第5話「なーんかSっ気あるよね」

カーデガンを羽織らなければなかなかに堪える季節となった。

当然海の風も身体を冷やすが、構うことなく気分転換に訪れた。すぐるが自分の気持ちを素直に吐き、自由に過ごすことができる場所は少ない。湿度の高い、生ぬるい風が不快感をもたらす。


「おーい」

「あ、じゅんさん……」


背後から声をかけられても誰の声か認識できるほどには彼女にだって慣れてきた。どこから現れているのか、気がつけば階段付近に彼女は立っていた。

クリーム色は変わらないものの、前髪や横髪、後ろ髪も全体的に伸びた稲垣絢。遠目から見ても一目でわかるほどには、今日の彼女も輝いている。


「なんか雨の匂いがするねえ」


手のひらを上に向けて気だるそうに絢は降りてきた。つられて空を見上げると、いつの間にかどんよりとした曇り空になっている。


「あ、ほら」

「えっ」


ぽつぽつと大粒の雨が降ってくる。絢は手を広げ、空を見上げた。黒い雲がどんどん流れており吹き付ける風も雨の匂いを内包している。


「通り雨かなー。向こうは晴れているもんね」

「そ、うですね……」


呑気に向こうの空を眺める絢を横目に、優は身支度を始める。この季節、通り雨に降られてはたまったものではない。


「優はお家近い?」

「え、と……歩いて20分弱くらいです」

「うーん、じゃあ家おいで」


彼女はスマートフォンを取り出して、誰かに連絡を入れている。だが、彼女の家はここ周辺ではないはずだ。そこまで移動する時間があれば自宅へ戻ることができる。


「いや、大丈夫です……あの、帰るんで」


バックを持ち上げ一刻も早く出発しようと踵を返したところで、ぐん、と腕を引っ張られた。


「受験生が風邪ひいちゃだめだよ」


稲垣絢は身につけていたジャケットを脱ぎ、優へと頭から被せてくれた。彼女の温もりとフレグランスな香りが優を包み込んだ。


「徒歩5分くらいで着くから」

「えっちょっと……」


優の腕を引いて稲垣絢は走り出した。雨水を含んだ海の砂は重たく、足がもつれそうになる。

階段を上り堤防沿いに少し進むと、小さなアパートへと転がり込む。幸い優はほとんど濡れなかったが、目の前の彼女は顔から雨水が滴り落ちるほどに濡れていた。


「か、風邪ひかないでくださいね……」

「大丈夫だよ。えーっと電気どこだっけ」


キョロキョロ周りを見渡した彼女は、ようやく部屋の明かりを灯した。ベッド、洋服ダンス、備え付けの机に小さなキッチン。


「絢さんの家、ですか……?」

「んーとね、友達の家」

「えっ……それ私のこと家にあげて大丈夫ですか?」


自分だったら、友達といえど見ず知らずの人を自宅へ招かれるのはまっぴらごめんだ。


「さっき連絡入れたし、雨止んだらすぐ帰るでしょ」


絢は優を招き入れ、どこからか取り出してきたハンドタオルで濡れた頭をわしゃわしゃと拭く。手持ち無沙汰に優は角の方に腰を下ろした。


「あの、ジャケットは洗って返します」

「うん。また優に会う口実ができてラッキーだね」

「……なんですか、それ」


彼女は他人の家にもかかわらずベッドに寄りかかって一息つく。


「ねえ、隣おいでよ」

「……家主さんに悪いので……」

涼奈すずなはそんなこと気にしないって」


家主の名前だろうか。

手招きに誘われて、重たい腰をあげて彼女の隣に座り直した。もちろん、背中をベッドにつけないように細心の注意を払いながら。


「ね、お腹拭いて、ここ」

「え……」


優に無理やりタオルを持たせ、絢はシャツを上に捲りあげた。白い生肌とうっすらと割れた腹筋が露わになる。無防備なお腹を晒して、まるで媚びているかのように上目遣いで優を見つめる。彼女の意図はなんだろうか。


