第4話 後継者
山岸が教授になったのは、45歳の時だった。
教授になるのは、伊東教授の方が早かったが、
「研究というものに対して一途なのは、山岸准教授の方ではないだろうか?」
といわれていた。
それは、
「山岸准教授に、あまり迷いがなかったからであった」
というのも、
「ずっと、伊東教授の苦しんでいるところを後ろから見ていて、伊東教授が、何について苦しんでいるか?」
ということも分かっていたからではないだろうか?
歴史研究において、山岸教授は、
「やり方としては、基本的には伊東教授の考え方を陶酔していくつもりだ」
ということであった。
だから、時々は、自分のやり方を、伊東教授に話をして、
「聞いてもらっている」
ということを繰り返していた。
しかし、
「伊東教授の意見を聴く」
ということを求めているわけではなかった。
ただ、
「聞いてもらう」
というだけのことで、そう、
「歴史談議に花を咲かせる」
ということであったのだ。
歴史談議というものは、
「歴史好きの大学生が、深夜、夜を徹して、自分の意見を話合うということが楽しい」
というようなもので、
「一つの意見から、二人の話に花が咲いてきて、それが、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
というようなものであった。
これは、あくまでも、
「考え方」
ということで、実際には、そんなことはない。
特に、似た考えや、発想の持ち主が話合っているのだから、結局は、どんなに途中が違っているとしても、結論は同じところに戻ってくる。
そうでもしないと、却ってストレスが溜まってしまって、
「せっかくの歴史談議が、自分の意見を惑わすことになってしまう」
と考えるからであった。
それだけは、なるべくしたくはない。
そんなことをしてしまうと、好きな歴史という学問が、
「何か汚されてしまう」
ということに繋がってくるのではないだろうか?
これが大学生であれば、
「いろいろな意見があっていい」
ということで、自分の中の意見が膨らむという考えから、
「それも楽しい」
と思うのだろうが、
「これが研究者」
という立場からであれば、
「そうもいかない」
というのが、無理もない考えなのではないだろうか?
「伊東教授と山岸教授」
それぞれに、
「師弟関係」
といってもよく、山岸教授が、
「後継者」
ということになるのであるから、話を合わせるというのも、お互いに必要なことであり、それをわきまえている、伊東教授は、
「決して、自分の意見を言おうとはしない」
のであった。
これは、
「自分が教授として歩んできた中で学んだことだ」
といってもいいだろう。
伊東教授が、
「歴史研究に勤しんでいる」
という時にも、自分にとっての、
「師匠」
といえる人がいて、その人と話をよくしたものだった。
しかし、その時、師匠は決して、自分の意見を言おうとはしなかったわけだが、その理由について、伊東教授は分からなかった。
しかし、
「引退を考えるようになってから」
というもの、その気持ちが分かるようになった。
だから、今も、弟子である山岸教授相手に、
「決して自分の考えを押し付けてはいけない」
と思うようになった。
「そもそも、歴史研究の極意」
というのは、
「人から聞くものではなく、自分から見つけ出すものだ」
と考えたからだ。
それは、
「本当に作り出す」
という必要があるわけではない。
「自分で見つけたものであれば、それがオリジナルである必要はない」
といえるのだが、伊東教授は、
「それが分かっていながら、自分には承服できない」
と感じた。
それは、教授の考え方の優先順位というものが、その最上級にあるものというのが、
「自分の中のオリジナル」
というものにあるという考えを持っているからで、
「これが、歴史研究に限界を感じた」
という理由の一つなのかも知れない。
「歴史研究というものが、人に与える影響は、他の学問に比べてかなり大きなものではないか?」
と考えるようになったのだが、その理由の一つとして、
「オリジナリティ」
というものが、簡単に受け入れられないからである。
「真実は確かに一つかも知れない」
しかし、
「その一つを、絶対に一つしかないものだと考えると、結局はその答えにいきわたることはできない」
それこそ、
「歴史が答えを出してくれる」
ということは、
「その答えは、自分が見つけ出す」
ということになるに違いない。
ということであろう。
「伊東教授と自分とでは、考え方も違えば、研究のやり方も違う。同じだったのは、最初だけのことで、それは、自分が、天邪鬼だからなのではないだろうか?」
という思いを、山岸教授はずっと思ってきた。
しかし。
「そもそもが違っていただけのことではないか?」
と感じるようになったのは、
「伊東教授の引退」
という時だったというのは、皮肉なことであろうか?
