第7話「せ、性行為、の跡」

爪の引っ掻き傷、噛み跡、そして鬱血痕。

これらが一体何の跡なのか、色恋沙汰に疎いすぐるにもすぐに分かった。


――セックスの跡だ。


鬱血痕には消えかかったものもいくつかあるが、肩付近に散りばめられたものはどれも新しい。噛み跡だってそうだ。妙に新鮮で生々しいまぐわいの跡を見て、狼狽えない人間がいるのだろうか。


「……どうかした?」


優の異変に気がついて、稲垣絢いながきじゅんは声をかける。どくんどくんと心臓が脈打つ。


「あ、もしかして」


絢は平然としながら上体を起こした。腕を背中にまわして肌を確認し、歯形や爪痕を見つけたようだ。情事の痕跡を見られたことは、彼女にとって特段大したことではないようだ。


涼奈すずなかな、たまーにこういうことするんだよねえ」


その名前には聞き覚えがある。雨宿りの際、お邪魔させてもらったアパートの家主の名前。稲垣絢はそこで寝泊まりをしていた。これはつまりそういうことだろうか。


「ごめんね。引いちゃった?」

「い、いえ……」


こんなに美しい人とセックスする人がいる。顔を知らない「涼奈」さんとやらをとてつもなく羨ましく思った。


「誤魔化したいけど何の跡かは分かるよね、流石に」

「……」


無言を肯定と受け取ったのか、彼女は妖艶な笑みでこちらを見つめる。

優には、彼女が何を考えているのかさっぱり分からなかった


「言ってみて?」


頬を撫でられる。

思わず顔を見つめると、チャームポイントの涙ぼくろがチラついた。


「……せ、性行為、の跡……」

「ふふ、正解」


満足そうに口を上げた彼女は、顔を近づけて優の頬にキスをした。触れるだけの軽いキス。たったそれだけのことで顔から火が出るほどに恥ずかしくなった。


「それ、痛くないんですか……」

「まー若干? ピリピリするけど」

「……そ、うですか……」


こんなに傷を残すほどに稲垣絢とのセックスは気持ちがいいのだろうか。背中を今一度確認する彼女から目を逸らす。


「うわーこれしばらくえっちできないな」


言葉をなくした優をよそに、絢は立ち上がって洗面所へと赴いた。ちらちらと鏡を見ながら背中に残る情事の跡を確認する。


「今日何日だっけ」

「……15日、です……」

「うーん、まあギリ消えるかな」


彼女は顔を顰めながら何かを考えている。この部屋が纏う空気に耐えられない、優は手荷物を静かにまとめ始めた。


「……お風呂入った時に気がつかなかったんですか」

「あー今朝急いでたからね」


今朝、ということは昨日の夜。


昨日の夜、稲垣絢は「涼奈」さんとセックスをしたのだ。

彼女の裸や上気した顔を見た人がいると思うと、なんとも生々しい


「……涼奈さんって人は」

「んー?」


鏡に向き合って前髪を全部上にあげる。彼女の端正な顔立ちがはっきりと見える。

あの顔が快楽に晒された時、どんなふうに歪むのだろうか。どんな声をあげて、どんなふうに身体を捩るのだろうか。

得体の知れない興味が湧き上がり、優は首を振った。


「……彼女さん、ですか?」


稲垣絢はどこからどうみても生物学的に女性だ。彼女の身体つきは丸みを帯びていて柔らかく女性らしい。


「うーん、まあ、ねえ」


絢は自分の顎を触りながら言葉を濁す。


「女性同士でも驚かないんだね」

「え、あ……」


優は恥ずかしくなって下を向いた。誰にも知られたくない秘密を目の前にいる彼女は暴こうとしている。


「私そういうの分かるんだよね」

「……そういうのって……」

「優もさ――」


彼女はゆっくりとこちらへ足を運び、手を伸ばして紅に染まった優の頬を撫でる。だんだんと距離を詰めて、優の表情を読み取るように顔を近づけた。


「女の人が好きでしょ」


その言葉に、心臓が嫌な音を立てた。


「……ち、がいます、違います」

「否定しなくてもいいのに」


両頬を挟まれ、顔を覗き込まれる。自分の真意まで見抜かれてしまうのではないかと怖くなった。


「自分の心に素直に従いなよ」


稲垣絢はゆっくりと顔を近づけて唇と唇との距離を縮める。その唇から逃れるように、優は顔を逸らした。


「か、彼女がいるのに……最低、です」

「涼奈のこと? 大丈夫だよ」


――不倫していた父親のことを思い出して、心底吐き気がした。


「……は、離して、ください!」


力いっぱい両腕で絢の身体を押し返した。


「最低、です……!」


思い出したくない人のことを思い出して、優の瞳に涙が溜まる。もう金輪際、この人には関わりたくない。急いでカバンに手を伸ばす。


「優、待って」

「……もういいんです、さようなら」

「違うよ、待って」



優は震える手でカバンを掴み、絢の制止を振り切ってドアへと駆けた。

暖房の効いた部屋の熱気が背中にまとわりつくなか、勢いよく扉を開けて外へ飛び出した。


――もう稲垣絢には会いたくない。こんなところへは二度と来ない。


そう強く思いながら、彼女への未練を断ち切るように優は走って帰路についた。冷たい風が頬を叩くたび、彼女のキスが脳裏に蘇った。

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