第6話「今えっちなこと考えていたでしょ」

海へ行けば、稲垣絢いながきじゅんに会えるはずだ。

持ち帰った絢のジャケットを紙袋にさげて、いつものベンチに腰掛ける。彼女と会える保証はない。適当な時間までここで過ごして、来る気配が無ければ帰るつもりだ。


「ねーひどいよ、さっきから」


肩をぽんぽんと叩かれる。気が付けば稲垣絢が背後から覗き込んでいた。

イヤホンを装着して英語のシャドーイングをしていたせいで全く気配に気が付かなかった。


「風邪ひかなかったー?」


当然のように彼女は隣に腰掛ける。失礼にあたらなように、すぐるもイヤホンを耳から外した。


「音楽聞きながら勉強する派なの?」

「え、と、これはシャドーイングです」

「シャドーイングとかしてるんだ、偉いねー」


優は紙袋を持ちあげて絢に差し出した。


「……この前はありがとうございました」

「あーわざわざごめんね」


絢は袋の中を確認し、にこりと微笑んだ。

先週借りたジャケットは一度クリーニングに出して綺麗にした。クリーニングに出せば順の匂いは消えていて、それがなぜか寂しく感じた。


「今日少し時間ある?」

「え、な、何でですか?」

「ここ寒いしさ、お菓子食べて温かいお茶飲みながら話そうよ」


駅の近くにあるファストフード店へ誘っているのだろうか。あそこは人が多くて優は好きじゃない。


「マックとか、に行くんですか?」


優が首を傾げると、彼女はくすりと笑って首を振った。


「ううん、この近くの家」


また、涼奈さんとやらのアパートへ行くのだろうか。そう何度も、見ず知らずの人の家にはあがれない。この前は通り雨という災難に見舞われたからやむを得ずお言葉に甘えたまでだ。


「留守でも自由に出入りしているから、ほら、鍵も預かってる」

「申し訳ないので、大丈夫です。帰ります」

「そんなこと言わずにさー」


彼女はへらへらと笑いながら優の肩に腕をまわす。

その腕から逃れなければいけないはずなのに。何故だか優の身体は思うように動かない。


「……すぐ帰りますから」

「うん、分かったよ」


稲垣絢は嬉しそうに笑い、優の荷物を持って立ち上がった。カバンを人質に取られた心地がしながら彼女の後ろへついていくと、似たような学生マンションへと辿り着いた。


絢が学生証をかざすと、エントランスの扉が開いた。


「それ、絢さんのじゃないですよね?」

「うん、友達の。大学の友達で、よくお互いの家行き来してるんだ」

「ほ、本当に私のこと連れ込んで大丈夫なんですか?」


後戻りするなら今だ。

最終確認をしても絢は軽い口調で「大丈夫」との一言のみ。大学生とはそういうものなのだろうか。親元から離れてひとり暮らしをする人は、こうして友達を気軽に家へあげるのだろうか。


「じゃあお菓子だけ食べよう、ほら」


彼女は先ほどまでこの部屋にいたのだろうか。暖房はつけっぱなしで部屋は温かい。


「飲みかけのカフェオレでいいならこれも」

「あ、ありがとうございます」

「お菓子はねえ、抹茶のクッキーがあるよ」


お菓子を食べる気にはなれない、これはきっと家主が食べるべきものだ。

絢の飲みかけのカフェオレだけをいただいて適当な場所へ座り込んだ。


「……人の家そんなに自由に使っていいんですか?」

「うん、まあ、そうだね」


彼女は抹茶のクッキーを頬張る。まるで自分の家かのようにリラックスしている。


「みんな家にあげてくれるよ。まあ私も家にあげてるし」

「そうなんですか……」


稲垣絢は背伸びをして肩を軽く叩いた。

「うーん、ちょっと凝ってるかも」と呟きながらこちらをちらりと見た。


「ねえ、肩揉んでよ」


何の脈絡もない唐突な一言。


「……突然過ぎません?」

「優のカバン持ったら肩凝っちゃたー」


ふざけた言いがかりだ。

またもや優のことをおちょくろうとしているのだろうか。無視をしていてもめげずに肩揉みをせがんでくる。


「1回だけでいいからさー」

「……何が目的なんですか……」

「優に触ってもらいたいだけだよ」


意味が分からない。適当に数回肩をほぐして、さっさとお暇しよう。


彼女の背後に回り込み、両肩に手を添える。


「そこ、背骨スーって触るやつ苦手」

「……別に触りませんって」


力加減に困りながら弱い力で首近くを揉んでみる。


「う、なんかくすぐったい」

「絢さんどこもかしこもくすぐったいんですね」


『くすぐったいところって性感帯になるらしいね』


彼女の言葉を思い出す。この理論で考えれば、彼女は殆どが性感帯になりそうだ。


「あ、今えっちなこと考えていたでしょ」

「……考えていません」

「なんだー? 今の間は」


目敏い彼女はすぐに優を揶揄ってくる。


「神経が感じるようにたくさん触ればいいんだってよ」


話の流れで、彼女が何の話をしているのかは容易に想像がついた。


「……それって本当にそうなんですか」

「うん、本当だよ」


彼女は断言した。


「だってめちゃくちゃ感じるようになったし」


稲垣絢は自身の首元をなぞった。

どくん、と心臓が大きく跳ねる。下腹部に熱が溜まり、指先から目が離せない。じわじわと頬に熱が溜まっていく様子が自分でも分かった。


「じ、自分でそれ言いますか……?」

「だって興味ありそうだったから」


図星だがこれを認めてしまっては自分の名誉にかかわる事態だ。優は勢いよく首を横に振った。


「……ないですよ、そんなこと」

「やだーえっち」

「じゅ、絢さんだって自分で触ってたんでしょ」


思わず丁寧語が取れた。だがそんなことは構わず彼女の言葉を訂正する。


「ううん、ここは触ってもらったんだよ」


絢はどこか懐かしむような顔をして、胸元をゆっくりとなぞった。まるで誰かを思い出しているようだった。手つきがいやらしくて、目を逸らしたいのに引きつけられてしまう。


って言われたんだよね」


あまりの卑猥な発言に、思わず唾を飲み込んだ。


「……実験」

「どれくらい、どんなふうに触ったら感度が上がるのかって」


また遠くを懐かしむような顔を見せる。

優には、彼女が過去の誰かを思い出しているようにしか思えなかった。

きっと、稲垣絢の身体に触れた人のことを想っているのだ。身体を弄り、実験感覚で触れた人。


「……そう、ですか」


邪念を振り払おうと力を込めて親指を押し込んだ。先ほどとは比にならない力加減。


「ん、気持ち、けど痛い」

「あ、ごめんなさい。力加減が……」

「いや、なんか、あれ……?」


絢は背中を捩る。背中に違和感が出るほど強く揉みこんでしまったのだろうか。


「なんか痛いな、肩というか背中というか」

「……ちょっと見てもいいですか」

「いーよ」


絢の了承を得て、シャツを引っ張って隙間から服の中を覗き込んだ。


「――え」


水原優は目にしたものに驚き、動きを止めた。



――背中には引っ搔き傷と、噛み跡、そしてキスマークが散乱していた。



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