「いや、これこそ、必然といえる考えではないだろうか?」
と考えるようになったのであった。
伊東教授は、自分の引退をまわりに結構長い間、ひた隠しにしてきた。ほとんどの人が、
「青天のへきれきだった」
と思っていて、あとから、
「だいぶ前から考えていた」
という伊東教授の、その常葉に、驚きを隠せない人も結構いたのも事実だった。
しかし、そんな中でも、
「実は知っていた」
という人も数人いたのだが、そんな中で、実際に伊東教授から、話を聞いていた人間は、山岸だけだった。
その頃は、山岸は、准教授で、一番伊東教授と話をしていたのも、山岸だった。
ちょうど、教授が引退すると言い出す2年前だったのだが、その時、
「私は、山岸君が、教授になったタイミングで、発掘研究を引退することにするよ」
というのだった。
山岸は、どういうわけか、教授の気持ちが分かる気がした。それは、教授の表情を見ることで、
「教授の気持ちが分かる」
と思ったのだ。
その言葉のどこに、気持ちのその根拠があったというわけではない。ただ、話をしていて、しいていえば、
「俺ならこんなことを言い出せば、引退を考えるかもしれないな」
と感じたのだ。
「言葉から感じた感情だが、逆に、感情から言葉が出てくるとすれば、他にはないのではないか?」
と感じたことからも、
「間違いない」
と思ったのだろう。
二人は、よく一緒に飲みに行ったものだった。
研究員から教授を飲みに誘うなど、
「なかなか難しい」
といわれるほどの、研究室での上下関係だった。
伊東研究所はまだマシな方で、他の研究室では、教授と研究員との間の狭間というのは、なかなか埋められるものではなかった。
しかも、教授と研究員の間に少しでも考え方に溝のようなものがあれば、一緒に飲みに行くなど、自殺行為のようなものだ。
教授はもちろん、一介の研究員であっても、彼らには彼らのプライドのようなものがあり、話がいったんこじれてしまうと、特に酒の席などでは、収拾がつかなくなるということも少なくない。
これが、
「一般企業などであれば、営業職などでは、よく心得ているというもので、一定の我慢は慣れているので、歯止めが利かないなどということはない」
といってもいいだろう。
しかし、研究員は、なまじプライドばかりが高く、お互いの考えを押し通す。
片方が持論を振りかざすと、研究員の立場であっても、
「これは譲れない」
と思うと、引き下がるということはない。
そうなると、歯止めが聴くはずもなく、仲裁に入る人間もいなくなる。
「やりたいようにさせるしかない」
ということで、店に迷惑が掛からないようにするために、表に誘い出すくらいしか、まわりの人にはできないだろう。
そうなるくらいなら、
「考え方が違う人を一緒に酒の席で同席させるわけにはいかない」
というものである。
同じ研究所の同僚であっても、同じで、
「逆に同僚だからこそ、許せない」
というところがあるというものだ。
そんな研究所の雰囲気を、
「伊東教授も、山岸准教授もよく分かっている」
というもので、だからこそ、
「伊東教授は、もう我慢の限界に来たのかも知れないな」
と思ったのだ。
実際に、伊東研究所員というのは、結構、
「癖つよ」
と呼ばれている人が多く、しかも、
「融通の利かない」
という人も多い。
そんな連中をまとめようとすると、その苦労は計り知れないことだろう。
それを考えると、
「私には、もう無理な気がするんだよな」
と、実はさらに数年前から、弱音のようなものを吐いていた。
まわりの研究員は、それを真剣には聴いていない。
実際に、そんなことを言いながらも、最後まで勤め上げる人はたくさんいた。
逆に、
「愚痴をいうことで自分の気持ちを押し出すことができるので、言いたいだけいわせておけばいい」
というのが、部下側の見方だった。
実際に、伊東教授も、上司をそんな目で見ていたひとりだったので、
「まさか、自分が同じような愚痴をいうようになるとは」
と思いながらも、
「年を取ったんだな」
と、
「誰もが通る道」
という感覚で、考えているだけだった。
しかし、次第にその気持ちが本気になっていくのを思うと、今度は、
「自分で自分を信用できなくなった」
と思えてきた。
「冗談ではなくなってきたということか?」
と考えたが、そうなれば、今度は、
「この気持ちを誰にも悟られてはいけない」
と思ったのだ。
誰かに相談して解決できるようなことであれば、もっと前からしている相談だった。