「お願い」


雨宿りをさせてもらっている手前、断ることもできずに大人しくタオルを受け取った。シャツの下に手を潜り込ませ、適当に何回かタオルで軽く叩く。水気が取れているのか取れているのかも分からないが、一刻も早く終わらせたかった。


「腹筋なぞってみて。あ、指でね」

「……いや、です……」

「嘘つけ。さっきからめちゃくちゃ視線感じる」


その挑発的な笑みに唆されて、優はなだらかなお腹へと手を伸ばした。

お腹の表面を軽く指の腹で撫で、つう、と上にまで指を動かす。たった1本の線をなぞっただけで彼女は息を漏らした。


「ふ、ふふふ」


両手を腹に這わせ、左右に動かしてみた。


「ん、は……くすぐった」


彼女は優の手のひらから逃れるように身を捩る。ただ表面を軽く撫でているだけなのに、どこがそんなにくすぐったいのだろうか。


「ぃ、あ……ちょ、っと」


両手を端まで動かしてわき腹を揉みこんでみると、目に見えて絢の身体は飛び上がった。彼女が寄りかかっていたベッドが軋む。


「え、待って、ちょっと……ぅあ」


艶の混じった笑い声。その声につられるように、優の身体も熱を帯びる。これ以上は自分の何かを呼び覚ましてしまう気がして、優は急いで手を離した。


「あ、すみません……」

「……は、絶対わざとでしょ今の」


絢はわざとらしく咳ばらいをした。手で口元を覆っているが、上気した頬は隠せていない。余裕たっぷりの彼女を、こんな姿にしたことで優の中で何かが沸き起こる。


「もーやだやだ」


絢は大の字になってベッドへ倒れ込んだ。脱力した身体がシーツの海に沈む。自業自得のくせにまるで優が悪いかのような言いがかりだ。


「優ってさ、なーんかSっ気あるよね」

「……そんなこと、ないです」

「でもいいよ。そういうところも受け入れるから」


ちらりと色っぽい瞳で優を見つめる。視線が交錯してしばし沈黙が流れた。心臓の音が彼女にまで聞こえてしまうのではないかと余計に緊張してしまう。


「雨止んだかな?」


アパートの天井を見つめたまま絢は呟いた。気がつけば、雨音はほとんど聞こえなくなっていた。


「受験。これからどんどん忙しくなるよね」

「……まあ、はい」


閉じられていたカーテンを開けると、そこには海が広がっていた。優がよく黄昏ているベンチも見える。先程までは真っ黒だった雲もいつの間にか太陽の光が差し込んでいる。


「天気はどう?」


稲垣絢は太陽の光で眩しそうに目を細める。


「……止みました」

「もう帰るよね。家まで送ろうか?」

「いえ、大丈夫です。絢さんは……?」


絢はベッドから身を起こす。寝転がったせいで後ろ髪が跳ねていてそれがまた可愛らしいなと思ってしまった。


「私は今日ここに泊まるから」

「……仲良いんですね」

「ふふ、優も大学生になったら泊めてあげるよ」


彼女は伏し目がちにそう呟いた。なぜだか色っぽい空気を纏った彼女は口角を上げる。


「いつもここの窓から優のこと待っていたんだよ」


彼女はベッドから起き上がり、窓の外を眺める優の隣へと近づいてきた。よく優が座っているベンチを指差す。


「……ストーカーじゃないですか」

「やだなあ、違うよー」


へらへらと掴めない表情で彼女は笑った。密室、肩のぶつかる距離間で。落ち着きを取り戻していたはずの心臓が再び大騒ぎの準備を始める。


「じゃ、じゃあ失礼します……」

「うん。風邪ひかないようにね」


玄関口に置いていたカバンを掴み、借りたジャケットを手に持つ。「失礼します」と振り返って頭を下げる。


「受験頑張ってね、応援しているよ」


窓にもたれかかった稲垣絢は、穏やかな表情で水原優を見送った。




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