時系列ということになるのだろう。

 そうなると、

「時代の流れに逆らうことはできない」

 ということになり、

「人生は生まれながらに決まっている」

 ということだ。

「それでは、あまりにも夢がない」

 といえばいいのか、

「生きている意味がどこにあるのか?」

 ということを考えさせられてしまう。

 伊東教授が、

「歴史研究を辞めた」

 というのには、たくさんの理由があるのは間違いないのだが、その中で、

「ターニングポイント」

 となるものが存在したということであれば、それが、

「歴史の真実が一つ」

 ということから考えられるものから、急に、

「歴史を研究するということに対して、虚しさというようなものを感じたのかも知れないだろう」

 それを考えると、最初は、

「辞めるまでしなくてもよかったのではないか?」

 と考えたこともあった。

 しかし、かといって、また研究に勤しむということはしようとは思わなかった。

 というのは、

「人間、一度張りつめていた意図がプツンと切れてしまうと、やる気が失せてしまう」

 ということになるのであって、それまで信じて疑わなかったことが大きければ大きいほど、その気持ちは大きいに違いない。

 それを考えると、

「歴史というものを、いかに考えるか?」

 ということが、教授の中で、

「自分を苦しめる足枷のようなものだ」

 と考えるようになると、

「これ以上は、自分には歴史研究は無理だ」

 と感じたのだ。

 それは、

「自分の考えが、何か目に見えないものに凝り固まってしまい、自分の意図した歴史と違う答えにたどり着いてしまいそうに思えた」

 からであった。

 そもそも、歴史研究というのは、自分の中で、漠然としたある程度の認識があり、そこに近づくために、自分でできるだけの研究を行い、一つ一つ、証拠を積み重ねていくものであるが、

「進めば進むほど、自分の気持ちと違った方向に行ってしまう」

 ということであれば、

「そこに、自分の求めるゴールはない」

 ということになる。

 それを考えると、

「自分にとっての、未来は考えられない」

 ということになり、その時初めて。

「歴史研究は、未来のためにするものだ」

 という、当たり前で初志貫徹を考えていたことを思い出すのであった。

「どこで間違ったのだろうか?」

 とも、ずっと考えてきたが、逆に言えば、

「間違った答えを出さずに済んだ」

 ともいえる。

 どちらが正しいのかということは、

「歴史が答えを出してくれる」

 という言葉が、その答えになるのかも知れないと思った。

「そう、歴史が答えを出してくれるなどという他力本願ではなく、答えを出してくれるものが歴史というもので、答えが出ないものは、ただの、時系列でしかない」

 といえるだろう。

「人に歴史あり」

 ということで、

「歴史にも人がある」

 ということである。

「歴史のない人」

 というのはいないわけで、少なからず、この世に存在しているということは、少なからずの存在意義はあるというもので、その意義を考えようともせずに生きているから、

「歴史が答えを出してくれる」

 などという、他力本願的なことになるのだろう。

 確かに、人類全体を巻き込む歴史というものに、人が一人抗おうとしても、そんなことができるはずもない。

 しかし、抗ってみて、

「何かが変わったかどうか」

 というのは、誰にも分からないのだ。

 そういう意味で、

「正しい未来」

 に少しでも近づくために、

「歴史を勉強する」

 ということは不可欠なことである。

 今分かっているだけの歴史を勉強するだけでも、かなり違う。

「しないよりする方がいいに決まっている」

 という理屈は、

「ただの屁理屈だ」

 などといっている人がいるのだとすれば、それは、

「歴史の何たるか」

 ということを理解しようとしない連中による、

「負け犬の遠吠え」

 と同じではないだろうか?

「やればできる」

 という人が、何もしないで、

「自分にはしょせん何もできない」

 と思い込んでしまうという考えと同じではないだろうか?

 そう思うことで、自分だけが、先に進まないのであれば、それも仕方がないだろうが、まわりにいる人まで、先に進めずに、その人の存在と、その考えのせいで、うまくいくはずのものがうまくいかないということになるのであれば、

「歴史はそれを許さない」

 と考えたとすれば、あまりにも、

「無慈悲で理不尽だ」

 と考えたのだとすれば、それは、

「倫理的に許されない」

 と考えることだろう。

 それが、宗教というもので、

「モラルや倫理で、人を極楽に導くものだ」

 と考えると、今の宗教は、いかがなものか?

 ということになる。

 何といっても、

「人を殺めてはいけない」

 という戒律がある宗教で、それが、

「戦争の歴史」

 を作ってきたわけで、

「宗教戦争」

 というものがどれほどたくさんあったのか?

 ということになる。

「ひょっとすると、この世に宗教などというものがあっても、それは、通用する世界ではない」

 ということになるのかも知れない。

 そのために、歴史研究というのを行うわけで、

「宗教自体が、歴史が出してくれるはずの答えを出してくれないのだから、個人個人の歴史の答えが、そう簡単に出るわけはない」

 ということになるだろう。

 それを考えると、

「伊東教授が、答えを出してくれる歴史」

 というものを探そうというのは、

「人間の傲慢さではないか?」

 とも考えるようになったのも無理もないことであり、

「その考えと、歴史研究に対して自分で考えていることのジレンマ」

 というものが、ずっと伊東教授を苦しめてきたのかも知れない。

 結局、伊東教授は、歴史研究を、後輩に譲ることで、自分は、研究から、

「一歩下がったところで、見守る」

 ということにしたのであった。


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