しかし、そんなことができないことは自分がよく分かっていて、
「いまさら誰かに相談などすると、却って自分の立場が悪くなるだけで、まわりから、こんな人だと思わなかったと思われて、自分の思っていた方向とまったく違う方向に行ってしまう」
と考えると、
「自分の考えていることが、不安でしかない」
と思うようになってくるのだった。
「年齢が50歳を超えてくると、もう引退の二文字が浮かんでくるのを避けることができなくなってな」
と、伊東教授はいう。
教授は、弱音を吐かないというタイプではない。
ただ、
「自分の考えていることを、あまりまわりに話す方ではない」
ということで、まわりからは、
「何を考えているか分からない」
と思われていた。
もっとも、その方が、
「学者肌だ」
ということで、まわりも、納得するというものだ。
「自分もあの年齢になると、あんな感じになるんだろうな」
と、誰もが感じるであろう、
「反面教師」
という意味では、伊東教授は、
「まさにその通りだ」
といえるのではないだろうか?
伊東教授は、誰が見ても、
「一匹狼」
といわれるタイプで、わがままで、天邪鬼なところがあったが、
「さすが、歴史研究の教授」
ということで、まわりから、一目置かれる方に見えていた。
これは、伊東教授にとっては、ありがたいことであり、
「まわりが、都合よく勘違いしてくれているようだわい」
ということで、安心できることであった。
ただ、そんな伊東教授の本質を見抜いている人がいた。
それが、山岸研究員で、研究員の間は、
「自分が見抜いている」
などということを、一切おくびにも出さず、一見、
「教授に興味はない」
という雰囲気だった。
他の人は、
「教授の逆鱗に触れないように」
と、怒らせないようにすることだけに躍起になっていたが、山岸だけは違っていた。
「教授のことは気にしなければそれでいいんだ」
という程度で、教授に気を遣うこともなかったのだ。
教授も最初はそんな山岸研究員に対して、
「上司に気を遣わないなんて」
と、少し嫌な気分でいたのだが、実際に話をしてみると、
「いやいや、そんな人ではない」
と思うようになった。
まわりが、変な気を遣い方をすることに慣れていたからだったのだが、
「山岸は変わったやつだ」
ということで注目していると、
「かゆいところに手が届く」
という男であることが分かり、
「逆に、こんなに気を遣ってくれているなんて」
と思うようになったのだ。
「相手が気づかないような気づかい」
というものほど、
「相手にありがたいものはない」
ということを、
「この年になって思い知った」
と感じた伊東教授は、山岸に感謝の気持ちでいっぱいだった。
准教授になれたのも、伊東教授の、
「影の努力」
というものがあったわけで、もちろん、本人の努力もさることながら、お互いの気持ちが合っていたことで、発表した論文が、かなりよかったのだろう。
実際には、伊東教授の、
「影の努力」
というものがなくとも、山岸の才能だったのである。
准教授になった山岸は、
「名実ともに、研究所のナンバー2」
であった。
実力は、伊東教授に負けず劣らず、しかも、
「自分の研究もさることながら、参謀としての役目もしっかり担っていた」
ということで、実際に、山岸の実力を伝え聞いた他の大学の研究所から、
「引き抜きがあった」
というのも、事実のようで、
「でも、私はこの大学で身をうずめます」
ということを言って、すべてを断ってきた。
そうなると、教授の椅子もそんなに遠いものではなく、伊東教授に、
「君が教授になった時が、私の引退の時だ」
といえるだけの、ハッキリとした道筋が見えていたのだった。
山岸准教授も、自分の実力を把握していた。
他の人のように、
「傲慢にならないように」
ということで、
「自分を自慢しない」
という意識を特に持っているわけではない。
むしろ、
「俺が自信を持つことで、研究所が盛り上がるのであれば、それの何が悪いというのか?」
とまで思うほどに、
「傲慢さ」
という感覚とは縁遠いタイプの人間だったのだ。
そのことを一番分かっていたのも伊東教授であった。
「お互いにお互いのことを分かっている」
と思うことが、
「研究においても、人間関係においても、これ以上の仲はないだろう」
という思いが二人の間にはあったのだ。
その感情をまわりは、
「二人だけの世界があって、まわりには分からない感覚なんだろうな」
ということで、賛否両論であった。
普通であれば、
「いい関係だ」
と思うのだろうが、研究員の中には、
「次の准教授は俺だ」
とばかりに、出世欲の塊のような人間もいる。
それが、
「研究所」
というようなところなのだろうが、それも間違いではなく。
「それくらいの気概がないと、研究所では上にいけない」
ということになるだろう。
そんな関係を、
「まるで、平安京の貴族のようだな」
と感じている人も多いだろう。
どうしても、
「歴史をかじったことがある」
というくらいの人は、
「華々しい歴史の表舞台にだけ目が行ってしまう」
ということで、
「源平合戦」
であったり、
「戦国時代」
「幕末」
という時代に興味を持つだろう。
最近では少なくなってきたが、民放における、年末年始の時代劇スペシャルなどという番組では、これら3つのうちのどれかの時代をテーマにして、ドラマを作ったりしたものだ。
特に、
「戦国時代の三英傑」
と呼ばれる、
「織田信長」
「豊臣秀吉」
「徳川家康」
などというと、そのテーマに乗りやすく、以前は、それなりの視聴率を稼いでいたといってもいいだろう。
だが、伊東教授は、その時まで一貫して、
「誰か一人の歴史上の人物に対してスポットライトを当てる形での研究」
ということを行ったことはなかった。
どちらかというと、
「事件」
であったり、
「戦」
などというものに焦点を絞り、しかも、
「ある一点から、まわりにどんどん視野を広げていく」
という独特の研究方針を持っていたのだ。
だから、発掘研究なども、ピンポイントなところから始める。
「なんでここなんだ?」
と、他の研究員はもちろん、学会などで発表した時、その発表内容に、違和感を感じないという人も少なくはなかった。
実際に古代史の研究をしていた時のことであったが、その研究内容として、
「大化の改新からあと、平城京までの数々の短期間での遷都」
というものに、焦点を当てていたことがあった。
「確かに、謎だとはいえるが、あれは、百済問題であったり、律令制度がなかなかうまくいかないということから、やむを得ないということがあったからではないあk?」
ということで、
「わざわざ研究対象にすることはない」
ということになっていた。
しかし、実際に、
「本当にそうであろうか?」
と教授は考えた。
「やむを得ないという場面もあるだろうが、あれだけの遷都をするには、金もかかるし、人もいる。大化の改新という大事業に金も労力もかかるのが分かっていながら、遷都という大事業をそんなに何度も行うというのは、度が過ぎてしまうと、そこに何らかの計算があったと考えて、無理もないのではないか?」
というのが、教授の考えであった。
「確かにそれも言えるかも知れない」
と、半信半疑であったが、研究員は、教授についていった。
実際に、新たな学説が生まれ、それなりに、
「一つの説」
ということで、学会でも認められたことで、教授の知名度が少し上がったといえるのっではないだろうか。
とはいえ、
「しょせんは、一つの説」
ということで、
「ここまでかな?」
として、そこで満足をする研究員が多かった。
教授とすれば、
「大満足だ」
ということで、表情は、
「してやったり」
ということであるが、
「研究員としては、今後の研究に期待が持てる」
ということで、
「今後の可能性」
を考えると、
「これくらいの研究がちょうどいい」
と感じるようになっていた。
そんな時、いち早く准教授になり、次の教授の椅子が一番近いところにあると言われる、
「山岸准教授に期待する」
という人も多かった。
誰が見ても、その構図に変わりはないことで、
「この研究所は安定している」
と思っていた。
そういう意味では、
「伊東教授が引退する」
という宣言も、まわりからすれば、
「あり得ることだ」
ということでもあった。
むしろ、
「最初から敷かれていたレールだったんだ」
と思っている人も多く、
「そこに、何ら計算もなかったのではないか?」
と考える人が多かった。
それが、伊東研究所の、
「伊東教授たるところ」
ということで、
「何も言わないことをいきなり行う」
という教授に対して、
「ああ、またか」
と思わせるのは、
「いつものことだった」
といってもいいだろう。
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